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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2025/02/11

モスクに石の模様


エディルネのエスキジャーミイ(1403-14)を見学していて気がついた。
アーチは赤石と白石を交互に配したものに見えたが、様々な岩石の模様を描いたものだった。創建当時は石材だったのだろうか? 


ベヤズィットジャーミイ(1500-06、イスタンブール)は中庭を巡る回廊のアーチにさえ大理石などの石材が使われている。この時は、赤っぽい礫岩が風化して石の粒がポロポロ落ちそうなことが気になったので撮影したのだが。

礼拝室はミフラーブ前の大アーチなどは淡い幾何学文様で描かれ、他のアーチも石材ではなく描かれたものだった。

ベヤズィット二世の墓廟内部も高さのある腰壁は、どんな石を真似たのか分からないが描かれたものだったし、

その娘セルチュクスルタン(1508没)廟の内部も大理石の模様を真似た壁画だった。右端の大理石の切石を積み重ねたものと比べると本物とはかなり違っている。ベヤズィットジャーミイが修復時にこのような壁画になったのか、創建当時からそうなのかは不明。


シェフザーデジャーミィ(1543-48、イスタンブール)では、中庭の回廊やソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れてきた人が礼拝する場所)の赤と白のアーチは石材だった

礼拝室には石ではなく彩色して石に見せていたアーチがあった。これも創建当時のものかは不明だが、礫岩の風化が進み、修復時に石を模した壁画にしたのかも。


ミフリマースルタンジャーミイ(1547-48、イスタンブール ユシキュダル)
ソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れてきた人が礼拝する場所)のアーケードも石材で造られているが、

礼拝室内部の大アーチは彩色によるものだった。


スレイマニエジャーミイ(1550-57、イスタンブール)は回廊やソンジェマアトイェリは石材でアーチが造られていたが、

礼拝室のアーチは、石一つ一つに異なる模様が描くという凝りようだが、やはり石材には思えない。ミマールスィナンがスレイマン大帝のモスクにそんな荘厳の仕方をするかなとも思う。ひょっとすると修復でこんな風になってしまったとか。

スレイマン一世の墓廟にも大理石などの石材を模して描かれていたが、これはスレイマンの死後跡を継いだセリム二世が2年後に造らせたもの。

壁裾には大理石か何かの石を模したような模様のタイルも。


ミフリマースルタンジャーミイ(1560-70、一説に1562-65、イスタンブール エディルネカプ)
ソンジェマアトイェリのアーケードは石材で造られている

そして、礼拝室の大ドーム周辺の大アーチも石材で造られているが、入口側のアーチは色石の模倣ではなく装飾文様が描かれていた
ミフリマースルタンジャーミイ ドームと四方の明るいティンパヌン トルコ・イスラム建築紀行より


やはりモスクの礼拝室も中庭のアーケードと同様に石材で造られていたのだろう。
THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、幅の広いアーチは切石で作られ、異なる色の石が交互に並んでいることもある。より小さな柱間のアーチは、石とレンガが交互に並ぶか、或いはレンガのみで造られているという。

縞大理石は、壺を描いたミノア文明期のアクロティリ遺跡(前17世紀)以来、クノッソス宮殿(前15世紀後半)の壁画下部に、その後ヘレニズム時代のペラでも色大理石の壁の下部に描かれたし、ポンペイ第1様式にも受け継がれている。それについてはこちら
そういう伝統が古来より受け継がれてきたというよりは、後年の修復時に同じ素材を調達するのが困難になって、入手しやすい石材を用いて、漆喰の地に石に見えるように描くようになったのだろう。



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参考文献
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication