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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/02/12

中心柱窟とは


これまでに見学した石窟の中には、中心柱窟は幾つか見てきた。最初に行ったのは敦煌莫高窟だが、歴史的にはキジル石窟の中心柱窟の方が先行する。

キジルの中心柱窟
貴重書で綴るシルクロードの西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什(以下『貴重書』)は、主な構造には中心柱窟・方形窟・僧房窟の三種があるが、中でも特徴的なのは中心柱窟であるという。
『中國新疆壁畫全集 克孜爾1』(以下『克孜爾1』)は、初創期(3世紀末-4世紀中頃)に中心柱窟は出現しているという。

発展期(4世紀中頃-5世紀末)の38窟でみていくと、細長い矩形の平面のかなり奥に中心柱が彫り出されている。
キジル石窟38窟の外観と平面図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『キジル大紀行』は、中心柱の手前の大きな部屋は「主室」、後ろ側には「後室」と呼ばれる小さな部屋があり、この二つの空間は「側廊」と呼ばれるトンネル状の通路で結ばれている。このような主室と後室をトンネルで結ぶ石窟形式はキジルで生まれ、後に敦煌や雲崗、龍門など中国の主要な石窟寺院に受け継がれていったという。

『貴重書』は、これは主室・中心柱・回廊の三部分からなり、壁面構成はほぼ一定している。この構造は、以下のような礼拝プログラムにもとづく、一種の舞台装置だ。
窟内に立ち入った者は、まず主室において釈迦の前世や在世時の所行に思いをめぐらしながら、中心柱の本尊釈迦仏を拝するという。
釈迦の前世譚(本生図)や仏伝図が前室下部の側壁に描かれていたようだ。
当時の人々は、釈迦が前世に行った自己犠牲などの話や釈迦の生涯が描かれた絵画を辿り終わってから、釈迦如来を拝んだ。
しかし、現在ではそれらの壁画はよくは残っていなかった。
その後、この図版には写っていない左の通路から後室へと向かうのだが、当時の人たちは小柄だったのだろうか、狭くて天井の低いキジル石窟の側廊を通る時は、どこかに触れてしまいそうだった。
キジル石窟38窟の前室と中心柱の釈迦 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『貴重書』は、ついで中心柱の周囲に穿たれた回廊を右まわりにまわって中心柱を礼拝し、後廊において釈迦の涅槃を目にするという。
左回廊から後廊に回ると、後壁には大きく涅槃図が描かれている。
釈迦の足をさすっているのは臨終に間に合わなかった迦葉。
キジル石窟38窟後室後壁の仏涅槃図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『貴重書』は、そこで無仏の世に生きる自らを思いながら回廊を出ると、主室入口上部に描かれた未来仏たる弥勒を観るというものだ。
中心柱の左右および後部は天井の低い回廊となっており、その壁面には供養者図や僧侶図、ストゥーパ図、涅槃関係の図などが描かれるという。
主室に戻ると、出口の上に弥勒菩薩が描かれていることに気付いた。
キジル石窟38窟前室扉口上の弥勒説法図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『克孜爾1』は、三面頭飾をつけ、臂釧、瓔珞などの装身具をつける。胸前で説法印を結ぶ。半円形の上部には建物が描かれ、弥勒の両側には菩薩たちが説法を拝聴している。これは兜率天で弥勒が説法する情景を描いている。この壁画は、精細な描写といきいきとした表現で、キジル石窟でもこれほどの優品はないという。
弥勒の説法を聞きながら、菩薩たちはそれぞれの身振りで一人一人がその感動を表している。
キジル石窟38窟前室扉口上の弥勒説法図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

敦煌莫高窟の中心柱窟は、キジル石窟と同様に窟の後方に中心柱がある。中心柱の周囲は平天井、その前には人字坡天井となっている。
また、莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌に現存する最古の268・272・275窟(北涼時代、397-439)には中心柱窟はなく、北魏統治期(439-534)から造られるようになるが、隋代(581-618)で終了する。
敦煌莫高窟北朝1-4期石窟平面図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


莫高窟254窟 北魏時代(439-534)の立面図と平面図(見上げ図、天井の装飾)
中心柱は主室後方に、前半は人字披天井で、キジル石窟と同様に礼拝する人々のための空間。
 254窟 北魏 立面図と平面図(見上げ図) 『敦煌莫高窟1』より

中心柱の向き壁及び南向き壁
東向き壁には涼州式偏袒右肩の如来交脚像、南向き壁には2段に穿たれた龕の上側に交脚の菩薩像が残っている。
中心柱4辺の側廊天井には、区画ごとに装飾を凝らしたラテルネンデッケが並んでいる。
ラテルネンデッケについてはこちら
『敦煌莫高窟1』は、高さ1.87mの如来は説法している。光背は火焔と飛天、化生童子。龕内には両側に3段にわたり、各10体の供養菩薩が描かれる。龕頂には飛天が描かれる。龕の外、北側には天王像が1体残っているが、これは当時新出のものであるという。
二天像あるいは仁王像、金剛力士像と呼ばれるものは、敦煌莫高窟の254窟から始まったということかな。
254窟 北魏 中心柱東向き壁の如来交脚像 『敦煌莫高窟1』より

288窟 西魏(535-557)
窟門が崩壊して、前室が露出している。主室は後方に中心柱がある。主室前半は平面図では分からないが、人字披天井となっている。
288窟 西魏 平面図 『敦煌莫高窟1』より

中心柱東向き龕
『敦煌莫高窟1』は、窟頂の楣飾(中国語のまま)化生童子は花盆を捧げている。両側にはそれぞれ5体の供養菩薩跪いて供養の花を持っているという。
中心柱の4辺の平天井はラテルネンデッケが並んでいる中心柱の上部や通路の壁面には千仏が貼り付けられているが、人字披天井のある主室前半には釈迦説法図などが描かれている。
東向き壁の如来は倚像で、龕の外側で二天が護り、龕の下では薬叉たちが護っている。
288窟 西魏 中心柱東向き壁 如来倚像及び二天像 『敦煌莫高窟1』より

北周と隋時代の中心柱窟が並んでいる。

敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

428窟 北周期(557-581)
『敦煌莫高窟1』
は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。
中心柱四面龕内には結跏趺坐する如来が説法する様子を表現している。如来の顔は四角く、着衣は褒衣博帯という。

『敦煌の美と心』は、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
やはり中心柱を右繞する通路の天井はラテルネンデッケが並んでいる。
428窟の他の特徴については次回
428窟 北周期 中心柱東向き壁 釈迦如来坐像 『敦煌の美と心 シルクロード夢幻』より

427窟 隋代(581-618)
『敦煌莫高窟2』は、主室前半は人字披天井、後部は平天井で、北朝の中心柱形式にのっとっている。しかしながら変化もあり、中心柱正面には龕がなく、大型の仏立像が安置されている。一仏二菩薩の組み合わせで、蓮台の上に立つ。中尊は紅色で袖口の広い大衣をまとい、高さは4m余りあるという。
三世仏の三尊像が主室3箇所に大きく彫り出されているので、その背後に中心柱があることに気付かないくらいだった。
427窟はほかにも面白いものが残っている。それについては次回
427窟 東向き壁仏三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

雲崗石窟第6窟 中期窟(470-494)
雲崗石窟の第6窟も大きな中心柱窟で、清代に彩色されていた。
王母宮石窟の中心柱窟について『世界美術大全集東洋編3』は、王母宮石窟は隴東地区の石窟中では早期のもので、構造は中心柱窟、造像は雲岡中期、とくに第6窟にきわめて近い。雲岡様式が西へ伝播した例といえようという。

その6窟の平面図がないので、代わりに同じ中期窟で双窟となっている9・10窟の平面図
雲崗石窟9・10双窟平面図 『敦煌莫高窟2』より

中心柱には各面に大きな如来立像が安置され、脇侍菩薩は小さく、側面に表される。
中心柱に龕が穿たれるというのではなく、四隅の千仏の並ぶ塔のような四柱によって支えられている。
雲崗石窟 6窟中心柱 南面及び東面 如来立像 『雲崗石窟2』より

王母宮石窟の中心柱窟は、如来は結跏趺坐しているが、中心柱が雲崗石窟6窟のように、四隅は層状の柱風になっている。

中心柱窟は、敦煌莫高窟では隋時代を最後に造られなくなるが、雲崗石窟では中期窟に出現し、彬県大仏寺では初唐期の中心柱窟があるなど、ところによっては遅くまで造られているようである。

関連項目

参考サイト

参考文献
「シルクロード キジル大紀行」 宮地治 2000年 NHK出版
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中國新疆壁畫全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国石窟 雲崗石窟2」 雲崗分物保管所 1994年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣