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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2020/10/30

パサルガダエの遺構に新説


イランを旅して記事にまとめた後に、『ペルシア帝国』という本が出たので読んでみると、アケメネス朝ペルシアの遺跡の一つパサルガダエの遺構が、これまで比定されていたものとは異なることが判明した
Google Earthで見えたパサルガダエとそれぞれの遺構

⑧キュロス王(クールシュ2世)の墓
キュロス2世の墓平面図

『ペルシア帝国』は、紀元前530年、嫡子カンブージャ2世をバビロン王に封じた後、クールシュ2世はエジプト攻略を後回しにして、中央アジア遠征に取り組んだ。
しかし、オリエント史上初となる壮図を企てたクールシュ2世は、逆にあらん限りの不幸を招き寄せ、恐ろしい代価を支払わねばならなかった。すなわち、アム・ダリヤ川下流域のホラズムを進軍中の12月4日、中央アジアのアーリア系遊牧民マッサゲタイの奇襲を受けて、あっけない戦死を遂げたのである。クールシュ2世の遺体は、故郷ペルシア州に運ばれ、パサルガダエに造営された巨大な石棺のなかに収められたという。
カンブージャ2世はカンビュセス2世
北側より撮影したキュロス2世の墓

キュロス2世墓の他の画像はこちら
南側より撮影したキュロス王の墓

②ソロモンの牢獄(ゼンダーネ・ソレイマーン)と呼ばれている遺構
ゼンダーネ・ソレイマーンの平面図

同書は、クールシュ2世の追憶は、彼の死後わずか17年後にそれを簒奪したハカーマニシュ朝の大王たちによって聖化された。前任の大王が死亡した際には、新大王は前大王の葬儀を執行した後、パサルガダエでクールシュ2世が即位前に着用していた質素な衣装を身に付ける儀式をおこなった。ながらく用途不明だったパサルガダエのゼンダーネ・ソレイマーン遺跡の不思議な塔は、現在ではクールシュ2世の衣装の倉庫と解釈されており、その塔の屋上で、クールシュ2世の衣装を着用した新大王のお披露目式がおこなわれたと推定されているという。
キュロス2世の衣装だけのために、こんな石造りの倉庫を造ったとは。
西側より撮影したゼンダーネ・ソレイマーン

また同書は、クールシュ2世の記憶は以後の王朝の正統性の保証となった。クールシュ2世が造営したパサルガダエは、後にダーラヤワウシュ1世が造営したペルセポリスによって完全に凌駕されてしまったものの、大王の即位式の際だけは息を吹き返したのであるという。
クールシュ2世はキュロス2世、ダーラヤワウシュ1世はダリウス1世
ゼンダーネ・ソレイマーンの他の画像はこちら
北東から撮影したゼンダーネ・ソレイマーン キュロス1世の墓は見えないくらい遠い

ダリウス1世は一般に王位簒奪者とされていて、『ペルシア帝国』には「ダーラヤワウシュ1世によるハカーマニシュ王家の系図」が記載されている。
また、同書は、注目すべきは、「ペルシアの王」との称号である。クールシュ2世までは「アンシャン王」を名乗っていた点を踏まえると、この頃に地名交換がおこり、「アンシャン」は「ペルシア」と呼ばれるようになったという。

①タッレ・タフト
同書は、カンブージャ2世は、3年に及ぶエジプト在陣から、バビロンあるいはアンシャンへ帰還する途中、紀元前522年6月1日以降にシリアで急逝した。彼の近衛兵だったダーラヤワウシュ1世が造営したバガスターナ碑文(近世ペルシア語でビーソトゥーン碑文)には、「彼は自分自身の死を死んだ」と記されているものの、これが正確に何を意味するのかは不明であるという。
カンブージャ2世の墓所は長らく不明だったが、2006年になってようやく発見された。パサルガダエで農作業に従事していた農民が、パサルガダエ中心部にあるタッレ・タフトの城壁近くで偶然石板を発見し、これがカンブージャ2世の墓所への門だと判明したのである。シリアで非業の最期を遂げたカンブージャ2世は、最終的には、チシュピシュ王家の故地パサルガダエで眠ることができたようであるという。
この大きな石造物が門だったとすると、墓はもっと巨大なものだったのだろうか。
タッレ・タフトと呼ばれているカンブージャ2世の墓所への門

切石には表面に凹凸がある。日本の石垣では、金場切り残し積みと呼ばれている。
金場切り残し積みの城壁

墓所への門に上がると柱列の跡。
柱頭か柱礎、或いは円柱が土に埋まっている

門の上からゼンダーネ・ソレイマーン(クールシュ2世の衣装の倉庫)が見下ろせるほどの距離。


関連項目

参考文献
「ペルシア帝国」 青木健 2020年 講談社現代新書2582