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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2024/10/04

イスタンブールの七つの丘


ローマにいる時に七つの丘を意識して眺めたことはない。イスタンブールでは海を隔てて
旧市街を眺めることができるが、ぽこぽこと「丘」があるようには感じなかった。ただ旧市街は小さな半島のように突き出ていて、トラムT1線から道路の交差点を眺めると、下り坂となっていてマルマラ海が見えることがあるので、坂の上にいる程度には感じていた。

『トルコ・イスラム建築』は、イスタンブル市壁内には七つの丘がある。テオドシウスの市壁を建設した後に、ローマ市内にある七つの丘に対抗して、「コンスタンティノープルの七つの丘」として数え上げられた丘であるという。
ということは、コンスタンティヌス帝がこの地に、いや半島の端に都を置いた頃は、もっと小さな街だったので、七つの丘は意識していなかったのだろう。

第1の丘から第6の丘までの六つの丘は、金角湾にほぼ平行に沿って、トプカプ宮殿が建っている丘からエディルネ門まで細長い山脈状に連なっている。
この丘の連なりの北側すなわち金角湾側は、大きく五つの谷が食い込んでいるので、六つの丘の広がりが舌状に出ている。第3の丘と第4の丘の間が最も低い鞍部になっていて、金角湾側の波止場ウンカパヌとマルマラ海側の波止場イェニカプを結ぶ通りの峠になっている。そこにヴァレンスの水道橋が架けられている。
南側には、市壁の西側からバイラムパシャとアクサライを経てイェニカプに達する幅広い谷間が広がり、昔は川が流れていた。この谷の南西側には台地が広がり、そこが第7の丘であるという。

同書にはこのような図(白黒に着色)があったが、①・②・⑮以外はオスマン帝国時代の史跡である。

➊-➐七つの丘
①トプカプ宮殿 ②アヤソフィア ③イブラヒムパシャ邸 ④スルタンアフメットジャーミイ ⑤カドゥルガ、ソコルルメフメトパシャジャーミイ ⑥カパルチャルシュ(グランドバザール) ⑦ベヤズィットジャーミイ ⑧エスキサラユ(古宮殿) ⑨スレイマニエキュリエ(モスクと複合施設) ⑩シェフザーデジャーミイ ⑪ヴァレンス水道橋 ⑫ファーティヒキュッリエ(アギイ・アポストリ聖堂跡) ⑬ヤウズスルタンセリムジャーミイ ⑭エディルネカプ、ミフリマースルタンジャーミイ ⑮テオドシウス市壁 ⑯カラアフメットパシャジャーミイ ⑰ハセキヒュレムスルタンキュッリエ ⑱リュステムパシャジャーミイ ⑲ムスルチャルシュ(エジプシャンバザール、スパイスバザール) ⑳アザブカプ、ソコルルメフメトパシャジャーミイ ㉑ガラタ塔 

⑦ベヤジットジャーミイ・⑩シェフザーデジャーミイ・⑫ファーティフキュリエがそれぞれの丘の上に建てられている。スレイマン大帝の早世した息子メフメトを忍んで建てたシェフザーデジャーミイは、その立地条件の良さから、実はスレイマン大帝のためのモスク建設用地だったのではないかと推測されているくらいだ。

この図を見ると、昔は川が流れていた谷を隔てて第7の丘の突端に⑰ハセキヒュレムスルタンジャーミイと複合施設が建てられたようだが、今日ではその川もなく、平坦で、トラムT1線からはさほど離れていない。なんといってもハセキという電停があるくらいの近さである。
「オスマン帝国外伝」というドラマでは、ヒュッレムがスレイマン大帝にモスクを建てたいと申し出て、ミマールスィナンに要請する場面があった。建設現場の場面はなかったが、イスタンブールにどんどんと人が移住してきて、その人々が礼拝するモスクが必要になった時代だったのだ。
七つの丘と主要建造物 トルコ・イスラム建築より


第1の丘を新市街のガラタポートから眺めると、左より①ディワンの角塔が目印のトプカプ宮殿、②4本のミナレットあるアヤソフィア、③6本のミナレットのあるスルタンアフメットジャーミイと、少しずつ高さが減少している。

ガラタポートから眺めると、橋や港の建物があって良くは撮せなかったが、第3の丘の斜面にある⑨スレイマニエジャーミイが墓廟まではっきりと見えていたが、⑩シェフザーデジャーミイは他の建物に隠れて、こんなにはっきりとは見えない。


では、ビザンティン帝国期の建造物はどこにあったのだろう。
『地中海紀行 ビザンティンでいこう!』(以下『ビザンティンでいこう!』)に概略図があるので、七つの丘を入れてみた。以前記事にしたものは、クリックすると出てきます。

➊-➐七つの丘
①アギアイレーネ聖堂 ②アギアソフィア聖堂 ③グレートパレス ④ヒッポドローム(現アトメイダヌ広場) ⑤ブーコレオン宮殿 ⑥アギオスセルギオスケバッコス聖堂(現キュチュクアヤソフィアジャーミイ) ⑦イエレバタン地下貯水池 ⑧テオドシウス二世の地下貯水池 ⑨コンスタンティヌス広場 ⑩テオドシウス広場 ⑪ミレレオン修道院(現ボドルムジャーミイ Bodrum Camii) ⑫ボヴィス広場 ⑬アルカディウス広場 ⑭コンスタンティヌ・リプス修道院 ⑮テオトコスキリオティッサ教会(現カレンデルハネジャーミイ) ⑯パントクラトール修道院(現モーラゼイレクジャーミィ) ⑰アギイ・アポストリ聖堂(現ファティフジャーミイ) ⑱テオトコス・パンマカリストス修道院(現フェティエジャーミイ) ⑲コーラ修道院(現カーリエジャーミイ) ⑳テクフル宮殿 ㉑ブラケルナエ宮殿 ㉒黄金門(イエディクレ Yedekule)
コンスタンティノープル概略図 地中海紀行 ビザンティンでいこう! より


➊第1の丘

『ビザンティンでいこう!』は、コンスタンティヌス大帝がやったもうひとつの改革が、遷都である。様々な思惑があって、歴史のある古都 ローマでは不便と考えた皇帝は、ヨーロッパとアジアの境に位置し、三辺のうち二辺が海に臨むビザンティオンの地に、新しいローマ帝国の都を定めるのである。ボスフォラス海峡を遡れば、船で黒海にまで出ることだって可能だ。これが334年のこと。皇帝は大急ぎで首都に必要な建物を造らせ、6年後の330年には、街を聖母に捧げる「献都式」を盛大に執り行う。ローマ人の考え方では、街を守護するのは運命の女神テュケであった。このテュケの役割を、聖母マリアに担わせてしまったことになるという。
コンスタンティヌス帝の後もこの辺りに様々な建物が造られた。それについては次回。


➋第2の丘

⑨コンスタンティヌス広場
広場とは思わなかったが、少し広くなっていた。コンスタンティヌスの柱という巨大な台座にたつ円柱が鉄の輪っかで縛られている。
『望遠郷』は、ディワン大通りの北はずれにチェンベルリタシ(輪のある柱)がある。この柱は1779年に火災にあい、焦げた柱とも呼ばれる。
コンスタンティヌス1世はコンスタンティノープル開都の330年5月11日にこの柱の除幕式を行った。当初この柱の下には斑岩の台座が、さらにその下には5段の柱脚が置かれており、この柱は合計7つの斑岩の柱身から成る柱であった。
この柱は416年に破損し鉄の輪で補強され、近年鋼鉄の輪に替えられた。頂上にはコンスタンティヌスの像をつけた柱頭が据えられ、その後巨大な十字架が取りつけられたが、それも失われた。現在この柱には6つの柱身が残されるのみであるという。


➌第3の丘

⑩テオドシウス広場
『イスタンブールの大聖堂』は、道路は昔とほぼ同じところを走っている。ここから西に向かう、市電の通る現在のディヴァン・ヨル通りが、かつてメセと呼ばれた大通りと重なる。メセの途中には、コンスタンティヌスのフォールム(広場)などの広場や、聖堂、店などが並んで、非常な活況を呈していた。昔も各国の人々が行き交う、国際色豊かな大通りであっただろう。メセは街を貫いて、市の西をぐるりと取り囲む城壁にいたるというが、どの城門に続いているかがわからない。
テオドシウス帝が造ったのでこの広場は、現在ではベヤズィト広場辺りではないかと思われる。そしてトラムT1線沿いに行くと、トルコ語でトプカプ(大砲)門と呼ばれ、ビザンティン帝国期にはロマヌス門と呼ばれた門に行き着くが、上図ではバレンスの水道橋に近い通り Macar Kardeşler Cd. はエディルネ門(ビザンティン帝国期にはカリシウス門)に向かっている。
この2本の通りが分岐するのが現在のベヤズィト広場の近くなので、ここがテオドシウス広場だろうと推測している。
イスタンブール大学周辺 Google Earth より


しかし、丘の上に建っていない修道院聖堂もある。ビザンティン帝国時代は、丘の上に聖堂を建てることに執着がなかったのだろう。

⑪ミレレオン Myrelaion 修道院
『世界美術大全集6 ビザンティン』は、中期ビザンティン建築で最も特徴的なのは方形ギリシア十字式プランである。その流布と変遷のなかで三つのタイプが見られる。第1のタイプはいわゆる典型的な方形ギリシア十字式の聖堂で、円蓋を4本の円柱が支え、平面図で見ると、正方形の中にギリシア十字を描いたプランで、それに内陣部が付加されている。
この中期ビザンティン聖堂建築における方形ギリシア十字式の典型的な例は首都コンスタンティノポリスに多く見られ、コンスタンティノス・リプス修道院北聖堂、ミレレオン修道院聖堂などがこのタイプに属するという。
アギアソフィア聖堂(アヤソフィア)のような巨大ドームの聖堂が建てられることはなく、オスマン帝国期になってから、巨大ドームのモスクが建てられたとは。
イスタンブール ミレレオン修道院外観 地中海紀行 ビザンティンでいこう!より

同書は、十字形に張り出す四つの腕の部分は筒形ヴォールトの天井を構成している。そして身廊の東側のヴォールト天井は内陣部の中央アプシスに通じる天井と連結する。内陣部は三つのアプシスからなり、東南小室はディアコニコンと呼ばれる典礼準備室で、東北隅はプロテシスと呼ばれる典礼用具室である。内陣部は他の空間と区別され、その仕切りとしてテンプロン(内陣障柵)が設けられる。それは中央通路の両側に小円柱を置き、それが横桁の楣石(エピスティリオン)を支え、下方に腰板を備えたものであるという。

平面図 『世界美術大全集6 ビザンティン美術』より
①聖堂入口 ②玄関廊(ナルテクス) ③身廊 ④後陣(アプシス) ⑤プロテシス(典礼用具室) ⑥ディアコニコン(典礼準備室)
イスタンブール ミレレオン修道院平面図 世界美術大全集6 ビザンティン美術 より


⑭コンスタンティヌ・リプス修道院
トラムT1線とファティフキュリエのある通りの間の通り(場所によって通り名が変わる)に面した修道院
『ビザンティンでいこう!』は、10世紀の政府高官コンスタンティノス・リプスの創建になると言われる修道院は、現在フェナリ・イサ・ジヤミイと呼ばれて、イスタンブールの大通りのひとつに面して建つ。パントクラトール修道院の重厚なドームに比して、こちらのドームはすらりと高く、華麗である。残ったわずかな壁面装飾は現在、考古学美術館に展示されているが、今でも内部に入れば、10世紀の大理石の浮彫りを見ることができるという。
一昔前にイスタンブール考古学博物館を訪れたときは、ビザンティン美術のコーナーには多数展示されていが、写真撮影が禁止だった。、今回こそと思って考古学博物館に出直すと、なんと修復中なのだった。
イスタンブールコンスタンティンリプス修道院外観 地中海紀行 ビザンティンでいこう!より

⑮テオトコスキリオティッサ教会(現カレンデルハネジャーミイ) 
聖堂の南面
詳しくはジャーミイのページへ


⑯パントクラトール修道院(現モーラゼイレクジャーミィ)
詳しくはジャーミイのページへ
『ビザンティンでいこう!』は、12世紀に建立されたもので、それぞれ大天使ミカエル、キリスト、聖母に捧げられた三つの礼拝堂からなる。内部には皇族の墓が造られた時期があった。キリストの遺体を横たえた板、という聖遺物も安置されていたが、無論、今では失われている。
ここからはステンドグラスの断片が発掘されて、西欧でおなじみの技法の起源に関して議論をよんだという。
なんと12世紀のステンドグラスが出土していたとは。このステンドグラスは、 The Byzantine Legacyの Pantokrator Monasteryのず-っと下の方に画像があります。

⑰アギイ・アポストリ聖堂
現在ファティフジャーミイの建つ広大な区域にはアギイ・アポストリ(聖使徒)聖堂があったが、コンスタンティノープルを陥落したメフメト二世が建物を壊して整地し、征服者という意味のファティフを冠したモスク複合施設を建造したために、何も残っていない。


⑱テオトコス・パンマカリストス修道院(現フェティエジャーミイ)
『イスタンブール歴史散歩』は、聖使徒教会の後、 1568年までギリシア正教会の総主教座だった テオトコス・パムマカリストス教会である。教会の建設は12世紀。ビザンティン美術の宝庫と言われている。この教会は 総主教座になって数年後、ムラト三世によってモスクに変えられた。その後、ムラト三世はグルジアとアゼルバイジャンの征服を記念して、これを フェティエ、すなわち勝利のモスクと名づけたという。
修復中で見学できなかった。


⑲コーラ修道院(カーリエジャーミイ)
同書は、カーリエ・モスク(Kariye Camii)も見落とすわけにゆかない。ビザンティン時代にはコーラ修道院と呼ばれたこのモスクは、いまは美術館として公開され、モザイクとフレスコ画はアメリカ・ビ ザンティン研究所の手で保存されている。アヤ・ ソフィアと並んで、この都市で最も重要なビザン ティン教会である。
コーラ(Chora)とはギリシア語で田舎を意味する。この教会が当初は城壁の外にあったためにこの名があるといわれるが、異説もあり、定かではない。
トルコ征服後もこの教会はしばらくは教会として使われていたが、16世紀初め、バヤジット二世の治世にモスクに変えられた。その後、何世紀にもわたって、モザイクやフレスコ画は漆喰や埃に蔽われ、また地震で剥げ落ちたりもしたが、いまはできる限りの修復が行われ、慎重に保存されている。カーリエ美術館のモザイクとフレスコ画 は、一日眺めていても飽きることはないというほどの聖堂だが、再び修復が行われていた。
実はビザンティン美術など全く分からなかった30年近く前に見学しているのだが、写真に残っていない。写したと思っていたが、撮影不可だったのだろうか?
イスタンブール コーラ修道院外観 ビザンティン美術への旅より


平面図
①外玄関廊(ナルテクス) ②内玄関廊 ③本堂の身廊 ④後陣(アプシス) ⑤北ドーム ⑥回廊 ⑦南ドーム ⑧葬礼用礼拝室 ⑨葬礼用礼拝室の後陣
『建築巡礼紀行17 イスタンブール』は、この教会が最初に建てられたのは4世紀、コンスタンティヌス一世の時代で、テオドシウス 二世(在位408-450)の治世に壁の内側に建てられたという。558年、大地震によって損壊したが、ユスティニアヌス帝(527-565)によって修復された。8-9世紀の聖画像破壊期には、この教会も被害を受け、その後しばらくは廃墟になっていたようである。現在の建物はアレクシオス一世コムネヌス(1081-1118)の義母のマリア・ドゥカニアによって建てられた。その後は1204年の第4次十字軍の被害もまぬがれ、正教会の僧侶の手で守られてきた。アンドロニコス二世(1282-1328)の治世に、この教会と僧院の修理のために全財産を投げうったのが、当時、財務長官であり哲学者でもあったテオドロス・メトキテスである。彼はこの建物に外ナルテックスとパレクレッション(教会の南側の葬儀用チャペル)を付け加え、それを最高のモザイクとフレスコ画で飾ったという。
11世紀後半-12世紀前半に建てられた「初期」とされている濃く塗られた部分の三方を囲むように、薄く塗られた部分が13世紀後半-14世紀前半に建て増しされた。元はなんと小さな教会だったのだろう。
イスタンブール コーラ修道院平面図 ビザンティン美術への旅より

葬礼用礼拝室(パクリシオン)後陣のフレスコ 復活(アナスタシス)
『ビザンティン美術への旅』は、西欧で「復活」は、墓から立上がるキリストによって表現されるが、正教圏ではハデスの扉を破り、アダムやエヴァを救う「冥府下り」のキリストが「復活」を表象する図像である。 死者の復活を願って、この墓廟用礼拝堂にはアナスタシスの主題が描かれたという。
冥府下りの場面よりも、下段の聖人たちの衣装の文様が印象的だった。
以前のテレビ番組で、染織家の志村ふくみ氏がここを訪れて、聖人あるいは歴代の司教たちの着衣の文様に魅入っていた姿を思い出した。100歳になられてもなお染織を続けられていることをしむらのいろで知った。100歳になっても海外旅行に行くぞと思っている私にとっては励みになります。リハビリ頑張ろうっと。

キリスト教美術を少し齧った今、再訪してゆっくりと眺めてみたいものだ。
イスタンブール コーラ修道院葬礼用礼拝室後陣のフレスコ ビザンティン美術への旅より


⑳テクフル宮殿
同書は、ふたたび城壁沿いに北へ進む。エディルネ門か600mくらい先でテオドシウスの城壁は終わる。
そこから先は後に築かれたマヌエル・ノープル攻防戦に際して、なぜかこの門の守備が薄かったため、トルコ軍のイエニチェリたちはこの門から市内に攻め入ったといわれる。三日月の旗が最初にこの都に翻ったのは、この門の近くの塔であった。
クシロケルコウ門と接して、いまは廃墟と化しているが、ビザンティン時代の重要な建物の残骸が残っている。トルコ語でテクフール・サラユ (Tekfur Sarayı=王宮)と呼ばれるこの宮殿は、13世紀後期から14世紀初期にかけて建造され、ビザンティン末期の2世紀の間、皇帝の宮殿のひとつとして使われた。三階建てで、城壁の外壁と内壁の間に築かれている。すぐ近くにあったという。
現在では修復されているので見学してきた。それについてはこちら

テオドシウスの城壁の外壁と内壁 

こぢんまりした三階建ての宮殿


㉑ブラケルナエ宮殿はどの辺りにあったのだろう。


㉒黄金門
『ビザンティンでいこう!』は、テオドシウスの城壁は観光用に修復再建された部分も少なくない。その部分はいかにも色が新しく、風情がないが、中世の趣をよく残しているのは、三角形の底部西隅、黄金門のあたりである。
ビザンティン皇帝が外国で戦争をして街に凱旋してくるのが、この黄金門からであった。かつてコンスタンティノープル市民が、この一帯に立錐の余地のないほど集まって、凱旋する皇帝を歓呼で迎えたことなど、今日では想像し難いほど人気のない場所である。門のいちばん外側にお堀、内側に三重に、だんだんと土台が高くなる壁。壁の要所要所には、方形や八角形の塔が造られ、兵士が警護にあたったという。
イエディクレ平面図 イスタンブール歴史散歩より

『イスタンブール歴史散歩』は、城壁に組み込まれた4本の塔の中央に、アーチ型の門がある。これが有名なローマ時代の凱旋門黄金の門である。390年頃テオドシウスⅠ世がこの門を建てたときは、城壁はなく、門だけであった。門はその名のとおり黄金の板で蔽われ、ファサードは彫刻で装飾されていた。20年後、テオドシウスⅡ世が城壁を拡張するとき、黄金の門は城壁に組み入れられたのであるという。





関連記事
ギュルハネ公園

参考サイト

参考文献
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「世界美術大全集6 ビザンティン」 責任編集高橋滎一  1997年 小学館
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「建築巡礼紀行17 イスタンブール」 監修香山壽夫 1990年 丸善株式会社
「ビザンティン美術への旅」 写真赤松章 文益田朋幸 1995年 平凡社
「地中海機構紀行 ビザンティンでいこう!」 益田朋幸 2004年 山川出版社

2024/03/08

黒マリアからとりなしの聖母へ


オーヴェルニュのロマネスク様式の時代につくられた聖母子像、そして今でもその正体に諸説ある黒マリアを見てきた。
その後聖母子像はどうなるのだろう。

『黒マリア』は、民衆が「安らかな死」を与えてくれるように祈っていた黒マリアはまさしく「魂の導き手(プシコポンプ)」であったわけだが、この意味では聖ミカエルは黒マリアの協力者、というよりもむしろその分身であったとさえ言い得るのであり、ここからも両者の強い結び付きが理解されるのであるが、聖ミカエルのこの「魂の導き手」という性格もまた、彼がメルクリウスの、そしてまたその前身であるルフから引き継いだものと考えられるのだからである。
そして、このことをはっきりと示しているのが、12世紀前半、コンク(Conques)のサントフォワ聖堂のタンパンにはじめて現われた「最後の審判」図における、死者の魂の計量者としての聖ミカエルの姿に他ならない。
『マタイによる福音書』25章に基くこの「最後の審判」図は、天国と地獄をなまなましく描き出したキリスト教世界最初の「最後の審判」図であり、その後オータンのサン・ラザール大聖堂タンパンにおいて模倣され、更にゴシック時代に入ってからは、ブールジュのサンテチェンヌ大聖堂をはじめ、ランスやアミアンのノートルダム大聖堂などの壁面を飾ることになった重要な図像なのであるが、これらの図像の中で、天秤を持って死者たちの魂を計量しているのが大天使聖ミカエルなのであるという。

コンクのサントォワ修道院聖堂のタンパン
右側に地獄の責め苦が二段にわたって描写されているのに対して、左側の二段天国の門をくぐった人々という図である。

その大天使聖ミカエルは魂の計量を行っていて、その向こうで悪魔が天秤の片方に指を1本の指をかけ、地獄に落とそうとしている。魂が重いと地獄に堕とされるのだ。
大天使ミカエルが天秤を持つのはエジプトの「死者の書」の影響とされている。


『フランスの歓び』は、キリスト教の歴史観はきわめてわかりやすい。天地創造に始まり最後の審判で終わる直線的な時間の流れだ。「創世記」に始まり「ヨハネ黙示録」で終わる聖書の構成と同じである。この最後の審判は、いつ起こるかわからない。今すぐかもしれないし、ずっと先かもしれない。そのとき時間が止まる。天空はまるでカーペットのように巻き取られ、すべての死者がよみがえり、再び姿を現したキリストの前で審判を受けることになる。そのため常日頃から準備を怠るなということが、新約聖書には繰り返し説かれている。
このいつ起こるかわからない審判を、タンパンの彫刻は常に人々の目の前に提示していた。どのような説教よりも効果的に、見る者に恐怖を実感させたにちがいない。このテーマを取り上げている聖堂はとても多く、それぞれに個性があってひとつとして同じものはないが、基本的な構成要素は共通しているという。

ブールジュ、サンテティエンヌ司教座聖堂西ファサード中央扉口タンパン最後の審判 ゴシック様式
ブールジュ、サンテティエンヌ司教座聖堂西ファサード中央扉口タンパン最後の審判 フランスの歓びより


そもそもロマネスク様式の時代にマリアは「受胎告知」「マリアのエリザベート訪問」「キリスト降誕」「エジプト逃避」「マギの礼拝」くらいにしか登場しなかった。それをオーヴェルニュ地方の聖堂内で探すと、

受胎告知 クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂内陣の柱頭彫刻 「The Sculptures of Notre-Dame du Port」より
クレルモンフェラン ノートルダムデュポール聖堂内部柱頭彫刻 The Sculptures of Notre-Dame du Port より


マリアのエリザベート訪問 「The Sculptures of Notre-Dame du Port」より
クレルモンフェラン ノートルダムデュポール聖堂内部柱頭彫刻 The Sculptures of Notre-Dame du Port より


キリスト降誕 クレルモンフェランノートルダムドラソンプシオン司教座聖堂周歩廊サンタンヌ祭室のステンドグラス(ロマネスク様式の聖堂より採取) 2段目左

エジプト逃避 同5段目左


同書は、この「最後の審判」を図像化したコンクやオータンのタンパンの前で、彼らは自分の死の後に待ち受けている裁きにふるえおののき、不安の中で自分の魂の救済を真剣に願ったにちがいない。
ロマネスクの図像を決定的に変化させてしまったのは、激しく自分の魂の救済を求めるこの都市住民の不安であった、と思う。この不安がロマネスクの「再臨のキリスト」を天の彼方から地上に呼び下して十字架にかからせ、その一方で、救済の慈母観音として聖母を天の高みに押し上げてしまったのだ。ゴシックの図像の特質であるキリストの下降と聖母の上昇は実は一対のものなのであり、救済の宗教ともいうべきゴシック信仰の表裏をなしているのではないであろうか。
ゴシックにおける聖母崇敬の昂揚は、それ故、三位一体の教義によって排除されてきた第四者=女性原理の復活であった。この女性原理による救済を渇望する人びとは、聖書正伝の提供する聖母についての限られた情報だけではあきたらず、外典偽典を借りて聖母の姿をいやが上にもふくらませる。こうして、聖母は天に昇って女王の冠を受け、最後の審判の場においてはキリストの傍らに坐して罪人なる人間のためにとりないてくれる救済の慈母観音となったのである。特に北フランスで発展した大都市の中心に、次つぎに聖母に捧げられた大寺院が建造され、その壁面を「聖母被昇天」図や「聖母戴冠」図が埋めつくしたのは、人びとのこうした宗教感情の激変の結果に他ならないという。

ただし、クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂の柱頭彫刻には聖母被昇天の場面が刻まれている。
『The Sculptures of Notre-Dame du Port』は、中央で、キリストは大きな手でマリアの体を抱きしめ、包帯がまだ解けていない聖骸布に包まれた生まれたばかりの赤ん坊のように抱きしめている。彼女の目は大きく見開かれている。その下には空の石棺があるす。キリストはマリアではなく、遠くを見つめている。右と左の二人の天使はそれぞれ石板を持っている。ここは安全な港、キリストの腕という。


そしてカトリックでは聖母被昇天と呼ぶものをビザンティン美術ではキミシス(聖母の祈り)と呼ぶ。

聖母の眠り(キミシス) イスタンブール、コーラ修道院(現カーリエジャーミイ)本堂西壁 モザイク 1316-21年
『コーラ カーリエ博物館』は、このテーマに登場するすべての人々を描き込むため、死の床に横たわった聖母を底辺とする三角形の構図をとっている。キリストの弟子たちが聖母を囲み、天使が三角形の外側から近づいてくる。顔だけ聖母の方に向けたキリスト、その手に抱かれた赤ん坊はマリアの魂を象徴しているという。


キミシスが何時頃から描かれるようになったか分からないが、東トルコのアニ遺跡にティグラン・ホネンツが寄進した聖ゲオルギウス教会の右壁はフレスコ画がよく残っていた。説明板には1215年建立とされるので、ゴシック様式が始まった頃に当たる。


『黒マリア』は、多くのゴシック大寺院の呼称となったノートル・ダムという言葉は、元来、民衆が彼らの女主人であるそれぞれの黒マリアを古くから親しみをこめて呼んできた名前だったのだ。ゴシック時代以前にもすでに、クレルモン・フェランのノートル・ダム・デュ・ポール教会のように、ノートル・ダムの名を冠した教会は存在したが、それらはみな黒マリアが祀られている教会だったのである。このことはゴシックの聖母崇敬の起源が黒マリア信仰にあったことを示す何よりの証拠だとは言えないであろうか。民衆信仰として教会の外で生きつづけてきた黒マリア信仰は、今や教会当局も押しとどめることのできない奔流となって教会内部に流れ込み、ついにゴシックの聖母崇敬時代を現出したのだという。


サンドニ聖堂聖母子像 12世紀ロマネスク期 木彫 撮影小野祐次氏
「全一冊 フランスの歓び 美術でめぐる、とっておきの旅ガイド」(以下『フランスの歓び』)は、王冠をかぶり、女王然とした威厳あるたたずまいという。
サンドニは北フランスに位置し、12世紀前半に創建されたが、13世紀前半に初期ゴシック様式で建てられたものが大部分を占めるので、この聖母子像は後期ロマネスク様式の像である。同じ聖母子像でもオーヴェルニュ地方のものとはかなり違う。
サンドニ司教座聖堂の聖母子像 フランスの歓びより


『フランスの歓び』は、ゴシック期は、マリアがキリスト教という宗教を具現化するイメージとして、教会によって徹底して使われた時代でもあった。王であるキリストの隣に座って冠を受ける「聖母戴冠」という新しい図像がこの時代に広まる。あらゆる美徳をそなえ、天の女王であり、キリストの母であり花嫁でもあり、苦難に陥った人々を救済し、最後の審判において人類のために祈ってくれる女性。マリアにあらゆる願望が投影され、マリアはそれに応えていくという。

聖母戴冠 13世紀 ランスノートルダム司教座聖堂西正面中央扉口上 現在同所にはレプリカが嵌まり、オリジナルはトー宮殿に展示
『フランスの歓び』は、ゴシック期の新モードでは、被昇天後のマリアが、キリストから天の女王の冠をいただくという。
ランスノートルダム司教座聖堂西正面中央扉口上聖母戴冠 フランスの歓びより


マギの礼拝をロマネスク様式とゴシック様式で比較すると、

クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂南扉口の楣石部分は顔が欠失しているが、聖母子はややマギたちに体を向けてマギが献納するものを受け取っている。


それが時代が下がると、

シャルトルのノートルダム司教座聖堂内陣と周歩廊を隔てる周壁のうち 16世紀 ジャン・スーラ作 
『フランスの歓び』は、優しいマリア像はゴシック期以降に広まったという。
一般に聖母マリアと聞いて思い浮かぶ顔はこのようなものだろう。
シャルトル ノートルダム司教座聖堂マギの礼拝部分 フランスの歓びより


黒マリアがケルト時代の地母神像であったとか、黒く塗られたのがずっと後の時代だったとか、まだ定説はないようだが、聖母マリアは、聖母子像から独立して、執り成しの聖母として表されるようになったのだった。




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参考文献
「Conques」 Emmanuelle Jeannin・Henri Gaud 2004年 Edition Gaud
「The Sculptures of Notre-Dame du Port」 Édition du Signe 2012年
「コーラ カーリエ博物館」 ファティヒ・ジモク 原田武子訳 

2024/02/02

オーヴェルニュの楣石


今回の旅では「オーヴェルニュ地方の楣」と呼ばれる楣石を思わぬところで見かけた。


ルピュイの サンクレール礼拝堂 Le Puy La Chapelle Saint-Clair 
現在の開口部
説明パネルは、サンミシェル岩のふもとに位置するサンクレール礼拝堂は、財産のない巡礼者を受け入れるためにセギュレ修道院を引き継いだサンニコラ病院に属していた。12世紀末に建てられ、17世紀からサンクレールに捧げられた。
女神ディアナ(ダイアナ)の天文学的属性である月の満ち欠けを表現した楣石が飾られているため、「ディアナ神殿」とも呼ばれているという。
タンパンにはキリスト教の題材はなく、丸く成形した黒い玄武岩が規則正しく並んでいる。


その対角にある扉口の楣石も傾斜の少ない切妻型。
小さなタンパンの黒石の菱形と白石の4点星の組み合わせはイスラームの幾何学文様を思わせる。


ノートルダムデュピュイ司教座聖堂 Le cloître de la cathédrale du Puy の一角にある扉口は、フィレンツェだより番外篇では、北側翼廊にある聖ヨハネの扉としていて、平面図では聖ヨハネのポーチとされるところだ。
ノートルダムデュピュイ司教座聖堂回廊平面図 cloître de la cathédrale du Puy より

そこにもオーヴェルニュ地方の楣と呼ばれる楣石があった。左隣は南の装飾もないが、その楣石も同じ切り妻屋根型の楣石だった。この辺りは改築が行われたようで、右にもアーチの痕跡がある。

タンパンは白石と黒石を三角形に切りそろえたモザイク装飾、その中に玉座のキリスト、そのキリストの頭部にはギリシア十字あるいは四弁花が、左右には五弁花が嵌め込まれている。これが穴なのか、黒石なのかは不明。
その下の切り妻屋根型の楣石には中央にキリスト、その両側には6人ずつ、十二使徒が並んでいたようだ。現在ではタンパンとオーヴェルニュ地方の楣の間の隙間と、楣石の右端には、使徒の半身の外側の隙間に、同じ色の石が嵌め込まれている。いつの時代かはわからないが、破壊活動のために、像が削られたりしたために、このような修復が行われたのだろう。


クレルモンフェランのノートルダムドラソンプシヨン司教座聖堂近くのグラ広場 Place 
des Gras の建物の一つにもオーヴェルニュ地方の楣が嵌め込まれている。
フィレンツェだより番外篇によると、フランス革命で破壊されたサン・ピエール教会の12世紀の楣石なのだそう。

『異形のロマネスク』は、クレルモンフェランのグラ広場にある《弟子の足を洗うキリスト》の中で長い椅子に座る使徒たちなどは、三角形の枠組に固執し、その枠組を明らかにしているという。

この洗足という行為について、以前に行ったトゥールーズのオーギュスタン美術館の説明パネルは、捕縛の前の最後の晩餐の時、キリストは使徒たちの足を洗いながら、謙遜という最後の教訓を与えた。キリストは手を挙げて拒むペテロの前に跪いているという。

ペテロの背後の5人。ペテロのすぐ後ろの弟子はすでに靴を脱いでいる。その後ろには、キリストの方を向いて坐っている弟子、文字の帯を持っているが体はほぼキリストの方を向く弟子、そして文字の帯を持って正面向きに坐る弟子二人。


右端から三人はキリストの方を向いて坐っているが、その前の二人あるいは三人がどうなっているのか分からない。


クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂南扉口上の楣石
楣石ではなく切り妻屋根型というか、五角形というか、これまでにも見てきた形である。
このタンパンと切り妻屋根型の楣石について詳しくはこちら


シャンパーニュのサンピエール修道院タンパン Abbaye Saint Pierre de Champagne
『異形のロマネスク』は、シャンパーニュでは(ここでは「オーベルニュ地方の楣」といわれる中央部が高くなった三角形の相である)、テーブルと座った人物の足は、同じ方法で置かれている。しかし、人物は、もはや同じ比例関係ではない。会食者たちは、両隅にいる人物より高い中央のキリストに近づくに従い、大きくなっている。それは、象徴的な重要度の尺度に関係しているのではない。人物を大きくしたり、人物を棒磁石のように押し上げるのは、枠組の誘惑なのである。福音書を表現した主題の中にさえ、形式を重視している態度が感じられる。人物たちは、山形になった楣の中で、自然に伸びたり、短くなったりするという。
このシャンパーニュは発泡ワインで有名なシャンパーニュではなく、リヨン南方薬50㎞ほどのアルデシュ川に沿った小さな集落にある。
ヌイイアンドンジョンの浮彫に比べると、格段に人物の動きがある。テーブル前に並ぶキリストを含めて13名だが、左端には男性と子供を抱いてうずくまる人が描かれている。
オーヴェルニュ シャンパーニュ サンピエール修道院タンパン 『異形のロマネスク』より


モザ サンピエール・サンカプレ修道院タンパン Abbaye Saint-Pierre-et-Saint-Caprais de Mozac
フランス・ロマネスク散策 Balade dans l'Art Roman en France のモザは、この楣石は「栄光の聖母マリア」を表していて、聖母は王座に座り、膝に幼子キリストを抱いています。オーヴェルニュの黒い聖母像によく見られるように、その手はとても長いです。キリストは右手で祝福のポーズをし、左手には旧約聖書を抱えています。
聖母の右側に、天国の鍵を手にした聖ペテロ、聖オストルモワヌ、祈る姿をしているモザの修道院長スミュールのユーグの姿があります。このロマネスクの修道院教会創設者であるユーグは、聖母とキリストに対する「オマージュ」を表現しており、このことからこの楣石は「オマージュの楣石」と呼ばれます。
聖母の左側には、聖ヨハネと杖を手にした2人の司教の姿があります。この2人は、聖オストルモワヌ同様、モザの修道院教会に聖遺骨が納められていた聖カプレと聖カルマンと思われますという。
ノートルダムデュポール聖堂南扉口上の楣石の彫刻には三つのテーマがあり、その中央の一番高い場所にはキリストの神殿奉献の神殿が浮彫されているのだが、この楣石では中央に玉座の聖母子が正面を向いている。その左右には二人の使徒と後世に列聖された人物たちが、段々と小さくなって登場するという、もはやキリスト伝ではなく、幼子キリストよりも、聖母マリアを慕う場面のようになっている。
オーヴェルニュ地方 モザ サンピエール・サンカプレ修道院タンパン Vierges romanes より


『異形のロマネスク』は、ロマネスク造形美術においては、空間恐怖が、枠組の法則(ロマネスク美術発展の最初の法則)を直接作り出している。流行した古典的主題、すなわち人物を水平的に並べる主題は、ヌイイアンドンジョンや、シャンパーニュの《最後の晩餐》のように、異なったタイプの楣の上で、明らかにこの法則を見せているという。
よく解説に使われるが、この空間恐怖という言葉は好きではない。


                 →オーヴェルニュの聖母子像

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参考サイト

参考にしたもの
サンクレール礼拝堂の説明パネル

参考文献
「石に刻まれた中世の奇想 異形のロマネスク」 ユルギス・バルトルシャイティス著 馬杉宗夫訳 2009年 講談社
「Vierges romanes」 2018年 Éditions DEBAISIEUX