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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2018/03/23

アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから中央アジア


『図説アレクサンドロス大王』は、ペルセポリスから北東へ直線距離で43㎞の地点に、パサルガダイの都がある。アレクサンドロスはここも接収した。慣例に従って女達一人ひとりに金貨を与えた。またキュロスの墓に大きな感銘を受けた。6年後にインドから帰還して再びここを通過した時、キュロスの墓が荒らされているのを発見し、部下に修理を命じているという。
パサルガダエは現在現地ではパサルガードと呼ばれていて、今回のイラン旅行でも見学した。
キュロスの墓についてはこちら

『図説アレクサンドロス大王』は、エクバタナまであと3日の地点(現アラク)で、かつての王アルタクセルクセス3世の息子ビスタネスと出会った。彼によれば、ダレイオスは騎兵3000と歩兵6000を率いて4日前に逃走した。
アラクを出発して11日目にラガイ(現シャフレ・レイ)に着いた。アラクからラガイまで約300㎞つる途中には「塩の砂漠」の西端にあたる荒れ地があり、細く流れる水は雨季でも塩分が多いため飲み水には適さない。この時ダレイオスは、ラガイの先の南カスピア門と呼ばれる隘路を通り過ぎていたという。
アルタクセルクセス3世(在位前359-38年)はペルセポリスのラフマット山中腹にアケメネス朝式の摩崖墓を築き、そこに埋葬されている。

同書は、大王はラガイに5日間留まり、軍勢を休ませた。それから追撃を再開し、東へ向かってパルティア地方へ入った。1日目は現アイヴァネケフの川のそばに宿営し、2日目に南カスピア門を通過した。2日目は現アラダンに宿営した。
そこへダレイオス陣営から離脱したペルシア人貴族2人が出頭してきた。バクトリア総督ベッソスや騎兵指揮官のナバルザネスといった高官が、すでにダレイオスの身柄を拘束したという。まぎれもないクーデターだ。アレクサンドロスは直ちに出発した。途中で休んだ地点は現アブドルアッバードと思われる。次の明け方にはダレイオスが拘束されたという宿営地(現ラスジェルド)に着いた。
ここで新しい情報を手に入れた。ダレイオスは箱馬車で護送されている。ベッソスはダレイオスを黄金の鎖で縛り、外から見えないよう馬車を獣皮で覆っていた。
その夜から翌日の昼まで駆け抜けてとある村にやって来た。そこはダレイオス一行が前日に宿営した場所だという。現セムナンあたりと思われる。
出発したのは午後も遅い時間だった。夜明けごろ、現ダムガンあたりで遂に追いついた。ベッソスらは何とかダレイオスを連行しようとした。しかし相手がすぐ後ろに迫ったため、仲間の二人がダレイオスに剣で切りつけ置き去りにして逃げ去った。アレクサンドロスが到着した時、ダレイオスはすでに息絶えていた。前330年7月、享年約50歳だった。大王は遺体をマントで覆い、ペルセポリスへ運んで埋葬するように命じた。
ダムガンはダレイオス死亡地点の第一候補地、シャールードは第二候補地という。
同書の「ダレイオス3世追撃行の調査」という図を参考に、Google Earthでそれぞれの地点を調べてみた。

『図説アレクサンドロス大王』は、ダレイオス追撃行を終えたアレクサンドロスは、ヘカトンピュロスという町に戻って後続部隊の到着を待ち、軍を再結集した。ヘカトンピュロスは「百の門」という意味で、カスピ海沿岸地方と中央アジアを結ぶ交通の要衝である。東寺の名称は不明だが、のちにセレウコス1世がこれを拡張し、ヘカトンピュロスと改名した。
クルティウスの大王伝によれば、次のように兵士達に語った。遠征はまだ終わっていない。ペルシア人はまだ我々の支配に馴染んでおらず、王に背いたベッソスはバクトリアの地から我々を脅かしている。どんな小さな火種でも、残しては大火になろう。反逆者を倒せば最高の栄誉が得られるのだ。
兵士達は熱烈な歓呼の声で応え、どこへでも望みのところへ連れて行ってくれと叫んだ。アレクサンドロスの目ははるか東へ向けられていた。ここからはいかなる大義名分にもとらわれない彼自身の遠征が始まるのだ。
ヘカトンピュロスを発ったアレクサンドロスは、エルブルズ山脈を越えてカスピ海南岸に至り、属州ヒュルカニアを平定した。そこでベッソスがバクトリアで王位を名のっているとの知らせが入った。アレクサンドロスもこれに対抗してペルシア風の衣装や宮廷儀礼を採用し、旧王族を側近に取り立てる。今やアケメネス朝の後継者としての正統性を争う立場になったのである。
遠征軍は酷寒のヒンドゥークシュ山脈に入り、翌年春にはバクトリアへ達し、炎熱の砂漠を越えてオクソス川(現アムダリア川)に到達した。ベッソスは仲間の裏切りにあって大王に引き渡された。アレクサンドロスは彼を王に対する反逆罪に問い、エクバタナ送って処刑させたという。
メルヴのエルク・カラは広大な遺跡をバスで走り抜けて辿り着いた、丘のような遺構だった。
トルクメニスタンの現地のガイドさんは、アケメネス朝期に栄えていたマルグッシュが、マルガブ(Murgab)川の流れが変わって衰退したため、場所を変えて建設されたのがメルヴ。メルヴのエルク・カラにアケメネス朝の都城が造られた。
周りに川があるという地の利を活かし、防衛のため高い城壁を築いた。当時は登り口の近くに橋があったらしい。
前4世紀末にアレクサンドロスが遠征してアケメネス朝が滅ぶ。アレクサンドロスはエルク・カラにアレクサンドリア・マルギアナという町を築いたと言っていたが、この文によるとメルヴには行っていない。
『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展図録』の「アレクサンドロス大王の東征ルートとシルクロード」の地図では、中央アジアではある地点からシルクロードと東征ルートが重なっているが、このシルクロードはアレクサンドロス大王以前からあった交易路を指すのだろう。当時あった道路を通るのは、目的地への最短で楽なルートだったはず。
やはりこの地図でもメルヴはアレクサンドロスのルートから外れている。

南ウズベキスタン、テルメズ郊外のオクサス河畔に位置するカンプル・テパ遺跡もアレクサンドロスと関係があるようだ。
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、15世紀のペルシャの著述家ハーフィズ・アブルーは、アムダリヤの渡し場のリストの中に、タルミズ(テルメズ)より西方におけるさらにもう一つの渡し場を挙げた。
それには次のように述べられている『<ブルダグイ>はテルメズに近いジェイフン河岸の土地である。そこはテルメズよりもずっと以前に存在し、アレクサンドロス大王によって築かれたと言われている。<ブルダグイ>とはアレクサンドロス大王の時代にあたえられたギリシャ名称であり、<客をもてなす家>という意味であった。』という。

Google Earthで見てみると、アレクサンドロスが名付けたオクサス川(アムダリヤ)の港町ブルダグイからマラカンダ(サマルカンドのアフラシアブの丘にあった町)へ、次いでイスタラフシャンでロクサーヌと結婚してホジャンド(アレクサンドリア・エスハータ)へと進軍していった道のりが概観できる。

後のアラブ軍はマラカンダからザラフシャン川に沿ってペンジケントを破壊して東進したが、アレクサンドロスは山岳地帯を避けてマラカンダへと向かっことになる。
サマルカンドのアフラシアブの丘は、モンゴルの破壊で廃墟と化した町の遺跡だが、それ以前にも度々破壊と再建を繰り返してきた。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、紀元前4世紀後半、アジア大陸の西側からアレクサンダー大王を先頭にギリシア・マケドニア軍が侵入してくる。それにより、アケメネス朝ペルシア大国は粉砕されてしまう。
アレキサンダー大王は一時的にマラカンダに野営し、懲罰などは自身で直接指導していた。周知のように、彼は街の近くの帝国のバシスタ自然公園で、ライオン狩りを楽しんでいた。
戦友であり、ソグディアナの支配者に任命されたアレキサンダーの乳兄弟のクリットは、大王に「この国は、以前にも反乱を起こした。そして、征服されたことはないし、これからも征服されることはないはずだ」と述べた。その後、マラカンダの宴会で、アレキサンダー大王は怒りクリットを殺す。そして、反乱が鎮圧され、スピタメンも戦死した後、アレキサンダー大王はマラカンダの全てを滅ぼしてしまった。
この当時、12万人のソグド人が死亡し、繁栄していたソグディアナは破壊された。しかし、サラブキー時代にはこの地域は復興され、ヘレニズム文化の東の前進的な中心地となったという。当時はマラカンダと呼ばれていたのだ。

『図説アレクサンドロス大王』は、このあとマケドニア軍は、当時アジアの果てと見なされていたヤクサルテス川(現シルダリア川)に至り、アレクサンドロスはその河畔に「最果てのアレクサンドリア」を建てた。ところがペルシア人貴族スピタメネスの指導下にバクトリア・ソグディアナ地方の住民が一斉に蜂起し、大王は丸2年に及ぶ困難な平定戦を強いられるという。
タジキスタンのホジャンド(ソ連時代はコージェント)こそが、アレクサンドロスが「アレクサンドリア・エスハータ(最果てのアレクサンドリア)」という名に変えた町で、ソグド人に囲まれていたために6㎞に及ぶ城壁を築いたという。今ではほとんど土の塊のようになってはいるが、その一部が町の中に残っている。
ホジャンドから南西にあるイスタラフシャンという町は、アレクサンドロスがこの町のロクサーヌと結婚して、町を出て行く時に、人々が「ロクサーヌを連れて行かないで」と言った言葉が、なまって現在の町の名前になったのだという。町の北にあるムグ・テパという遺跡は、アケメネス朝のキュロス大王が砦を築き、アレクサンドロスが破壊したのだそう。
こんな風に自分の旅してきた土地が、ピンポイントではなく、アレクサンドロスの東征ルートということばで繋がって線となった。

アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス← 
                           → パサルガダエの遺構に新説

関連項目
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓
カンプル(カンプィル)・テパ遺跡1
イスタラフシャン1 ムグ・テパ遺跡
ソグド州博物館1 ホジャンドにアレクサンドロス大王が
ペンジケント(パンジケント)遺跡1 2、3階建ての建物跡
アフラシアブの丘を歩く
メルヴ1 エルク・カラ

参考文献
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社 

2018/03/16

アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス


今回のイランの旅で、スーサからやって来たアレクサンドロスが、ここを通ってペルセポリスへと向かったとイランでは思われている場所が見えるところで写真ストップした。それはシーラーズ山脈からビーシャープールへと向かってザグロス山脈に入り、アボルハヤートという町へ出る前の切り通しのような地点だった。
Google Earthより

アケメネス朝ペルシアでは広大な版図に「王の道」が張り巡らされていたのは知ってはいたが、移動中はザグロス山脈の景観、中でも古代テチス海の鮮烈な色彩に目を奪われて、王の道が実際にどこを通っていたかまでに思いを馳せることができなかった。
『ペルシア帝国』は、ザグロス山脈南方の小地方、ペルシアから出発して、キュロスとカンビュセス各王の軍隊は、広大な領土を席巻した。ダレイオスの時代に版図は、バルカン半島からインダス河渓谷、サマルカンドからナイル河第一瀑布にいたるまで拡張した。帝国中心部の3首都ペルセポリス、スーサ、エクバタナの各王宮から、国道(「王の道」)が延びて、交通を可能にしたという。
『古代オリエント事典』は、20-30㎞間隔で宿駅が、行政区の境界地点や渡河地点など要衝の地には関所や衛兵所が設置され、交通の便と安全がはかられたという。
スーサからペルセポリスまでのルートは、この地図を見てもアボルハヤート辺りは通っていないようだ。

ある新聞の書評欄で『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』という本が紹介されていたので、早速購入した。
同書は、スーサからペルセポリスへ至るには、ザグロス山脈を越える「王の道」をたどらねばならない。その道は具体的にどこを通っていたのだろう。それを知りたくて文献を調べていくうちに、米国の古代史研究誌に発表されたスペックという研究者の論文がこの問題を扱っていることがわかった。
スペック説の当否を検証するため、私自身がイランで実地調査を行うことにした。
アレクサンドロスは前331年12月下旬にペルシア帝国の都スーサを出発し、前330年1月末にペルセポリスへ到着した。この間の経路については、ローマ時代に書かれて現存する5篇の大王伝のうち、アリアノス、クルティウス、ディオドロスの三人が比較的詳しく記述している。それによると、アレクサンドロスはスーサ進発後、山岳部族のウクシオイ人と戦ってこれを制圧し、それから副将パルメニオンに輜重部隊を委ねて平坦な道を進ませた。彼自身はペルシア門と呼ばれる隘路でペルシス州総督アリオバルザネスの軍隊を破り、ペルセポリスを占領した。しかし3篇の記述には多くの食い違いがあり、具体的な経路も極めて曖昧である。
スペックは、ザグロス山中で実地調査に基づいて、まったく異なる結論に到達した。
スペック説は単なる遠征経路の復元にとどまらず、アカイメネス朝時代の「王の道」に対する根本的な見直しを含んでいる。詳細な実地調査をふまえた彼の新説は、近年アレクサンドロス研究における最も注目すべき成果であるという。
アレクサンドロスはスーサからペルセポリスまでは「王の道」を辿り、その道はザグロス山脈の中を通っていたのだった。
『ペルシア建築』は、スーサからペルセポリスまでと、スーサからエクバターナまでのルートは舗装さえしてあった。これらはすべてローマ帝国の道路網の先駆をなすものと言えるという。
北西から南東方向に数本に分かれるこのザグロス山脈の中を、舗装された「王の道」が通っていたとは。道路は険しい山中は避けて、できるだけ平たい場所に造ったのかと思っていた。
『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』は、アカイメネス朝時代、スーサ~ペルセポリス間の「王の道」には、夏のルートと冬のルートがあったと考えられる。夏のフーゼスタン平野は猛烈な暑さだが、ザグロス山中のカールーン川沿いはそれほど暑くなく、冬には積雪がある。ディオドロスの記述によると、スーサの東の渓谷を抜けた先にペルセポリスへ通じる快適な山の道があり、これが夏のルートを指すと思われる。一方、平地のベフバハーンを経て、ファーリアンないしヌーラーバードを通る経路は冬のルートであったろうという。
確かに、旅した5月でも、フーゼスタンの土地が一番暑かった。午後には40度を超え、50度近くに達するところもあったほどだ。
Google Earthより(スーサ~ペルセポリス間は直線距離だけで500㎞を超える)
ザグロス山脈はGoogle Earthでこの程度の縮尺では幾筋かの波のように並んでいるが、もっとズームしていくと、夥しい数の峰があり、更にそれを横断して浸食された渓谷もあり、かなり複雑である。その中を著者の森谷公俊氏はスペック説が正しいかを実際に走破し、あるいは危険な山岳地帯に登り、時にはスペック説にも間違いがあることを確かめた。
今回のイランの旅はペルセポリスにもスーサにも行ったし、ヌーラーバードでは昼食もしたので、ザグロス山脈にも平地もあれば集落があることもいくらかは見てはいたのだが、山脈が幾筋もあって、その谷筋の水の流れる土地には今も人々の暮らす集落や町が点在することなどは、この本に出会わなければ知らずに終わっていただろう。
ところが、その後森谷公俊氏が『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』より以前に『図説アレクサンドロス大王』を出版されていることを知り、入手すると、この間の「王の道」の風景写真の多くがカラーで載っていた。前者は丁寧に地図が提示されていたが、写真は小さく白黒だったので、合わせて見ていくとザグロス山脈の表情が豊かに伝わってくる。
また、そのザグロス山中は、ただ通過したのではなく、ペルシス州総督アリオバルザネス率いるペルシア軍を打ち破りながらの行軍だった。それが実際にどこで行われたのかを森谷氏たちは実地調査したのだが、アレクサンドロスほどではないものの、そこにはさまざまな困難が待ち受けていたことが『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』で活写されている。

『図説アレクサンドロス大王』は、すでに真冬であった。だが12月末、アレクサンドロスはスーサを出発し、帝国の首都ペルセポリスへ向かった。冬のザグロス山脈では積雪が2mを越える。なぜわざわざ厳冬のザグロス山脈を踏破してペルセポリス占領を急いだのか。
現存する大王伝は直接語ってはいないが、兵士達の略奪欲である。古代の戦争において、敗者から略奪するのは勝利者の権利であった。マケドニア兵士にとって、征服したペルシア帝国の諸都市で思う存分に略奪することは当然の権利であり、また夢でもあったろう。ところがバビロンもスーサも平和裏に占領されたため、略奪は許されず、兵士の不満が募ったに違いない。アレクサンドロスは兵士らの不穏な空気を察知し、彼らの不満を解消する必要に迫られた。それゆえ彼は春の訪れを待つことなく、早期ペルセポリス占領を果たそうとしたのではないかという。
逃亡中のダリウス3世はエクバタナにいる。
『図説アレクサンドロス大王』は、マケドニア軍のペルセポリス滞在は4ヵ月の長きに及んだ。これも補給上の理由による。冬の間、ペルセポリスからザグロス山脈の東側を通って現イスファハンに至る道は氷に閉ざされる。それゆえダレイオス追撃には春の終わりを待たねばならなかったのだ。
5月末、出発を前にしてアレクサンドロスは宮殿に火を放った。ペルセポリス炎上、それは東方遠征における最も劇的にして最も謎めいた事件である。
アレクサンドロスはあらかじめ宮殿から金銀の塊や重要な貴金属製品を接収し、エクバタナへ運ぶ準備をした。そして5月末、兵士達に一日だけ宮殿の略奪を許した。翌日、アパダーナと玉座の間の大広間に可燃物を敷き詰めて火を放ち、大広間を支える柱の大半を破壊した。こうして宝蔵と後宮を含む4つの建物が炎上した。それから直ちにマケドニア軍はペルセポリスを発ち、ダレイオス3世に向かって進軍を開始したのであるという。

こんな風にアケメネス朝は滅亡した。それと共に、彩釉レンガという壁面装飾も消えてしまう。
下の2点はスーサ博物館に所蔵されているものだが、スーサはマケドニア軍の略奪を受けなかったにもかかわらず、このような美しい壁面装飾は後の世に受け継がれなかった。
以前はアレクサンドロスが破壊したために彩釉レンガが絶えてしまったと思っていたが、破壊には関係なく、このような壁面装飾を求める王族や貴族がいなくなってしまったために、職人が伝え続けることができなかったのだと考えるに至った。
その後施釉タイルが再び壁面を装飾するようになるのは紀元後9世紀のことである。
そして、このような一枚のタイルに多色釉で絵付けするハフト・ランギーは、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群のなかのウスト・アリ・ネセフィ廟(1360-70年)が初現であるという(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)。
 
         →アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから中央アジア

参考文献
「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」 森谷公俊 2017年11月30日 河出書房新社
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「ペルシア帝国」 知の再発見双書57 ピエール・ブリアン 小川秀雄監修 1996年 創元社
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館