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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/08/04

元時代にも登場する善財童子


奈良博で開催された「超 国宝展-祈りのかがやきー展図録」で善財童子を主人公にした絵巻物「新・善財童子 求道の旅-華厳経入法品・華厳五十五所絵巻-」という絵巻物があることを知ったが、善財童子は文殊菩薩と共に表される安倍文殊院の群像だけではなく、観音像と共に仏画に描かれていることが長年生きてきて段々と分かってきた。

奈良・安倍文殊院蔵渡海文殊群像 鎌倉時代、13世紀
詳しくはこちら
同寺発行の国宝文殊菩薩付属の写真より

この善財童子像は一時期可愛いと人気だった。
奈良・安倍文殊院蔵渡海文殊群像うち善財童子 同寺発行の国宝文殊菩薩付属の写真より


華厳海会善知識曼荼羅 鎌倉時代、13世紀 東大寺蔵
「明恵の夢と高山寺展」では、善財童子が53人の善知識のもとを訪れて教えを請うという物語を小さな区画に描かれた仏画を見て驚いた。華厳経で善財童子がこんなにも重要な役を担っていたとは。詳しくはこちら
新・善財童子 求道の旅-華厳経入法品・華厳五十五所絵巻』の絵巻を一区画にまとめたものだと、後に知ることになった。
東大寺蔵華厳海会善知識曼荼羅 鎌倉時代、13世紀 明恵の夢と高山寺展図録より


また日本では、白衣観音と共に描かれている。

白衣観音図 鎌倉時代末期、1319年以前 約翁徳倹賛 絹本墨画 100.8X41.7㎝
『水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆』で衞藤駿氏は、補陀落山中にあって竹林を背景にした幽境の岩上に瞑想する白衣観音に、善財童子を配している。図様は中国元代水墨白衣観音図を踏襲しているが、暈渲豊かな水墨技法はかなりの習熟を示している。
賛者の約翁徳倹(1244-1319)は鎌倉の出身で、蘭溪道隆に師事し入元帰国の後諸寺を歴任、文保元年(1317) 一山一寧をついで南禅寺に住した。南禅寺塔頭法皇寺に自賛の頂相がある。元応元年(1319)、76歳で示寂しているから、本図はお よそ1300年前後の制作と推定され、制作時期を明確にする初期水墨画としての資料価値は高いという。 
約翁徳倹賛白衣観音図  水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆より

善財童子は唐子のような髪型で幼児のよう。善財童子が乗っている岩に打ち付ける波涛が龍の頭のよう。
約翁徳倹賛白衣観音図  水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆より


白衣観音図 吉山明兆筆 東福寺蔵 室町時代、15世紀
紙本着色 縦336.2横281.2㎝ 
同展図録は、ダイナミックな筆致による岩窟描写のなか、荒れ狂う波濤上の岩座に正面向きの白衣観音を描き、画面下部には龍と善財童子とを配して、安定した三角形構図を形作っている。筆勢あふれる水墨描写と計算された画面構成とが絶妙に均衡を保っている作といえようという。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より

善財童子
着物の後ろ側がもこもこしているので、遠くから眺めると迦陵頻伽のように見えた。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


高麗時代の白衣観音図にも善財童子は描かれている。

水月観音像 13-14世紀 絹本着色 縦144.0横62.6㎝ 慧虗筆 東京・浅草寺蔵
同展図録は、水面からのびる踏割蓮華の上で、右方へ一歩足を踏み出す白衣の観音。左手には浄瓶、右手には柳枝を指先で軽くとり、全身は大きな緑色の滴形の光背に包まれる。全体に白を基調とした精緻な描写が際立つ。文様が衣褶線に合わせて変形するなど、高麗仏画には珍しい合理的な造形感覚もまた宋代画に通じるといえようという。
光背の緑色が異彩を放っていた。光背の緑に包まれた白衣の観音は朧気である。
東京 浅草寺蔵 水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より 

善財童子は中年のような横顔。
東京 浅草寺蔵 水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より


水月観音像 13-14世紀 絹本着色 縦100.4横49.6㎝ 大和文華館蔵
『高麗仏画展図録』は、画面中央、波立つ海上に湧出した岩に、半跏にした観音の姿を描く。ひきしまった上半身をやや右に傾けて、右手を膝にかけ、くつろいだ姿勢をとる。切れ長のややつり上がった目元、ひきしまった唇などによる表情も若々しく、清新な印象を与える。天衣や瓔珞、足元の蓮華が左に向かい風にたなびく描写には、優れた風動表現がみられる。この風のなかで、善財童子は蓮弁の舟で巧みに波に乗り、膝を軽く曲げ合掌しつつ観音を仰ぎ見るという。
赤い色が鮮明で他の水月観音像とは全く異質の図像である。 
大和文華館蔵水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より

岩座ではなく、蓮弁を舟にして観音に近づこうとしている善財童子には頭光があり、着衣の細かな文様も截金と見紛うばかりだが、高麗仏画では截金ではなく金泥で表されていることを泉屋博古館の「高麗仏画展 香りたつ装飾美展」(2016年)で知っていた。
大和文華館蔵水月観音像 高麗仏画 香りたつ装飾美術展図録より


そして中国では。

彬県大仏寺羅漢洞 渡海文殊群像  唐時代
『仏像図典』は、文殊は釈迦入滅の後インドに生まれ、菩薩道を修し、釈迦十大弟子たちと往復問答をしたのをはじめ、仏典結集に深い関係をもったと考えられる。従って十大弟子と共に文殊・普賢を上首とする釈迦如来の代表的眷属として釈迦三尊には不可欠の尊である。
又文殊はごく現世的な歴史上の人物として説かれたもので、維摩居士の如く確に現実の人物であったかと考えられるという。
獅子の肢はそれぞれ丸い台に乗っているが、蓮台なのだろうか。善財童子は片足を小さな台に、もう一方を獅子の台の上に乗せている。


唐時代には石窟で渡海文殊群像が浮彫されているが、中国では白衣観音図に善財童子は登場しないのだろうと思っていたところ、「宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展」で、元時代の楊柳観音図に善財童子が登場していた。

楊柳観音像 絹本著色 縦110.6横54.9㎝ 元時代、13-14世紀 奈良・円生院蔵
『宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録』は、海中の補陀落浄土に現れるという観音菩薩の姿を描く。白波が打ちつける岩座に、足を寛がせて組み安坐する観音が、穏やかな表情で来訪者を迎えている。本図の観音の姿は、中国の唐時代に活躍した周昉が、補陀落に住まう観音として創始した「水月之体(水月観音)」に通じ、その姿はいずれも足を寛がせて坐る「破坐」であったとみられるという。
奈良・円生院蔵 楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より

同展図録は、観音の元へ訪れるのは、海中から現れ宝珠を捧げている龍や、荒波の中に浮かぶ蓮弁上で合掌して拝する善財童子らという。
蓮華の花弁の舟に乗っている善財童子は驚きの中年の姿。
奈良・円生院蔵 楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より


刺繡楊柳観音像 元時代、元貞元年(1295)頃 愚極智慧賛 淡黄平絹地、刺繡 縦59.8横37.7㎝ 京都国立博物館蔵
同展図録は、補陀落山をあらわす海中の巌上に、くつろいだ姿で坐す楊柳観音。観音菩薩が住むという補陀落山の様相が、金色まばゆく刺繍されているという。
その刺繍による文様について詳しく記されているので、次回忘れへんうちににて
京都国立博物館蔵 刺繡楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より

この善財童子は童子形と言っても良いだろう。
青海波文様のような互い違いに配される波文が文様として様式化されておらずいい感じ。
京都国立博物館蔵 刺繡楊柳観音像 宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録より

 
       絵巻物の異時同図


関連記事

参考文献
「超 国宝-祈りのかがやきー展図録」 奈良国立博物館編集 2025年 奈良国立博物館・朝日新聞社・NHK奈良放送局・NHKエンタープライズ近畿図録
「新・善財童子 求道の旅-華厳経入法品・華厳五十五所絵巻より-」 森本公誠 2023年 朝日新聞社
「国宝文殊菩薩」 日本三文殊第一霊場 安倍文殊院
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館
「水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆」 田中一松 1978年 講談社
「宋元仏画 蒼海を越えたほとけたち展図録」 2025年 京都国立博物館



2024/01/05

明兆の白衣観音図に龍


昨年白衣観音図をまとめていた頃、1978年発行の『水墨美術大系第5巻』に明兆の白衣観音図がとても小さなモノクロームの図版を見つけた。それで作品自体も小さなもので、あまり重視されていない作品なのかと思っていた。
ところが、東福寺展が2023年春に東京国立博物館で、秋に京都国立博物館が開催され、この作品が展示されることがわかった。そして、ある美術展を紹介する番組で、驚くほど大きなものであることを知り、秋の東福寺展に足を運んできた。
実際にそれは、博物館の展示スペースぎりぎりの高さほどもあった。白衣観音図は下から見上げたが、下辺右端の龍やや視線を下げてしっかりと見ることができた。年を取ると文字に限らず、大きい方が有り難い。

これが明兆が描いた龍である。明兆がこれ意外にも龍を描いているのかわからないが、迫力があるというよりは、波涛と岩との間に顔を出して、座禅を組む白衣観音の妨げになるものを追い払うべく睨んでいる程度。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


白衣観音図 吉山明兆筆 東福寺蔵 室町時代、15世紀
紙本着色 縦336.2㎝ 横281.2㎝ 
同展図録は、明兆は数多くの大作・連作を描いたことで知られるが、そのなかでも本作の巨大さは圧倒的である。ダイナミックな筆致による岩窟描写のなか、荒れ狂う波濤上の岩座に正面向きの白衣観音を描き、画面下部には龍と善財童子とを配して、安定した三角形構図を形作っている。筆勢あふれる水墨描写と計算された画面構成とが絶妙に均衡を保っている作といえよう。
本作は東福寺法堂の仏後壁に貼られていた可能性が指摘されている。法堂の再建上棟は応永35年(1428)だが、本作にみる荒々しい水墨描写からみても明兆最晚年作とみられ、この時期に制作されたものとして様式的に矛盾はない。ただし面貌表現には固さが残り、「寒山・拾得図」と紙継ぎの寸法が一致することとも合わせ、この時期における明兆工房の様態を改めて検証する必要があるだろう。ただいずれにせよ、明兆の最晩年様式がここに如実に示されていることは間違いなく、その規格外のスケールからみても、明兆の代表作の一つとして評価できるという。
その番組では、白衣観音の大きな頭光が垂れ下がる岩窟の奥に描かれているので、岩座は岩窟よりも向こうにあるとも言っていた。ということは、白衣観音は奥の岩の上に坐っていて、善財童子や龍は岩の手前にいるので、両者の間にはかなり距離があることになる。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より

静かに座禅を組む白衣観音
中国では南宋時代以降、高麗仏画にも、日本でも、白衣観音図は様々な描き方をされているが、このように正面向きの作品は少ない。それは、掛け軸などのような個人で鑑賞するものと違い、法堂の仏後壁という描かれた場所なので、寛いだ白衣観音を描く訳にもいかなかったのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


そして善財童子
明恵の夢と高山寺展図録』は、『華厳経』の最終章である入法界品は、善財童子が文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語であるという。
着物の後ろ側がもこもこしているので、どちらかというと迦陵頻伽のように見えた。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より

善財童子と言えば、2019年の「明恵の夢と高山寺展」で、文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語である(同展図録より)。この主題を描いた華厳海会善知識曼荼羅(鎌倉時代 13世紀)は不鮮明なところが多く、白衣観音に教えを請う図があるのかどうか分からなかったので、検索すると、奈良国立博物館の収蔵品データベースに絹本墨画の白衣観音(鎌倉時代13-14世紀)を見つけた。

同サイトは、さとりの道を求める旅に出た善財童子が補陀落山で観音菩薩にまみえるという、『華厳経』入法界品に説かれる一場面を水墨で描く。竹林が茂る深山幽谷の中、白衣をまとった観音菩薩が坐禅瞑想し、小岩上で合掌礼拝する善財童子と相対する。賛者の約翁徳倹(1245-1320)は、中国に渡って阿育王寺や天童寺で学び、帰国後に南禅寺などの住持を務めた禅僧。
本図への着賛は、帰国後に建長寺内の長勝寺の開山となった永仁4年(1296)以降の晩年と考えられる。日本で描かれた現存最古の白衣観音図の一つとして貴重という。
昨年まとめた白衣観音図 日本では一番古いもので、一山一寧(1299来朝-1317没)賛の白衣観音図だったので、奈良博本の方が古そうだ。 


せっかくなので、明兆の寒山拾得図も。

寒山拾得図 吉山明兆筆 二幅 室町時代、15世紀
紙本着色 各縦248.6㎝ 横112.0㎝(描表装を含む)
紙継ぎの寸法が白衣観音図と一致することから、同時期の作品と考えられている作品。
同展図録は、寒山と拾得は中国唐時代の風狂の僧で、水墨画の画題として多く取り上げられた。本作における二人の奇怪な面貌は、中国の道釈画家・顔輝の作例に通じる表現である。 
文化12年(1815)の「虫拂方丈之図」 や、天保4年(1833) 刊『新古書画雲烟供養展観録』などでは、本作は達磨図の脇幅として掲出されている。ただし、達磨図やそれと同時期作とみられる蝦蟇鉄拐図および「円爾像」とは、描表装の形式や画風が微妙に異なり、それらに合わせるために後に追加制作されたものとみられる。 
近年の修理により、本作は各幅とも最大値で縦34.2、横58.9㎝ほどの料紙を継いで構成されていること、またそれら一紙あたりの寸法が「白衣観音図」と近似することが報告されている。渇筆混じりの野太く粗削りな岩描など、画風の面でも共通点を見出すことができ、両者が同時期に制作された可能性は高い。白衣観音図は応永35年(1428)の法堂上棟に合わせて描かれたとも指摘されており、本作もこの時期に制作されたものとみられる。明兆最晩年における工房の様態は明らかではないが、本作の描写の一部には弟子の関与も考慮されるという。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図 東福寺展図録より

ということで、昨年顔輝の寒山拾得図に似ていると記事に書いたが、誰もが感じることだった。
きっと明兆は、顔輝の寒山拾得図を見たことがあって、その顔が気に入っていたのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図部分 東福寺展図録より


          白衣観音図 日本←     →建築倉庫に行ってみた


関連記事

参考文献
「東福寺展図録」 東福寺・東京国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社編 2023年 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館

2023/04/07

アアイ石窟のある天山神秘大峡谷


新疆ウイグル自治区のアアイ石窟にはガラス容器を持った薬師瑠璃光如来の壁画があった。

『シルクロード 悠久の大地』は、亀茲国(クチャ)に分布する仏教石窟は、キジル千仏洞にせよクムトラ千仏洞にせよ比較的村里に近い、河川のある風光明媚な断崖に造営されている。それは修行者が静寂の中で仏道に精進することができ、かつ食料を入手しやすい場所、さらに、村人が日帰りで参詣できる距離にあることが石窟造営の基本的条件であるからだ。
それに対してアアイ石窟は、村落から60㎞余も離れ、かつ深山幽谷にある。雨がまた降れば瞬く間に道はぬかるみ、河川の浸食で形作られた土の壁が両側から迫る。なぜこのような厳しい場所に仏教石窟が造られたのだろうか。理由はただ一つ、天山山脈を越えて亀茲国に侵入しようとする遊牧騎馬民族の西突厥を、その入り口で撃破するために辺境防衛にあたっていた、アゲ城の士卒や工匠や商人たちの礼拝窟であったことによるという。
アゲ故城はまだGoogle Earthで探し出せないでいる。
新疆ウイグル自治区アアイ石窟と天山山脈南麓のアゲ故城の位置 『シルクロード 悠久の大地』より


『シルクロード 悠久の大地』は、この石窟は、1999年5月、薬草の採取と放牧のために、天山山脈の奥地に入った24歳の二人のウィグル族の牧人、アブレティとトルビーによって偶然に発見された。二人は行方不明になった羊を探しに山奥に入ると、25mほどの断崖の中ほどに穴が開いているのを見つけた。不思議に思い上部からロープを下ろして穴をのぞき込んでみると、そこは絢爛たる仏教石窟であったという。
その2人はこの峡谷に入り込んだのではなく、崖の上で放牧していたようだ。
現地ガイドの丁さんに、天山神秘大峡谷にアアイ石窟がありますと教えてもらったことを覚えている。

石窟の開鑿と壁画の描き方について同書は、アアイ石窟は8世紀に開鑿されたほぼ方形の石窟で、正面と左右に美しい壁画が描かれ、中央の壇には一体の仏像が安置されていた。
石室は、断崖の中腹に鋭利な道具で穴を開け、最初に荒土を塗り、その上に葦草・羊毛・麻などを細かく切りきざんでよく混ぜ、その草泥皮の上に白土が塗ってあった。白土の上に画工が下絵を描いたのち着色している。
壁画は非常に丹念に制作され、その内容は仏・菩薩・千仏・経変である。絵画の特色と傾向性から、唐の長安や洛陽の文化と、亀茲国の伝統文化とが融合、調和して、独自の仏教美術を具現したものといえるという。

アアイ石窟左面壁画 唐代・8世紀
同書は、石窟の成立年代の詳細は不明だが、23ヵ所に及ぶ漢文の題記が、盛唐時期の書法、風格と一致していること、さらに正壁の足の甲を交わらせて座る結跏趺坐した仏と、莫高窟27窟北壁の唐代に描かれた仏との類似を指摘したい。そのほか、壁画中の人物像の多くは、唐代の長安や洛陽の画法の特徴をよくとらえていた。豊満で穏やかな顔立ちは、中国人物画法の成熟時期と重なっている。
左側の壁画を見ると、五体の仏菩薩立像として描かれているが、自然破壊によって下部の剥落がはげしいのが残念であるという。
下図左端の如来坐像は他の如来と比べると上半身が大きいので坐像だと思っていたが、立像らしい。
新疆ウイグル自治区アアイ石窟左面壁画 『シルクロード 悠久の大地』より


薬師瑠璃光如来像 8世紀 新疆ウイグル自治区アアイ石窟左面奥 
左手持つ丸い底の碗形の透明ガラス容器は、『ガラスの来た道』は後期ササンガラスとし、ササン朝ペルシアは651年に滅びている。カットガラス器は伝来していたものを写したのだろうか、それとも図像として流行したものだったのだろうか。
仏教において、「瑠璃」は浄土を飾る七宝(金・銀・水晶・珊瑚・琥珀・瑪璃瑠璃)の一つとされている点があげられよう。当初この瑠璃が何を意味していたかは諸説あるがそれはさておき、東アジアでは仏教が広がるにつれて、「瑠璃」=ガラスとして、仏舎利或いは仏像、寺院等の荘厳にふさわしい材料として認識されていくのであるという。
詳しくはこちら
アアイ石窟左面の薬師瑠璃光如来立像  『シルクロード 悠久の大地』より


文殊師利菩薩
同書は、釈迦の9代前の本師とされる文殊師利菩薩である。文殊はインドの舎衛国のバラモンの子として生まれたが、のちに出家して普賢と共に智慧第一の菩薩として、多くの衆生を教化したと説かれている。中国では東晋後期に文殊信仰が盛んとなり、五台山は文殊の聖地とされた。
アアイ石窟の文殊師利菩薩は宝冠をつけ、首に2連の宝珠をかけ、両手に釧をかけて、右手に蓮華を持っている。特に、注目されるのは宝冠の華麗さで、莫高窟などにも、絢爛豪華な冠をつけた菩薩の壁画が多く見られるが、アアイ石窟の壁画は決してそれに見劣りするものではない。
なお、トルファンの吐峪溝石窟から出土した唐代の絹画の菩薩の宝冠と、アアイ石窟の日月をかたどった宝冠とは、色彩も図案も共通点が多く見られたという。
どんな獅子に乗っていたのだろう。
アアイ石窟左面の文殊師利菩薩  『シルクロード 悠久の大地』より


盧舎那仏 
同書は、「華厳経」の中心的な存在とされる盧舎那仏である。左肩に「此の妙響の音を聞き、尽く当に此に雲集すべし」としての梵鐘、右肩に鼓、その下に一仏四菩薩を描いている。さらにその下に須弥山を描き、山の下に4蛇を、その下に走馬を描き、左に月、右に太陽を描いている。
また、首の三道をはっきりと描き、右の腕に手先の方から白象、阿修羅、天人を描き、左手は施無畏、右足に甲冑をつけた武士、左足に男女1人ずつ供養人を描いている。
腰には銙帯を巻き、前中央に一条の腰佩(腰につける飾り)が垂れ下がっている。髪は螺髪で頂に肉髻があり、青眼の瞳は紺青で青蓮華のつぼみのようである。全世界の衆生の声を聞くが如き大きく長い耳朶、表情は威厳と静穏を兼備している。
このように衣に月や太陽など宇宙表現の図像を描くという発想は、莫高窟428窟の盧舎那仏と相通ずるところがある。特に、アアイ石窟も莫高窟も、共に盧舎那仏として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を衣に描いていることは注目される。なお、左壁に描写されている千仏は、すべて美しい袈裟をつけて蓮華座上に描かれ、その袈裟の色は茶を主とするものと、白に近い薄墨色を主とするものを交互に配置しているという。
敦煌莫高窟428窟(北周 557-581)南壁の盧舎那仏立像はこちら
新疆ウイグル自治区アアイ石窟左壁盧舎那仏 『シルクロード 悠久の大地』より

同書は、右壁の仏画についても記述はあるのに図版がないのが残念。
 
もうずいぶん前のことになるが、真っ赤な天山神秘大峡谷の中を歩いたことがある。その時の写真で天山神秘大峡谷を振り返ってみよう。


同書は、洞窟はクチャ県城北方約60㎞、ウィグル語でキジャー(紅い山)と呼んでいるクズリア大峡谷の中に造営されていた。ここは幾万年に及ぶ風雨剥蝕、山洪冲刷を経てできた峡谷で、石窟はクムログエ渓谷の奥深い岸壁の西側に開鑿されていた。幅の広いところは53m、狭いところは4、50㎝しかなく、やっと一人通れるかどうかの幅である。この渓谷の水は、地上に出たかと思えば地下に伏流水となって見えなくなり、窟から2㎞ほど離れたクチャ川の上流の東川水に流れ注いでいるという。

入口は狭い。

空が狭いが、

下部は広くなっいていて湿り気のある河床を歩いていく。

崖の左右で浸食された方向が違う。河床は段々と水分を含んできた。


階段を上がり、


また崖の上が狭くなった。

仏教と関係なさそうなものも。


地面は水気が出てきて、巨大な落石をよけて進む。


キジル石窟へ向かう道で見たのと同じように浸食された不思議な容貌の断崖。

右下にパネルあり。これがアアイ石窟を示すものだろうか。


その近くに「千仏洞」の説明パネルがあった。
8世紀に作られた千仏洞は、大峡谷内1400mに位置し、高さ35mの赤砂岩の上にあり、縦4.6m、横3.5m、面積約16㎡の規模です。洞窟の入口は、南北に37度東を向いている。
洞窟の主壁に描かれた「西方浄土変容図」は保存状態がよく、厳格で柔らかい線が特徴で、唐代中期のもので、左右のに「十六観」が描かれている。
この洞窟には、中国語とキジル語の題記が各23あり、中国文化の豊かさと完全性において、古代西域の数百の洞窟の中でも独特であるという。

霊光洞 小さなくぼみには台座のようなものがあるだけ。


門に谷世盖の文字が


他にもパネルがあるが、隠れて見えなかった。


この奥にも何かあるらしい。


そこには誰もいないチケット売り場と整備された登山道。しかしこれはアアイ石窟に行くものではない。


丁さんはどんどん先へ行く。


前方に黒いものが

そして行き止まりか。岩が崩れていた。

その岩には「金字塔」と書かれている。中国語でピラミッドのことだ。行き止まりではなさそうだが、ここから引き返した。


      唐時代の仏画にガラス器

参考文献
「シルクロード 悠久の大地」 山田勝久 2020年 笠間書院
「ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き」 小寺智津子 2023年 吉川弘文館