ルピュイのノートルダム司教座聖堂内陣に祀られていたのは小さな黒い聖母子像だった。ラヴォデュのサンタンドレ修道院教会やブリウドのサンジュリアン聖堂、クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂、サンサテュルナンのノートルダム聖堂には内陣には聖母子像も他の像もなかった。イソワールのサントストルモワヌ聖堂にあるのは、ずっと時代の下がった聖母子像だった。
オルシヴァルのノートルダムバジリカ聖堂の聖母子像 細かい襞型(後述)
『世界歴史の旅 フランス・ロマネスク』(以下『フランス・ロマネスク』)は、この像はオーヴェルニュのなかの聖母子像のうち、唯一貴金属の飾りものをつけたものである。全身、金でおおわれ、肘掛け椅子の左右は、半円アーチのなかに柱までついている。幼な子イエス・キリストを正面におき、膝の上に乗せるニコポイア型のもので、面長のマリアは髪をとめる帯をし、被り物をつけている。目は大きく見開かれ、カタルーニア地方のあちこちで見た聖母子像をどこか思わせるところがあった。幼な子は本をもっているが、むろん福音書なのであろう。この像は、おそらくこの教会と同じころにつくられたに違いないという。
オーヴェルニュ地方の他の聖堂の聖母子像よりも、カタルーニア地方の聖母子像を彷彿とさせるとは。
私が撮影したマリアは目を閉じているように、或いはうつむいているように見えるが、実際にはしっかりと前を見ている。
オルシヴァルの聖母の顔 Vierges romanes より |
こういう本が有り難いのは、ガラスケースに邪魔されない像が写っていることだ。
『Vierges romanes』は、1950年代に元の色が発見されるまで、長い間黒い聖母として崇拝されてきたという。
顔や手が黒く塗られていたということは、黒マリアに見せかけたかったからだ。黒マリアについては次回
オルシヴァルの聖母子像 Vierges romanes より |
幼子に触れていない手と幼子
更に、幼子は持つ本を閉じて垂直に持ち、ギリシャ文字のアルファとオメガ、アルファベットの最初と最後、つまり始まりと終わりが記されているという。
「私はアルファでありオメガである」というキリストの言葉が聞こえてきそうだ。だから、ガリアの地でキリスト教化される以前に信仰されてきた地母神ではないのに、ある時期に顔と手を黒く塗られ、黒マリアとして信仰された像ということになる。
オルシヴァルの聖母子像の手 Vierges romanes より |
サンネクテール聖堂の聖母子像 ドレープ型(後述)
『SAINT-NECTAIRE』は、サンネクテール教会が建てられた岩だらけの丘の名前からノートルダムデュモンコルナドール Notre-Dame du Mont Cornadore と呼ばれる、12世紀の威厳のある聖母像。
キリストの生ける玉座としての聖母マリア、父の永遠の知恵という神学的概念を象徴している。この表現は、5世紀に神の母マリアを宣言したエフェソス公会議に由来するもので、神の子でありマリアの子である「真の神であり真の人」であるイエス・キリストの受肉の深遠な神秘を知覚できるようにするものであるという。
この幼子の持つ本も聖書、或い自分が神の子であることを示す書物を持っている。
この大きな手は幼子を抱いていないのは、母としてのマリアよりも、玉座としてのマリアに重点を置いている表れだろうか。
ロカマドゥールの黒い聖母子像は左膝に幼子を乗せているが、やはり手は幼子に触れていない。
キリストを抱いているのは、オルシヴァルのノートルダム聖堂の聖母子像や、長いクッションの上に坐ったルピュイのノートルダム聖堂ポーチタンパンに描かれている聖母子像や、トゥールーズのオーギュスタン美術館の柱頭彫刻がある。
Ⅰ 聖母子像がマギの礼拝と共に現れる。
マギの礼拝 ヌイイアンドンジョン Neuilly en Donjon サント=マリー=マドレーヌ教会 Sainte-Mrie Madeleine タンパン
ヌイイアンドンジョンはオーヴェルニュ地方クレルモンフェランの北東85㎞の小さな町。
ノートルダムデュポール聖堂の切妻型楣石が中央から外れた位置に聖母子像が表され、礼拝に来たマギたちの方にやや向いているのに比べ、ここではタンパンの中央に、幼子に捧げ物をするマギの一人が表されている。他のマギは両足を板状のものに載せているのに、先頭のマギは聖母子に駆け寄る様子で表されている。こんな動的な表現は珍しいのでは。
登場者全員が細身で、聖母子と三人のマギ以外はラッパを吹く四人の天使しかいない。
彼らの足下に腹這いになっているのは、四福音書家のマルコのシンボルであるライオンと、ルカのシンボル牡牛。玉座の背後には背が高いが上半身を屈めている天使? でもマタイのシンボル鷲はいないのでは?
蛇足ですが、このタンパンの下の楣石が面白いので、
『異形のロマネスク』は、人物は、自分の区画を守りながら、タンパンを支えている矩形の石の内で、締めつけられるように列をなして並んでいる。垂直線は、使徒たちの身体を、真っ直ぐな棒のように硬直化させている。他方、水平線は、上部では数珠状に並ぶ使徒たちの頭が、その線を決定している。そして、構図の中央では、端から端までテーブルクロスで覆われたテーブルがその線を、下部では、台座に沿って置かれた使徒たちの足がその線を決定している。この正確で生硬な表現は、背後の建築的枠組による幾何学から、直接的に生まれているのであるという。
確かに動きといえば、十二使徒たちが二人で話し合っていたり、キリストの方を向いていたり、あるいは腕を上げているくらいだが、テーブルの左端の下で何者かが腰をかがめて柄の付いたブラシでキリストの足を洗っているのには笑ってしまう。
12人の弟子たちは皆テーブル席に並んでいるのに、いったい何者だろう。キリストの足を洗う人物をわざわざ彫り出さずにはいられないロマネスク時代の石工たち。こういうのを見つけるのもロマネスク美術の醍醐味。
玉座の聖母子像 モザ、サンピエール・サンカプレ修道院タンパン Abbaye Saint-Pierre-et-Saint-Caprais de Mozac
右側に、天国の鍵を手にした聖ペテロ、聖オストルモワヌ、祈る姿をしているモザの修道院長スミュールのユーグの姿、左側には、聖ヨハネと杖を手にした二人の司教の姿があるという。
この聖母子像は正面を向いて、玉座の聖母子像の完成された型になっている。
モザサンピエール・サンカプレ修道院タンパンの聖母子像 Vierges romanes より |
Ⅱ 三種類に分類される聖母子像
それは①ドレープ型、②細かい襞型、③細長いシルエット型だった。
① ドレープ型 (アイリーン・フォーサイスは書道のようなドレープと表現)
同書は、ドレープ型は、ユムレグリーズ、ムーサージュ、サンヴィクトールモンヴィアニー(ニューヨークの回廊に保管)、ヴォークレール、サンジェルヴァジーの聖母像、そしてタクサセナとして知られるリオンのマンデ美術館の聖母像に代表される。ニューヨークのメトロポリタン美術館に保管されているモーガンの聖母子像も含まれるという。
ヴォクレールの聖母子像 Vierge de Vauclair
『Vierges romanes』は、ヴォクレールの聖母はその鋭い視線で、視力を失った人々の視力を回復する力を持つことになるという。
逆ドレープが腕にも密に施され、幼子の裳裾は折り畳み文が細かく表されている。
玉座に背もたれがない。
聖母も幼子も目つきは鋭い。聖母像には正面の首の付け根にガラスか水晶の飾りがある。仏像の衣文にもありそうな、通肩で、多くの襞が規則正しく表されている。特に腕の衣文はU字状に収束していく。その先の手は幼子を支えているように見える。
幼子は仏像の施無畏印のように右のてのひらを見せて、左手には開いた本をのせている。
ヴォクレールの聖母子像 Vierges romanes より |
聖母の右手は幼子をしっかりと抱いている、というよりも一体化して彫り出されている。
本を開いた時の紙(当時は羊皮紙)が盛り上がる様子まで表現しているというのに、聖母の顔がちょっと・・・
上の二つの聖母像のドレープが、首からU字形が同心円状に幾重にも続いているので、似たものを探すと、
クラヴィエの聖母子像 Vierge de Claviers ムサージュに保存
低い背もたれのある玉座は装飾的なデザイン。
頭巾と一体化した上衣。
ドレープは上衣にとどまらず、薄い生地の裳にまで。幼子の服にも細かなドレープがある。
長い指の両手は幼子を抱いているようには見えない。
トゥルニュの聖母子像 Vierge la Brune de Tounus
頭巾から始まるドレープが胸まで続くが、裳には細かな襞がある。
表情の高さまである玉座は、像と同じく金色に輝き、その形はオルシヴァルの玉座に似ている。
メイエの聖母子像 Vierge de Meiller
玉座には肘掛けがあり、その高さで背後に背もたれが見えるが、簡素な椅子という程度。
やや笑みを浮かべた聖母はまるで孫を抱く老婆のよう。両手はかろうじて幼子に触れている程度。
聖母の胸前にはドレープはあるが、幼子ともに膝から下の裳裾が規則的。
② 細かい襞型
同書は、プリーツ型の像には、マルサとオーシヴァル、そしてサンプルサンシュルシウールとサンフルールの聖母像が含まれており、最初の像はトゥルニュにあり、2番目の像はリヨンの美術館に保管されているが、わずかにずれているのが特徴である。子供を中央に配置し、よりシンプルなドレープになっているという。
サンプルサンシュルシウルの聖母子像 Vierge de Saint-Pourçain-sur-Sioule
玉座は肘より低い肘掛け、背もたれは不明。脚部が円柱になっている。
聖母の衣装は、被り物と上衣は一体化しているように見えるのだが、胸前のドレープは左右に分かれている。首から続く帯状のものは、上衣とは別なのだろう。
裳裾に小さな品字形の折り畳み文が中央と左右の端にある。
聖母の手は幼子をしっかりと抱いている、というか、一つの木から彫り出されている。
ヴェルノルの聖母子像 Vierge de Vernols
玉座
脚部には4本の円柱、肘掛けと背もたれには角柱がそれぞれ2本と3本で、その上にアーチがのる。座り心地の良さそうなクッションまで彫り出している。
ショリアの聖母子像 Vierge de Chauriat
胸前にはドレープはないと判断した。
聖母の腕はだらりと垂れ、幼子を抱いていない。これは、別々に作って組み合わせただけなのだろうか。
幼子は三本の指を上げて信者たちを祝福しているかのよう。左手には開いた本をのせている。
アントルモンの聖母子像 Notre-Dame d'Entremont
失われたのか、最初から作らなかったのか、肘掛けも背もたれもない玉座。
ソーグのように中央の帯はあるものの、首を回らない。ドレープはなく、細かいプリーツは腕に逆U字状の衣文をつくっている。
聖母の脚部も玉座も失われている。
着色もあまり残っていないが、細かい襞がアントルモンの聖母子像に似て、上腕部の輪っかや肩から腕にかけて逆U字状の襞をつくっている。この二体は同一工房で制作されたのかも。
ヴィエレダブシエの聖母子像 Vierges romanes より |
③細長いシルエット型
同書は、細長いシルエット型は、オートロワールの聖母子像、特にソーグとラショメットの聖母子像で、セザリエのロシュシャルルやコラミヌスヴォダブルの聖母子像も、楕円形のひだの少ない衣服になっている。オーヴェルニュの聖母たちは、少数の工房によって作られたものと考えられるという。
ソーグの聖母子像 Vierge de Saugues
玉座は簡素ながら肘掛けがあり、脚部は円柱のような丸みがある。
②のヴェルノル、サンプルサンシュルシウルと同系統の上衣と首からさげた装飾が似ていること、裳裾の中央と左右に品字形の折り畳み文があるなど共通点が多いので、この三点は同じ工房で作られたものと思われる。何故アイリーン・フォーサイスがこれをサンプルサンシュルシウルの聖母子像と別のタイプに分類したのだろう。
聖母の手は幼子をしっかりと抱いているように彫り出されている。
ロシュシャルルの聖母子像 Vierge de Roche-Charles
素朴だが、肘掛けから背もたれにかけて、縦の柱は斜めに彫りのある円柱に、脚部は彫りはないがやはり円柱で、その上はアーチにしている点など、当時の優品を見てこの玉座は作られたのではないだろうか。ひょっとすると革張りでクッション性の良い椅子だったのかも。
聖母は幼子の玉座のようで、膝には乗せているものの、両手は離れている。
コラミヌスヴォダーヴルの聖母子像 Vierges de Colamine-sous-Vodable
同書は、多色性には意味が込められており、青は聖母を、赤は生命を象徴しているという。
左手で本を立てて持つ幼子は聖母の膝の上に坐っているが、聖母の手はやはり幼子に触れていないように見える。
玉座は壊れているようで、手すりや背もたれがあったかどうかさえ分からない。
シェイラの聖母子像 Vierge de Cheylat
低い玉座に坐った聖母は幼子を失っている。
腕は袖があったのかと思うくらい襞がないが、被り物からは丁寧に折り畳まれた襞が整然と並んでいる。
シャシニョルの聖母子像 Vierge de Chassignolles
低いスツールに坐した聖母は長い手で右手で人々を祝福し、左手で本を持つ幼子を抱いている。幼子は長めの上衣の襞を片下がりにして坐っている。
こんな風に日の当たる屋外に置いて撮影すると、もっと明るい色になった聖母子像は多いだろう。
シャシニョルの聖母子像 Vierges romanes より |
シャト-ヌフレバンの聖母子像 Châteauneuf-les-Bains
優美な衣装なのに、玉座があまりにも簡素。
サンジュリアンデシャズの聖母子像 Notre-Dame de Saint-Julien-des-Chazes
聖母の長い手は幼子に触れていない。また幼子は手を上げることもせず拳を握っているだけで、聖母の膝の間に前屈みに坐っている。
聖母の着衣の衣文は妙である。上下逆になっているように感じる。こんな襞ができる衣服はあるのだろうか。
このように、オーヴェルニュのロマネスク様式の聖母子像は、近付きがたい容貌の像が多い。因みに、日本では神像というものはなかったが、仏教が入ってきて仏像がつくられるようなって、平安時代から神像が作られるようになったが、その神像や女神像も、すがりたいような容貌できはなかったのだった。それについてはこちら
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