新疆ウイグル自治区のアアイ石窟にはガラス容器を持った薬師瑠璃光如来の壁画があった。
『シルクロード 悠久の大地』は、亀茲国(クチャ)に分布する仏教石窟は、キジル千仏洞にせよクムトラ千仏洞にせよ比較的村里に近い、河川のある風光明媚な断崖に造営されている。それは修行者が静寂の中で仏道に精進することができ、かつ食料を入手しやすい場所、さらに、村人が日帰りで参詣できる距離にあることが石窟造営の基本的条件であるからだ。
それに対してアアイ石窟は、村落から60㎞余も離れ、かつ深山幽谷にある。雨がまた降れば瞬く間に道はぬかるみ、河川の浸食で形作られた土の壁が両側から迫る。なぜこのような厳しい場所に仏教石窟が造られたのだろうか。理由はただ一つ、天山山脈を越えて亀茲国に侵入しようとする遊牧騎馬民族の西突厥を、その入り口で撃破するために辺境防衛にあたっていた、アゲ城の士卒や工匠や商人たちの礼拝窟であったことによるという。
アゲ故城はまだGoogle Earthで探し出せないでいる。
『シルクロード 悠久の大地』は、この石窟は、1999年5月、薬草の採取と放牧のために、天山山脈の奥地に入った24歳の二人のウィグル族の牧人、アブレティとトルビーによって偶然に発見された。二人は行方不明になった羊を探しに山奥に入ると、25mほどの断崖の中ほどに穴が開いているのを見つけた。不思議に思い上部からロープを下ろして穴をのぞき込んでみると、そこは絢爛たる仏教石窟であったという。
その2人はこの峡谷に入り込んだのではなく、崖の上で放牧していたようだ。
現地ガイドの丁さんに、天山神秘大峡谷にアアイ石窟がありますと教えてもらったことを覚えている。
石窟の開鑿と壁画の描き方について同書は、アアイ石窟は8世紀に開鑿されたほぼ方形の石窟で、正面と左右に美しい壁画が描かれ、中央の壇には一体の仏像が安置されていた。
石室は、断崖の中腹に鋭利な道具で穴を開け、最初に荒土を塗り、その上に葦草・羊毛・麻などを細かく切りきざんでよく混ぜ、その草泥皮の上に白土が塗ってあった。白土の上に画工が下絵を描いたのち着色している。
壁画は非常に丹念に制作され、その内容は仏・菩薩・千仏・経変である。絵画の特色と傾向性から、唐の長安や洛陽の文化と、亀茲国の伝統文化とが融合、調和して、独自の仏教美術を具現したものといえるという。
アアイ石窟左面壁画 唐代・8世紀
同書は、石窟の成立年代の詳細は不明だが、23ヵ所に及ぶ漢文の題記が、盛唐時期の書法、風格と一致していること、さらに正壁の足の甲を交わらせて座る結跏趺坐した仏と、莫高窟27窟北壁の唐代に描かれた仏との類似を指摘したい。そのほか、壁画中の人物像の多くは、唐代の長安や洛陽の画法の特徴をよくとらえていた。豊満で穏やかな顔立ちは、中国人物画法の成熟時期と重なっている。
左側の壁画を見ると、五体の仏菩薩立像として描かれているが、自然破壊によって下部の剥落がはげしいのが残念であるという。
下図左端の如来坐像は他の如来と比べると上半身が大きいので坐像だと思っていたが、立像らしい。
薬師瑠璃光如来像 8世紀 新疆ウイグル自治区アアイ石窟左面奥
左手持つ丸い底の碗形の透明ガラス容器は、『ガラスの来た道』は後期ササンガラスとし、ササン朝ペルシアは651年に滅びている。カットガラス器は伝来していたものを写したのだろうか、それとも図像として流行したものだったのだろうか。
仏教において、「瑠璃」は浄土を飾る七宝(金・銀・水晶・珊瑚・琥珀・瑪璃瑠璃)の一つとされている点があげられよう。当初この瑠璃が何を意味していたかは諸説あるがそれはさておき、東アジアでは仏教が広がるにつれて、「瑠璃」=ガラスとして、仏舎利或いは仏像、寺院等の荘厳にふさわしい材料として認識されていくのであるという。
詳しくはこちら
文殊師利菩薩
同書は、釈迦の9代前の本師とされる文殊師利菩薩である。文殊はインドの舎衛国のバラモンの子として生まれたが、のちに出家して普賢と共に智慧第一の菩薩として、多くの衆生を教化したと説かれている。中国では東晋後期に文殊信仰が盛んとなり、五台山は文殊の聖地とされた。
アアイ石窟の文殊師利菩薩は宝冠をつけ、首に2連の宝珠をかけ、両手に釧をかけて、右手に蓮華を持っている。特に、注目されるのは宝冠の華麗さで、莫高窟などにも、絢爛豪華な冠をつけた菩薩の壁画が多く見られるが、アアイ石窟の壁画は決してそれに見劣りするものではない。
なお、トルファンの吐峪溝石窟から出土した唐代の絹画の菩薩の宝冠と、アアイ石窟の日月をかたどった宝冠とは、色彩も図案も共通点が多く見られたという。
どんな獅子に乗っていたのだろう。
盧舎那仏
同書は、「華厳経」の中心的な存在とされる盧舎那仏である。左肩に「此の妙響の音を聞き、尽く当に此に雲集すべし」としての梵鐘、右肩に鼓、その下に一仏四菩薩を描いている。さらにその下に須弥山を描き、山の下に4蛇を、その下に走馬を描き、左に月、右に太陽を描いている。
また、首の三道をはっきりと描き、右の腕に手先の方から白象、阿修羅、天人を描き、左手は施無畏、右足に甲冑をつけた武士、左足に男女1人ずつ供養人を描いている。
腰には銙帯を巻き、前中央に一条の腰佩(腰につける飾り)が垂れ下がっている。髪は螺髪で頂に肉髻があり、青眼の瞳は紺青で青蓮華のつぼみのようである。全世界の衆生の声を聞くが如き大きく長い耳朶、表情は威厳と静穏を兼備している。
このように衣に月や太陽など宇宙表現の図像を描くという発想は、莫高窟428窟の盧舎那仏と相通ずるところがある。特に、アアイ石窟も莫高窟も、共に盧舎那仏として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を衣に描いていることは注目される。なお、左壁に描写されている千仏は、すべて美しい袈裟をつけて蓮華座上に描かれ、その袈裟の色は茶を主とするものと、白に近い薄墨色を主とするものを交互に配置しているという。
敦煌莫高窟428窟(北周 557-581)南壁の盧舎那仏立像はこちら
新疆ウイグル自治区アアイ石窟左壁盧舎那仏 『シルクロード 悠久の大地』より |
同書は、右壁の仏画についても記述はあるのに図版がないのが残念。
もうずいぶん前のことになるが、真っ赤な天山神秘大峡谷の中を歩いたことがある。その時の写真で天山神秘大峡谷を振り返ってみよう。
同書は、洞窟はクチャ県城北方約60㎞、ウィグル語でキジャー(紅い山)と呼んでいるクズリア大峡谷の中に造営されていた。ここは幾万年に及ぶ風雨剥蝕、山洪冲刷を経てできた峡谷で、石窟はクムログエ渓谷の奥深い岸壁の西側に開鑿されていた。幅の広いところは53m、狭いところは4、50㎝しかなく、やっと一人通れるかどうかの幅である。この渓谷の水は、地上に出たかと思えば地下に伏流水となって見えなくなり、窟から2㎞ほど離れたクチャ川の上流の東川水に流れ注いでいるという。
入口は狭い。
8世紀に作られた千仏洞は、大峡谷内1400mに位置し、高さ35mの赤砂岩の上にあり、縦4.6m、横3.5m、面積約16㎡の規模です。洞窟の入口は、南北に37度東を向いている。
洞窟の主壁に描かれた「西方浄土変容図」は保存状態がよく、厳格で柔らかい線が特徴で、唐代中期のもので、左右のに「十六観」が描かれている。
この洞窟には、中国語とキジル語の題記が各23あり、中国文化の豊かさと完全性において、古代西域の数百の洞窟の中でも独特であるという。
そこには誰もいないチケット売り場と整備された登山道。しかしこれはアアイ石窟に行くものではない。
参考文献
「シルクロード 悠久の大地」 山田勝久 2020年 笠間書院
「ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き」 小寺智津子 2023年 吉川弘文館