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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2021/02/19

敦煌莫高窟19 428窟は一仏二弟子二菩薩像の最初


莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌莫高窟の428窟(北周)と427窟(隋)は、隣り合う中心柱窟で、それぞれの特徴がそれぞれの時代の様式を表している。
敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

428窟 北周期(557-581)
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。
中心柱四面龕内には結跏趺坐する如来が説法する様子を表現している。如来の顔は四角く、着衣は褒衣博帯という。

『中国の仏教美術』は、この時代を代表するのは第428窟である。莫高窟の北周塑像もまた、坐像にあっては胴長、全体としては頭部が大きめで、いわゆる童子形といえるという。
やはり中心柱を右繞する通路の天井はラテルネンデッケが並んでいる。
428窟中心柱東向き壁 釈迦説法像 北周 『敦煌の美と心 シルクロード夢幻』より

龕外にいるのは菩薩で、天王ではない。龕内には、上図では釈迦の右手に阿難が、下図では釈迦の左手には迦葉という十大弟子の最年少と最年長が釈迦の説法を聴いている。
『敦煌の美と心』は、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
なんと、そうだったのか🤗 一仏二弟子二菩薩という群像の成立は北周期だったのだ。
428窟中心柱東向き壁 一仏二弟子二菩薩像 北周期 『中国の仏教美術』より

どの図版にも阿難と迦葉を写したものがないので合成してみたが、若い阿難はそれなりに見分けることができるものの、『中国の仏教美術』では、清代の彩色もあって、年老いた雰囲気が伝わってこない。
428窟中心柱東向き壁 一仏二弟子二菩薩像うち阿難と迦葉 北周期

主室北壁
人字披天井とは、切妻天井で、頂部に平たい部分がある中国式の天井のこと。
この狭い三角形の頂部にも、説法図が描かれているが、千仏の下にはもっと大きな説法図が描かれているのが、下図に部分的に見える。
428窟前室北壁 釈迦説法図 北周 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

説法図の続きには千仏の下に仏伝図が並ぶ。 
『中国の仏教美術』は、北周の莫高窟において顕著な現象は、本生、仏伝、因縁といった、小乗仏教的な壁画主題の扱われ方に変化が生じた点である。5世紀に造営された現存左の窟からも北周が敦煌を治める6世紀中頃にかけて、多くの場面を連続して表す形式の小乗的主題は、後壁や側壁といった石窟内の目立つ部分に描かれている。しかし、6世紀後半の北周時代にそれらは前壁に移され、やがて追いやられるようにして天井に表されるという。
428窟北壁 千仏と仏伝図  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

仏伝図としては、

釈迦説法図の左に降魔成道図
『シルクロードの仏たち』は、釈尊が菩提樹の下で禅定に入り、成道(悟り)の時が近づくと、マーラー・パピヤス(波旬)が現れた。マーラーは欲望を満たしてくれる最高神で、釈尊のように欲望を棄てようとする菩薩にとっては邪魔者である。降魔は悪魔のマーラーとその一族が降伏する意味で、降魔の後に釈尊は清浄な四禅定と呼ばれる状態に至ったという。
428窟北壁 降魔成道図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

涅槃の場面
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期壁画の中では唯一の涅槃図。釈迦は沙羅双樹の下で涅槃に入り、右脇を下にして臥しているという。
キジル石窟では中心柱の奥の壁面には必ず涅槃図あるいは涅槃像があるが、この窟では西壁に描かれている。釈迦の足をさすっているのは、説法に出掛けていて釈迦の涅槃に間に合わなかった迦葉。顔料が変色してしまって、人物の顔貌は想像もできない。
横向きに臥しているのに、その足だけは上を向いている。こんな絵が私は好き😊
428窟西壁 仏涅槃図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

『シルクロードの仏たち』は、インドでは古代から輪廻が信じられてきた。過去における前生の出来事の物語-これをジャータカ(本生譚)と呼び、釈尊が過去における別の生涯で善行をした物語が多い。初期仏教(上座部)では「ジャータカ」が多く、大乗仏教が盛んになると「仏伝」(釈尊の生涯)が比較的多くつくられるようになったという。

スダーナ太子本生図
自分の持ち物を請われるままに与えてしまうスダーナ太子の物語。
『敦煌莫高窟1』は、上段は白象をバラモンに求められたため与える太子の場面。中段は宝象に乗ったバラモンたちが国に帰り、太子にもらったことを告げる場面。下段は太子が山に入り修行する場面を表すという。
428窟東壁北側 スダーナ太子本生図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

サッタ太子本生図または捨身飼虎図 
左上の場面では、太子は寝そべったが、弱った母虎は食べることが出来なかった。その右の場面では、自分の首を落として崖から飛び降り、肉体が砕けた状態で地面に落下したので、母虎も子虎たちも肉を食べて生き延びることができた、というような話。
下段では、そのことを聞いた2人の兄が遺骨を拾い、国王が供養塔を建てたという。
428窟東壁南側  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

盧遮那仏 南壁中層
『敦煌莫高窟1』は、通肩の袈裟を着けた盧舎那仏は、立ったまま説法をしている。左右には眷属の菩薩たち、敦煌莫高窟で最初期の盧舎那仏説法像であるという。
大乗仏教の毘盧遮那仏は隋代に登場する。上座部仏教の本生図などもあって、その分岐点が428窟なのだった。
428窟  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

同書は、袈裟に描かれた絵画は、「欲界」を表している。上部は天で、仏像、天宮、阿修羅、飛天。
大衣の裾までの中部には人界の4場面。赤い衣文線で4つに分けている。
下部は無間地獄で刀の出た山、剣の池、餓鬼などが表されている。図の下には供養者が描かれているという。
428窟  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

北魏による長期の統治の後、東魏、北周、隋と短い政権がころころと建っては滅んでいった。短期ではあっても、それぞれの時代の特徴が仏教美術に表れている。


「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健監修・山田樹人著 1990年 里文出版

2021/02/12

中心柱窟とは


これまでに見学した石窟の中には、中心柱窟は幾つか見てきた。最初に行ったのは敦煌莫高窟だが、歴史的にはキジル石窟の中心柱窟の方が先行する。

キジルの中心柱窟
貴重書で綴るシルクロードの西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什(以下『貴重書』)は、主な構造には中心柱窟・方形窟・僧房窟の三種があるが、中でも特徴的なのは中心柱窟であるという。
『中國新疆壁畫全集 克孜爾1』(以下『克孜爾1』)は、初創期(3世紀末-4世紀中頃)に中心柱窟は出現しているという。

発展期(4世紀中頃-5世紀末)の38窟でみていくと、細長い矩形の平面のかなり奥に中心柱が彫り出されている。
キジル石窟38窟の外観と平面図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『キジル大紀行』は、中心柱の手前の大きな部屋は「主室」、後ろ側には「後室」と呼ばれる小さな部屋があり、この二つの空間は「側廊」と呼ばれるトンネル状の通路で結ばれている。このような主室と後室をトンネルで結ぶ石窟形式はキジルで生まれ、後に敦煌や雲崗、龍門など中国の主要な石窟寺院に受け継がれていったという。

『貴重書』は、これは主室・中心柱・回廊の三部分からなり、壁面構成はほぼ一定している。この構造は、以下のような礼拝プログラムにもとづく、一種の舞台装置だ。
窟内に立ち入った者は、まず主室において釈迦の前世や在世時の所行に思いをめぐらしながら、中心柱の本尊釈迦仏を拝するという。
釈迦の前世譚(本生図)や仏伝図が前室下部の側壁に描かれていたようだ。
当時の人々は、釈迦が前世に行った自己犠牲などの話や釈迦の生涯が描かれた絵画を辿り終わってから、釈迦如来を拝んだ。
しかし、現在ではそれらの壁画はよくは残っていなかった。
その後、この図版には写っていない左の通路から後室へと向かうのだが、当時の人たちは小柄だったのだろうか、狭くて天井の低いキジル石窟の側廊を通る時は、どこかに触れてしまいそうだった。
キジル石窟38窟の前室と中心柱の釈迦 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『貴重書』は、ついで中心柱の周囲に穿たれた回廊を右まわりにまわって中心柱を礼拝し、後廊において釈迦の涅槃を目にするという。
左回廊から後廊に回ると、後壁には大きく涅槃図が描かれている。
釈迦の足をさすっているのは臨終に間に合わなかった迦葉。
キジル石窟38窟後室後壁の仏涅槃図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『貴重書』は、そこで無仏の世に生きる自らを思いながら回廊を出ると、主室入口上部に描かれた未来仏たる弥勒を観るというものだ。
中心柱の左右および後部は天井の低い回廊となっており、その壁面には供養者図や僧侶図、ストゥーパ図、涅槃関係の図などが描かれるという。
主室に戻ると、出口の上に弥勒菩薩が描かれていることに気付いた。
キジル石窟38窟前室扉口上の弥勒説法図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『克孜爾1』は、三面頭飾をつけ、臂釧、瓔珞などの装身具をつける。胸前で説法印を結ぶ。半円形の上部には建物が描かれ、弥勒の両側には菩薩たちが説法を拝聴している。これは兜率天で弥勒が説法する情景を描いている。この壁画は、精細な描写といきいきとした表現で、キジル石窟でもこれほどの優品はないという。
弥勒の説法を聞きながら、菩薩たちはそれぞれの身振りで一人一人がその感動を表している。
キジル石窟38窟前室扉口上の弥勒説法図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

敦煌莫高窟の中心柱窟は、キジル石窟と同様に窟の後方に中心柱がある。中心柱の周囲は平天井、その前には人字坡天井となっている。
また、莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌に現存する最古の268・272・275窟(北涼時代、397-439)には中心柱窟はなく、北魏統治期(439-534)から造られるようになるが、隋代(581-618)で終了する。
敦煌莫高窟北朝1-4期石窟平面図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


莫高窟254窟 北魏時代(439-534)の立面図と平面図(見上げ図、天井の装飾)
中心柱は主室後方に、前半は人字披天井で、キジル石窟と同様に礼拝する人々のための空間。
 254窟 北魏 立面図と平面図(見上げ図) 『敦煌莫高窟1』より

中心柱の向き壁及び南向き壁
東向き壁には涼州式偏袒右肩の如来交脚像、南向き壁には2段に穿たれた龕の上側に交脚の菩薩像が残っている。
中心柱4辺の側廊天井には、区画ごとに装飾を凝らしたラテルネンデッケが並んでいる。
ラテルネンデッケについてはこちら
『敦煌莫高窟1』は、高さ1.87mの如来は説法している。光背は火焔と飛天、化生童子。龕内には両側に3段にわたり、各10体の供養菩薩が描かれる。龕頂には飛天が描かれる。龕の外、北側には天王像が1体残っているが、これは当時新出のものであるという。
二天像あるいは仁王像、金剛力士像と呼ばれるものは、敦煌莫高窟の254窟から始まったということかな。
254窟 北魏 中心柱東向き壁の如来交脚像 『敦煌莫高窟1』より

288窟 西魏(535-557)
窟門が崩壊して、前室が露出している。主室は後方に中心柱がある。主室前半は平面図では分からないが、人字披天井となっている。
288窟 西魏 平面図 『敦煌莫高窟1』より

中心柱東向き龕
『敦煌莫高窟1』は、窟頂の楣飾(中国語のまま)化生童子は花盆を捧げている。両側にはそれぞれ5体の供養菩薩跪いて供養の花を持っているという。
中心柱の4辺の平天井はラテルネンデッケが並んでいる中心柱の上部や通路の壁面には千仏が貼り付けられているが、人字披天井のある主室前半には釈迦説法図などが描かれている。
東向き壁の如来は倚像で、龕の外側で二天が護り、龕の下では薬叉たちが護っている。
288窟 西魏 中心柱東向き壁 如来倚像及び二天像 『敦煌莫高窟1』より

北周と隋時代の中心柱窟が並んでいる。

敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

428窟 北周期(557-581)
『敦煌莫高窟1』
は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。
中心柱四面龕内には結跏趺坐する如来が説法する様子を表現している。如来の顔は四角く、着衣は褒衣博帯という。

『敦煌の美と心』は、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
やはり中心柱を右繞する通路の天井はラテルネンデッケが並んでいる。
428窟の他の特徴については次回
428窟 北周期 中心柱東向き壁 釈迦如来坐像 『敦煌の美と心 シルクロード夢幻』より

427窟 隋代(581-618)
『敦煌莫高窟2』は、主室前半は人字披天井、後部は平天井で、北朝の中心柱形式にのっとっている。しかしながら変化もあり、中心柱正面には龕がなく、大型の仏立像が安置されている。一仏二菩薩の組み合わせで、蓮台の上に立つ。中尊は紅色で袖口の広い大衣をまとい、高さは4m余りあるという。
三世仏の三尊像が主室3箇所に大きく彫り出されているので、その背後に中心柱があることに気付かないくらいだった。
427窟はほかにも面白いものが残っている。それについては次回
427窟 東向き壁仏三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

雲崗石窟第6窟 中期窟(470-494)
雲崗石窟の第6窟も大きな中心柱窟で、清代に彩色されていた。
王母宮石窟の中心柱窟について『世界美術大全集東洋編3』は、王母宮石窟は隴東地区の石窟中では早期のもので、構造は中心柱窟、造像は雲岡中期、とくに第6窟にきわめて近い。雲岡様式が西へ伝播した例といえようという。

その6窟の平面図がないので、代わりに同じ中期窟で双窟となっている9・10窟の平面図
雲崗石窟9・10双窟平面図 『敦煌莫高窟2』より

中心柱には各面に大きな如来立像が安置され、脇侍菩薩は小さく、側面に表される。
中心柱に龕が穿たれるというのではなく、四隅の千仏の並ぶ塔のような四柱によって支えられている。
雲崗石窟 6窟中心柱 南面及び東面 如来立像 『雲崗石窟2』より

王母宮石窟の中心柱窟は、如来は結跏趺坐しているが、中心柱が雲崗石窟6窟のように、四隅は層状の柱風になっている。

中心柱窟は、敦煌莫高窟では隋時代を最後に造られなくなるが、雲崗石窟では中期窟に出現し、彬県大仏寺では初唐期の中心柱窟があるなど、ところによっては遅くまで造られているようである。

関連項目

参考サイト

参考文献
「シルクロード キジル大紀行」 宮地治 2000年 NHK出版
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中國新疆壁畫全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国石窟 雲崗石窟2」 雲崗分物保管所 1994年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣

2021/02/26

敦煌莫高窟20 427窟に四天王像、金剛力士像、そして新たな三世仏


北周期の428窟に隣接して隋代に427窟が開鑿された。
莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

427窟 隋代(581-618)
平面図では前室は窟門もなく開放されているようだが、見学した時は下図のように木造の建物のようになっいて、内部も柱や梁も木材で、天井は化粧屋根裏になっていた。
『敦煌莫高窟2』は、この窟は前室と主室がそのまま残っていて、隋代では最大。前室は幅6.8m、奥行3.4mで、三間四柱の宋代の木造建築であるという。
崩壊した窟前半を南宋期(1127-1279)に修復したのだろう。

入るとまず巨大な天王像群に圧倒された。
同書は、南北各塑造の天王2体は高さ約3.6mで宝冠を戴いている。四天王像四方を護る仏法の神である。東方は持国天、南方は増長天、西方に広目天、北方に多聞天が配されている。
西壁の両側には塑造の金剛力士像があり、高さ約3.7mで宝冠を被り、上半身は裸、披巾に裙をまとう。四天王と金剛力士は隋代に新たに加わった像である。それらの像は宋代に重修されている。
また前室窟頂には宋代の涅槃変相図があるが、その中に隋様式の涅槃図があるという。
壁画や天王像なども宋代の色彩の特徴を示している。
中国で邪鬼を踏む天王像を見るのは珍しい。四天王像や金剛力士像が加わったのは隋代からだったのだ。では、北魏時代の北石窟寺165窟前の天王像は何?

北壁東側で宝塔を左手で掲げているのが多聞天、西側は広目天、
427窟前室 隋代と宋代 『敦煌莫高窟2』より

南壁西側のこの像は増長天、東側は持国天だろう。
427窟前室南壁西側 広目天及び邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

持国天の踏む邪鬼
427窟前室南壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

広目天の踏む邪鬼
427窟前室北壁西側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

多聞天の踏む邪鬼
427窟前室北壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

邪鬼は日本のものに比べると人間ぽい。
日本の四天王像が踏む邪鬼については下の関連項目参照のこと

『敦煌莫高窟2』は、主室前半は人字披天井、後部は平天井で、北朝の中心柱形式にのっとっている。しかしながら変化もあり、中心柱正面には龕がなく、大型の仏立像が安置されている。一仏二菩薩の組み合わせで、蓮台の上に立つ。中尊は紅色で袖口の広い大衣をまとい、高さは4m余りあるという。

中心柱東向き壁 釈迦三尊像 
前室の巨大な二天像や四天王像を見た衝撃で心が落ち着かないまま主室に入ると、これまた背の高い三尊像が立ち塞いでいるのに驚くことになる。しかもその背後が中心柱だとは気付かなかった。それは主室壁面のほぼすべてが千仏で覆われているので、空間的な把握ができなかったこともある。
床から2段の反花と一重の受花の蓮台があり、その上に現在仏の釈迦と二菩薩が立っている。釈迦の着衣は通肩で、体の線が出るくらいに薄くて密着している。

とりあえず千仏だらけの天井や壁面の中を、中心柱を左繞していった。
427窟 東向き壁仏三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱北向き壁 
図版にはないが龕内には説法する塑像、龕外には二菩薩が描かれている。細身の菩薩たちは、それぞれの身の動きで描かれるが、左手には水瓶を下げている。
427窟 中心柱北向き龕外 二菩薩図 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱西向き壁
龕内には釈迦が説法し、右手には若々しい阿難が女性のように美しく表されている。通肩の衣を着けた阿難は珍しいのでは。
427窟 西向き龕内 阿難像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱南向き壁の説法像
龕内には年老いて痩せた迦葉が合掌している。
主室前半人字披天井のところに未来仏の弥勒三尊像が安置される。三尊像が前方に傾いているのは、信者に顔がよく見えるように造られているからだと、黄土高原の石窟めぐりでお世話になったガイドの丁さんが言っていた。 
427窟 中心柱南向き龕内 説法する釈迦と迦葉 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

南壁 未来仏の弥勒三尊像
『仏教美術のイコノロジー』は、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているというので、莫高窟にはもっと巨大な仏像も2体あるが、窟内の大きさからすると大像として表されたのかも。
その隣の何も描かれていないところには何があったのかが気になるなあ。
427窟 主室前半南壁 弥勒三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱を回って主室に戻ると、左右の側壁にも大きな三尊像が立っているので、三世仏であることを知るのである。

萩原哉氏の三世仏の造像-鐘山石窟第3号窟の三仏を中心としては、三世仏は本来過去仏(過去七仏の一体)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)だったが、賀世哲氏は、敦煌莫高窟の三世仏造像について検討を加えるなかで、莫高窟には北涼時代以来、過去七仏中の一仏と、現在仏・釈迦、未来仏・弥勒の三尊で構成される三世仏造像の伝統があったこと、過去仏として阿弥陀仏をあらわす新たな三世仏は、隋代造営の第276 窟に出現し、以後、唐代を通じて盛んに造像されたこと、そして、阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊で構成される新たな三世仏の出現と流行の背景には、隋唐時代に隆盛した阿弥陀浄土信仰の影響が認められることなどを指摘しているという。 

北壁 過去仏の阿弥陀三尊像
427窟 主室前半北壁阿弥陀三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

主室最下段には供養者図が一巡する。


関連項目
東大寺戒壇堂の四天王像

参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館

2012/10/26

敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1

日本で暈繝というと同色の濃淡を重ねたものをさすが、中国では暈繝ではなく暈染で、隈取りも含まれている。
敦煌莫高窟を見学していると、暈繝法が時代によって異なっているのがわかってきた。

観音菩薩・阿難ほか 敦煌莫高窟57窟南壁説法図東側 初唐(618-712)
観音菩薩よりも、内側の阿難の方が瞼と頬に薄紅色をよく残している。
『中国石窟 敦煌莫高窟3』は、淡朱色の暈繝がある(中国語を字面で訳)という。
観音菩薩は、肌の上に施したうす紅色の暈繝が残っている。左の菩薩は肌そのものが灰色に変色しつつあり、暈繝はわからない。阿難の方が暈繝がよく残っており、体は部分的に変色が始まっている。
敦煌莫高窟は初期窟では西域の影響が見られるが、時代が進むと中原の様式を逆輸入するようになる。
比丘・菩薩像 同窟北壁中央説法図
その変色が進むと、黒みが増していく。頬や瞼に暈繝の痕跡はない。
ところが、初期窟の暈繝は、初唐期のそれとは全く異なっている。
『シルクロード第2集敦煌砂漠の大画廊』は、428窟南壁「説法図」、6世紀中頃北周時代の窟だが、この壁画の諸像は、いずれも太い黒い線で縁どられている。そして、野太い輪郭線のなかに眼鼻は白く太く描かれており、きわめて野性的である。
この画が、今世紀初頭世界に初めて紹介されたとき、それを見た人びとは一様に驚いた。ちょうど当時、世界を風靡していたマチス、ルノオらのフォービズムを見るようであり、千数百年たってもなお新鮮な画法である、というのであったという。

北周の窟だけでなく、敦煌莫高窟で残っている最も古い窟の一つ、272窟の壁画にも、臙脂ような暈繝の太い線が見られる。

飛天・楽人・菩薩像 272窟西壁及び天井
目は白いように見えるが、鼻筋の白いのはわからない。
それにしても、ラテルネンデッケの天井には、重くてお腹から落ちてしまいそうな天人がのびのびと両腕を広げ、天井から壁面への移行部にある小さな龕の天人たちは思い思いの姿勢で立ち、辺りを見回している。なんとも楽しそうな、笑い声が聞こえてきそうな壁画である。
この絵を知ったのは、1980年に放送された同名のNHK特集だった。当時敦煌莫高窟で知っていた壁画といえば観無量寿経変図など変相図くらいのもので、それも白黒写真か描き起こし図だった。
そんな頃に、同書に描写されている太い線の目立つ壁画をカラーで見たために、以降は経変図などは頭から抜けてしまった。
10年前に初めて敦煌莫高窟を訪れた時、最初に見る唐時代の数窟に経変図が描かれているのを見て、若い頃に勉強していた敦煌莫高窟の壁画はこのようなものだったのかと、遠い記憶が蘇ってきた。

それくらいインパクトのある初期窟の暈繝の変色について、同書は変色していないものと比較を行っている。

左:272窟西龕の菩薩 北涼(421-439)
右:263窟南壁「説法図」の菩薩 北魏(439-534)
同書は、この初期の窟の画法の秘密を解く鍵は、263窟で見つかった。11世紀の西夏の時代の千仏を描いた壁画の下から、もう一枚別の壁画が現れた。研究所の判定で、それは428窟より古い北魏時代のものであった。そして、そこに描かれた菩薩像は、淡紅色のぼかしの技法で縁どられた優美なものであった。428窟の黒い輪郭線は、外気との触れ合いで、この淡紅色のぼかしが化学変化を起こし、変色した結果だというのである。
272窟西龕壁の菩薩像も黒い太い輪郭線で縁どられている。これも変色の結果だという。それは、263窟の菩薩とほぼ同時代のもので、しかもほぼ同形、同意匠である。263窟の淡紅色の肌のぼかしが変色すると272窟のようになるという。
しかしながら、黒い線に縁取られた菩薩の顔や姿から、描いた当時はどのようであったか想像するのは至難の業。初期窟では、変色したものとわかっていても、太い輪郭線の目立つ古拙な様式で描かれたものと感じながら窟内を見て回ったのだった。
敦煌莫高窟では、北涼から北魏時代のぼかし、つまり暈繝は、初唐期のように肌の上にぼかした頬紅を重ねるのではなく、輪郭や顔・体の起伏のある箇所に黒く変化する淡紅色の顔料をぼかして描くという、全く異なる暈繝法を用いている。

彩色にはどのような材質を用いていたのだろうか。
『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』は、莫高窟の壁画には、どのような顔料が使われていたのであろうか。常書鴻さんが1951年に『文物』に書いた「漫談古代壁画技術」という論文のなかで表示されているので、それを掲げよう。(黒字は私の解釈です)
第1類・鉱物質(直接使用するもの)
①朱砂                    変色しない  辰砂
②石青                    変色しない  ラピスラズリ
③石緑                    変色しない  孔雀石
④石黄                    変色しない
⑤高岭土(カオリン、上質の白陶土)  変色しない
⑥赭石                    変色しない  ベンガラ
⑦烟炱(煤)                 変色しない
第2類・人工顔料
⑧銀朱(硫化水銀)            鉛粉に触れると黒色になる  水銀朱
⑨鉛粉(アルカリ性炭酸鉛)        時間がたつと鉛色にもどる   鉛白

⑤のカオリンには驚いた。磁器の胎土に使われるものではないか。
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、南北朝時代、白磁が製造されるようになり、製磁業は新しい発展段階に入った。白磁を焼くのには純白の土をもちいなければならず、白陶土(カオリン)の鉄含有率を1%以下にまでしなければならなかったという。
当時すでにカオリンは大量に使われていたので、それを顔料として使うことなど大したことはなかっただろう。
朱砂ということばは王さんがよく口にしていた。しかし、変色しない①辰砂と、黒く変色する⑧水銀朱はどう違うのだろう。水銀朱の別名が辰砂で、硫化水銀のことだと思っていた。ここではとりあえず、変色するものは⑧水銀朱ということにしておこう。

初唐期の57窟では、菩薩の肌全面の下塗りに⑧水銀朱を使い、⑤カオリンで上塗りすると淡い肌色になる。そして経年変化でカオリンが剝がれてきたために、下塗りの⑧水銀朱が外気に触れるようになり、酸化して黒っぽくなっていったということだろうか。
頬や上瞼に⑥赭石をぼかして塗るのは現在の頬紅のようだ。頬紅をぼかしてつけるという化粧が中原に生まれ、それが仏像にも施されるようになって敦煌まで伝播してきたのだろう。

そして、北涼から北周時代に行われた淡紅色のぼかしはやはり⑧水銀朱で、⑨鉛白を塗った白い肌の上に淡紅色のぼかしを施して立体感を出していたのではないだろうか。
それはキジル石窟で見たような、白い体の輪郭線を濃い赤で描き、段々ぼかして立体感を出すという技法を採り入れていたということになるだろう。

関連項目
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
トユク石窟とキジル石窟の暈繝?
日本でいう暈繝とは
日本でいう隈取りとは
隈取りの起源は?

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社
「シルクロード 絲繡の道2 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送協会
「中国の仏教美術 後漢時代から元時代まで」 久野美樹 1999年 東信堂 世界美術双書
「図説中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社

2013/01/18

敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周 



隋以前では北周時代(557-581)の涅槃図があった。

涅槃図 428窟 西壁中層北から2番目 
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期窟では唯一の涅槃経変。釈迦が沙羅双樹の下で涅槃に入った情景を表す。釈迦は右脇を下にして臥し、会衆は悲嘆に暮れる。足に触れ、慟哭するのは遅れてやって来た大迦葉。沙羅双樹は白い花を咲かせているという。
日本では迦葉を「大迦葉」と呼ぶが、それは中国の影響だったのだ。
釈迦には火焔文の頭光・身光だけでなく、挙身光までもある。身光と挙身光は色を違えて圏状に表され、ますます仏像のようだ。 
両腕は体に沿って伸ばしていて、ぎこちない印象を受ける。
構図という点では、頭部側(左側面)、足下側(右側面)のどちら側から見たのでもなく、寝台の正面が広く、背面が狭くなっていて、線遠近法が用いられているように見える。
世界的にみて、この時代にはまだ前面よりも奥の方が幅広く表される逆遠近法だったのに、唐時代の阿弥陀経変や観無量寿経変などは前面が広く、奥が狭く表される、線遠近法が用いられているのは驚きだったが、その前兆が北周時代の仏画に現れている。
観無量寿経変などの遠近感についてはこちら
窟内内景
同書は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。主室は人字披平天井という。
人字披頂についてはこちら
この中心柱の背後の西壁に、涅槃図がある。
428窟は中心柱窟で、10年前に見学した時は、何よりもラテルネンデッケに興味があったので、ラテルネンデッケが並ぶ平天井と中心柱の木芯塑像を眺めながら右繞したため、周壁に描かれていたものにまで目を向ける余裕がなかった。
それで今回は中心柱側ではなく、周壁の壁画、それもこの涅槃図をしっかり見ようと決めていた。ところが中心柱のある窟では、通路にガラスの仕切りが置いてあって、奥に行けないようになっていた。西壁は中心柱の奥にあるため、全く見ることができなかった。
北隣の427窟は隋時代の中心柱窟で、ここも仕切りがあったため、中心柱を回ることはできなかった。中心柱窟は隋代を最後に廃れてしまう。
西千仏洞でも涅槃図は見た。

涅槃図 西千仏洞第8窟 西壁後部 北周
『中国石窟安西楡林窟』は、両端に大きな沙羅双樹がり、中央に釈迦が右肘をついて臥す。火焔文舟形身光の上方に哀しむ信徒たちがいる。釈迦の前には一人の世俗の服を着た信徒が描かれる。これは釈迦最後の弟子で年老いた修行者のスバドラの可能性があるという。
釈迦と足もとの迦葉の間にあるのは何だろうと見ると、巨大な釈迦の足が下を向いて描かれているのだった。
斜めから写してあるため、足下、頭のどちらから見た構図なのかよくわからないが、頭側の寝床の辺が見えているようなので、頭部側から見た構図なのだろう。
敦煌では、北周時代にも涅槃図逆遠近法とみなすほどに奥側が広く表されることはない。このような構図は、どこから将来されたのだろう。
この火焔光背は、ひょっとすると、キジル石窟にあったような、涅槃図と荼毘の場面を同時に描くところから生まれたのではないだろうか。そしてそれが、荼毘とも釈迦の涅槃とも関係なく、火焔文として独立して、光背の縁を飾るようになっていったのかも。
光背の火焔文についてはこちら
キジル石窟の涅槃図ついては次回。

他の石窟で涅槃図を確認できたのは天水麦積山だけだった。

涅槃図 天水麦積山石窟第26窟窟頂正坡右側 北周(557-581)
『中国石窟天水麦積山』は、典型的な北周の帳形窟。壁面方形、四角尖頂、正壁に龕一つ。
窟頂に涅槃経変が描かれる。正坡は幅3.45m。左側面に釈迦が臨終前に林の中で弟子に説法する場面。
右側面に釈迦が沙羅双樹の間で七宝の床で涅槃に入る場面が描かれる。釈迦の四周で弟子たちが哀しみ続ける。一弟子が釈迦の足に触れている。これは釈迦が涅槃の後に摩訶迦葉に出した足の場面であるという。
はっきりと頭部側(左側面)から見た構図とわかる。
敦煌莫高窟では隋代でも左側面側から見た構図になっている。唐代に足下側(右側面)から見た構図になるらしいのだが、涅槃図が見つからないので確認できない。

北周時代の涅槃図は、正面向きのようで、枕もとの養母、前面には悲しんで転げ回る金剛力士も、焼身自殺するスバドラも表されない。
時代が下がるにつれ、涅槃図には登場人物が増えていくのは日本だけではないようだ。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
煌莫高窟10 285窟の忍冬文

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 安西楡林窟」 敦煌研究院 1997年 文物出版社
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社

2021/11/12

敦煌莫高窟275窟 菩薩交脚像は北魏か北涼か


今回の黄土高原石窟巡りでは、古いところでは後秦時代とされる武山水簾洞千仏洞の菩薩像や、炳霊寺石窟169窟の西秦時代の仏像仏画などを見学した。それをまとめているうちに、これまではさまざまな文献やテレビの番組で北涼時代のものといわれてきて、私も北涼時代と思ってきた敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像を、北魏時代のものとする『北魏仏教造像史の研究』の石松比奈子氏の次の文が気になってきた。

『北魏仏教造像史の研究』(2005年)は、こんにち敦煌莫高窟で最も早期と見なされているのは第268、第272、第275の3窟で、時代について敦煌研究院は北涼期(北涼の支配は421-439)としている。ただし、3窟とも年代を確定できる材料があるわけではなく、近年宿白氏は様式的観点から3窟の年代を北魏の太和8年(484)頃から洛陽遷都(494)頃、雲崗石窟の影響を受けて開かれたとする新説を唱えている。また、桑山正進氏は第275窟の塑造菩薩交脚像の宝冠形式を検討した結果、やはり北涼期には遡り得ないことを指摘している。筆者も第275窟については、後述するように北魏まで下げるべきと考えている。
1989年に宿白氏が提起した新年代論は衝撃的であった。氏はこれら3窟には河西地区の石窟や炳霊寺石窟との共通性は少なく、むしろ雲崗石窟第2期(470-494)の影響が認められるとして、その上限を太和8年(484)頃、下限を「洛陽遷都(494)をあまり隔たらない時期」まで下げたのである。宿白氏の新説は現在までのところ学会で認められたとは言えないが、明確に反論する意見も出されていない。これら3窟の年代は敦煌のみならず涼州地区全体の石窟造像の年代に大きな影響力を持つはずであるが、現状では漠然と敦煌研究院の公式見解である北涼説が採用されているという。

敦煌莫高窟275窟は北涼時代ではなかったのだろうか。

菩薩交脚像 西壁(正壁)
同書は、西壁本尊に菩薩交脚大像、南北壁上段には闕形龕内菩薩交脚像2、樹形龕内の菩薩半跏思惟像1を塑造で作るが、みな天衣が肩を広く覆って臂に懸かる独特の形状を示しているという。
確かに両肩にはギザギザの天衣がかかり、肘の後ろから下に垂下して、交差した脚の奥から端が出ている。このような天衣は他に見たことがない。

同書は、これらの菩薩像の尊格については、交脚像は兜率天で説法する上生の弥勒、思惟像は龍華樹下で思惟する下生の弥勒と見なす解釈が多い。しかし、酒泉から出土した北涼時代の白双且石塔(434)では、6体の如来像と1体の菩薩半跏思惟像、1体の菩薩交脚像の8体が組み合わされており、その配置から交脚像は弥勒菩薩として造像されたと推定できる。したがって、本窟の思惟菩薩像の尊格についても慎重に検討する必要があろうという。
背後には逆三角形のが描かれている。これは靠背と呼ばれる椅子の背もたれに懸かる布で、炳霊寺石窟169窟16龕の菩薩思惟像(西秦)にも描かれているが、背後に回った布帛は16龕の方が長い。靠背は短い期間にしか見られないもののように記憶しているが、275窟内にも西秦時代の、あるいは炳霊寺石窟の影響が及んでいる証拠の一つといえよう。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『世界美術大全集3 三国・南北朝』より


莫高窟の実測図には東入口から入って1/3の所に壁のようなものがあるが、後世に造られたもので、すでに取り除かれている。

『敦煌の美と心』は、窟頂は中国中原地域の木造建築を模しており、中央の両端を切妻形に折りあげた人字坡、すなわち人の字型の構造をしている。
奥行7mの正面に初期における最大の塑像といわれる高さ3.4mの交脚弥勒菩薩像が、人々を迎えるように両手をひろげ泰然と坐っているという。
同書では弥勒菩薩としている。

敦煌莫高窟275窟立面図及び平面図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


南壁上段 菩薩交脚像
『中国石窟 敦煌莫高窟1』(以下『中国石窟』)は、闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現しているという。坐り方が交脚でも、両手の印相はそれぞれ異なる。
菩薩像の肩から腕には、天衣(あるいは披巾)がぺらっと懸かっているように見える。
(画像に書籍名のないものは、敦煌石窟陳列館で写したものです。以下同じ)


北壁上層

菩薩半跏像 塑造
275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、樹形龕に坐している。
『中国石窟』は、双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿であるという。
胸飾りや短い瓔珞をつけた菩薩の左肩には、折畳文を3つほどつくる布帛がかかる。これは主尊では描かれていただけの天衣が、塑土で表されたものである。
そして天衣は右肩も覆い、右脚の下に波状の揺らぎを出しながら、右足と左手の奥からその端はやや下方向に曲がっている。その端は折りたたまれていて、天衣は幅のある布帛であることを表している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北魏窟の菩薩半跏像と比べてみると、

敦煌莫高窟257窟 菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
菩薩の顔は275窟の主尊と似ているように思う。
宝冠を留める宝繒の端がひらひらと重なり、曲線的な折畳文をつくるところなどは、275窟よりも表現が進んだものと思われる。
『中国石窟』は、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すという。
本像は天衣を肩から腕に添わせ、肘の内側に回しているところまではわかるが、その後天衣がどのようになっているのかは分からない。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

上図の菩薩半跏像の天衣の表し方は、炳霊寺石窟169窟22龕の脇侍菩薩像(西秦)に似ている。

脇侍菩薩立像 22龕 高さ1.28m
肘の内側から垂下している披巾は、脚部の外側で風に揺れているような優美な表現なのだが、両肩から腕にかけて、こんな風に魚の背びれのように披巾(または天衣)を添わせることに、制作者は不自然さを感じなかったのだろうか。主尊の大衣の端が左肩から腕に添っているのをただ真似ただけだろうか。
炳霊寺石窟169窟22龕 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


そして、何よりも高善穆北涼石塔(承玄元年、428、酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵の菩薩交脚像の天衣も、このような形式である。
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
本石塔は、北涼時代に西秦時代の菩薩の独特な天衣が伝わっていたことを示しているが、275窟の菩薩像でこのような天衣は見られない。両肩から腕にかけて天衣が掛けられ、その衣端が折畳文のようになっている。それはやはり様式が進んだ北魏時代の制作であることを示しているのだろうか。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

菩薩の宝冠(三面頭飾)について
『北魏仏教造像史の研究』は、桑山正進氏も第275窟左右壁の塑造菩薩交脚像の宝冠について、ササーン朝ペルシャのヤズデガルド2世(在位438-457)の王冠形式の影響を指摘しているという。
ヤズデギルド2世の王冠がどのようなものかがわからないが、丸いものが3つ肉髻を囲んでいる。主尊の三面頭飾の正面には化仏が表される。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
宝冠は西壁菩薩交脚像と同じく丸い三面頭飾で、それぞれに化仏が配されているようだ。
また、主尊とおなじく天衣は両肩にかかり、肘の内側に回って斜め下に垂れる。その端の表現が主尊の天衣と似ている。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
三面頭飾には丸い文様がある。
そして、主尊と同じく天衣が両肩にかかり、肘の内側に回してその端は斜め下に張り出している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


『北魏仏教造像史の研究』は、筆者は北壁に描かれた本生図がみな『賢愚経』(北魏、慧覚等訳)に収められている物語である点に注目したい。
この経典は443年に慧覚が訳出したと伝えられており、本窟を北涼期の造営とするならば訳出以前に描かれたことになるという。
北涼は439年に北魏により滅亡しているので、下図のような具体的な本生図は描くことができなかっただろう。

南壁中層 四門出遊図
敦煌莫高窟275窟南壁四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁中層 月光王本生図
敦煌莫高窟275窟北壁中層四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁供養者像
下段は南北壁ともに供養者がそれぞれ主尊に向かって並んでいる。
『北魏仏教造像史の研究』は、胡服供養者列像についても、同様の胡服供養者列像は5世紀半ばから末頃までの北魏造像に常見されるという。
敦煌莫高窟275窟北壁供養者像 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

こんな風に275窟が北涼ではなく北魏に入ってからの開鑿であるというのが正解かも知れないが、炳霊寺石窟169窟(西秦)の影響もあることは間違いなく、宿白氏が河西地区の影響がないとする説には疑問がある。


関連項目

参考文献
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版株式会社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社