お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2025/11/18

南禅寺界隈 對龍山荘


南禅寺界隈の別荘群は明治時代に政府が広大な南禅寺の敷地を取り上げた跡地を分割して建てられたもので、一時期NHKの番組にもなっていた。その中の一つ對龍山荘が一般公開されてたことを知って出掛けた。

地下鉄の蹴上駅を出て久しぶりにねじりまんぽをくぐった。
立て札は、「ねじりまんぽ」とは三条通から南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、「明治21(1888))年6月に完成しました。「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉で、「ねじりまんぽ」は、ねじりのあるトンネルという意味です。上部にあるインクライン (傾斜鉄道)と斜めに交わる道路に合わせ、 トンネルも斜めに掘られるとともに強度を確保する観点から、内壁のレンガを螺旋状に積む工法が採られています。
 「ねじりまんぽ」は、明治時代の土木技術を物語る貴重な遺産といえますという。

ヴォールト天井が捻れているので、見上げて歩くと不思議。


トンネルを抜けて歩いて行くと、何有荘の手前で左カーブするので、


何有荘の前庭が目に入る。秋になっても暑い日が続いていたが、それでも紅葉は始まっていた。


槙の根元に育ったホトトギスは花盛り。


金地院を過ぎると小さな門が見えてくる。

門をくぐって左へ、

しばらく歩いて通路を南へ下がると左手の塀はもう對龍山荘庭園。見学は10時からなので、門は閉まっていた。


へ~、こんなところに蔵がなどと時間を潰していると

間もなく門が開いた。
對龍山荘のリーフレットは、對龍山荘は薩摩出身の実業家・伊集院兼常の別荘として建てられ、これを呉服商市田彌一郎が譲り受けて明治34年より手を加えられ、明治38年に現在の全景観が完成した。名称は南禅寺瑞龍山に対する事から谷鉄臣によって名付けられた。
南禅寺界隈に数多く営まれた別荘庭園の優秀な典型を表している。東山を借景とし、琵琶湖疏水により導かれる豊富な水を用いて、流れ・滝・ 池など多様な水景を演出し、茶室とともに露地を備え、園遊のための芝生広場を設けている。對龍山荘庭園は近代庭園の名匠 「植治」こと小川治兵衛の造園スタイルを確立した庭園とも言われており、作庭当初から「風流清雅にして其構造に最も心尽くしたるを見る」などと極めて高い評価を得てきた庭園であるという。

平面図
南禅寺界隈 對龍山荘 ガイドマップ 對龍山荘・庭園のリーフレットより


露地は湿らせてあり、良い雰囲気


山荘の平面図
リーフレットは、全体の構成は、西に建物を配し、東に庭園を設けている。建物は、 北から書院(對龍台)、茶室群(聚遠亭)、居室群と連続するという。
南禅寺界隈 對龍山荘 平面図 對龍山荘・庭園のリーフレットより

見学は對龍台から。平面図にもあるように、ここからは池は全体のほんの少ししか見えていない。

色づき始めた紅葉の向こうに滝があって、小舟の方まで波文が広がっている。

何という岩石だろうか、この変わった形の石は。


窓ガラスが古い時代のものかもと思い廊下へ。

向こうの景色が分からないくらい歪んだガラス、揺らめきどころではない。


外から見えた蔵


建物の中を移動していると、手が届きそうにない円筒形の蹲踞に柄杓が添えてある。

ここのガラスもかなりの年代もの。

池を見下ろすと水面も同心円状の輪っかが幾つか。



居間棟の階段を上がって左手へ。


蔵と對龍台の屋根、そして正面にはこんもりとした黒谷の森。


文殊塔も見えている。


庭園の木々に隠れて、東山連峰は山の端しか見えない。七代目小川治兵衞(植治)が庭を造った時代は山が聳えていただろう。

ここにも水の流れが。水の輝きが見える天気の良い日で良かった。


居間棟の南の端には合戦図屏風が飾られていて、


その部屋の廊下をぐるりと回っていく。ちょっと高いところから見る庭を楽しんだ。

1階段の降り口から見下ろす。


5段の階段の向こうには二つめの蔵 主に江戸時代の絵画



公開部分はここまでなので、一階の廊下を通って先ほどとは違う角度で庭を見ながら受付に戻っていく。

揺らぎのあるガラス越に見える右向こうの部屋は
聚遠亭

聚遠亭から見た庭

水面に反射した光が網代に写っている。


茶室は小屋組の天井は軒と一体で網代張り

浅い流れの手前には杉苔、向こうには竹蛇籠


つづいて四畳半の茶室


隣の水屋の向こうには三畳台目向切の茶室

結界がないので入ってみた。もっとしゃがんだら灯籠や蹲踞も良く見えたのに。






参考にしたもの
對龍山荘庭園のリーフレット