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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2016/07/05

黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠


「黄金のアフガニスタン展」で、以前に記事にしたことのあるティリヤ・テペ6号墓出土の金冠の実物を間近で見た。

冠 1世紀第2四半期 金
同展図録は、冠は頭部に巻く帯と、樹形をなす5つの立ち飾りからなる。帯は金板を切り出したもので、20点の六つ葉のロゼットにより飾られ、そこから小円板がさげられている。それぞれのロゼットには、粒状の金で縁取られた円形のくぼみがあり、トルコ石がはめられるという。
少ないながら粒金が使われている。
小円板は紐状の金線で取り付けられており、被って動くと揺れる、歩揺冠である。
金冠を広げると5つの立ち飾りが現れる。
同展図録は、帯の後ろ側には金板を丸めてつくられた5本の垂直の管があり、5つの立ち飾りにつく同様の管によって固定し、さらに立ち飾り同士も結合する仕組みとなっている。これにより、この見事な遊牧民の冠は分解して持ち運ぶことができるのであるという。
同展図録は、立ち飾りの内、4つは同じ形状で、幹の左右に対称に枝を伸ばし、2つの相対するハート形文様とそれぞれに挟まれた三日月文様に切り抜かれたモチーフで飾られている。枝の上部には2羽の鳥がおり、羽根を広げ、頭を上に伸ばし、くちばしを樹の頂部近くに付ける。それぞれの樹は六つ葉のロゼット6点で飾られており、丸い飾りをさげているという。
同展図録は、中央の立ち飾りには鳥は表現されずロゼットと丸いさげ飾りで飾られる。中央下部に丸い空間をつくり、プロペラのような文様を配置するという。
プロペラのような文様というのはよくわからない。

同展図録は、この型式の冠は遊牧民の間で類例があるが、ギリシアやパルティア、クシャーンの美術には見出せない。紀元前4世紀の終わりの早い段階に位置付けられるカザフスタンのイシク・クルガン(墳丘墓)から出土した鳥が飾られた冠は、生命樹を表したものに違いない。生命樹と鳥の組み合わせは、リボチェルカスク近くのサルマチアン遊牧民の墓の遺跡でも発見されており、ドン川の河口近くのやや西、コジュホヴォの王妃の王冠にもみられるという。

イシク・クルガン出土の冠飾りはこのようなもの。左右対称に出た枝の先が輪になっているのは、葉のようなものを取り付けていたのだろうか。そうでなければ樹木のようには見えない。
あるいは、葉の代替として小円板が取り付けられて、歩揺冠となっていたのかも。

同展図録は、この様式の王冠は東アジアにも広く伝播し、5-6世紀の韓国・新村里王墓、さらには日本の奈良県藤ノ木古墳でもみられるという。

金銅冠 三国時代百済(5-6世紀) 韓国、羅州新村里9号墳出土 ソウル、国立中央博物館蔵
同展図録は、この古墳は百済と伽耶の境界に位置しており、百済の古墳でよく出土する冠帽が伴っている。
この冠では鳥形がどこに取り付けられているのかよくわからないのだが、小円板の歩揺はあちこちに見られる。

金銅冠 古墳時代、6世紀後半 奈良、藤ノ木古墳出土 文化庁保管
同展図録は、藤ノ木古墳出土冠は古墳時代の伝統的な冠とは型式が異なり、特殊な存在である。古代オリエントの生命樹をモチーフとした樹木冠は、ティリヤ・テペを経由して中国にもたらされ、6世紀になって中国の南朝と交流のあった百済を介して日本の倭王権中枢へと到達したのではなかろうか。ただし、この想定を裏付ける詳細な伝播ルートの解明のためにはさらなる類例の増加を待つ必要があるという。
鳥形は多数みられるし、小円板もあちこちに取り付けられている。
『黄金の国・新羅展図録』は、金冠は華麗な外形とは裏腹に薄い金板で製作されており、また過多ともいえるほどに装飾が多いため、実際に使用したというよりは、墳墓の副葬品または葬送儀礼用具として製作されたと考えられるという。
ティリヤ・テペ6号墓の金冠は実際に被った状態で出土しているが、藤ノ木古墳では飾履と共に足元から出土している。

中国では歩揺の付いた小さな冠がは出土しているが、樹木冠もあったかな。
中国の歩揺冠についてはこちら


                    →黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?

関連項目
歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?
金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?
黄金のアフガニスタン展4 ヘラクレスは執金剛神に
黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?
黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状は粒金ではない

※参考文献
「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館)
「世界美術大全集東洋編15中央アジア」 1999年 小学館
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」 2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館

2009/09/08

金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?

 
慶州の市街地には、新羅時代の巨大積石木槨墳(5世紀中頃-6世紀前半)がポコポコあって、その内の5つの古墳から金冠が出土している。製作時期の早い順に、皇南大塚北墳・金冠塚・瑞鳳塚・天馬塚そして、下の不鮮明な写真の金鈴塚出土の金冠である。積石木槨墳はどこで成立して慶州にどのように入ってきたのか、調べてみたがわからなかった。その経緯はこちら

金冠は、「出」字形あるいは「山」字形と呼ばれる樹木を表したものや鹿の角などが立飾りになっていて、そのあちこちに小さな円形の歩揺や翡翠の勾玉がついているという、かなり特異なものである。この金冠はどこのどのようなものに起源を求めることができるだろうか?

金製ディアデム ホフラチ古墳出土 後1世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで偶然に発見された。サルマタイ貴族の女性の副葬品に由来する。
ディアデム上部には、樹木とその左右に鹿、山羊、鳥が配置されている。鹿と山羊の鼻面の先端には小環が作られており、元来何らかのものが吊り下がっていた。また、樹木の葉は歩揺のように小環で取り付けられていた。
ディアデム上部の樹木と鹿・山羊・鳥からなるユニークな情景はサルマタイの神話的世界の一端を表現していると思われる
という。
鹿も樹木も自然な表現で、歩揺が木の葉形である。
新羅の金冠のような出字形の樹木や鹿の角だけという立飾りとは似てもにつかない。とはいえ、鹿と樹木という組み合わせが新羅以外の場所で存在するのは確かである。 野山羊と聖樹 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリャ・テペ4号墓出土 前1~後1世紀 高5.2㎝ カーブル博物館蔵  
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、王とおぼしき被葬者の頭蓋骨の横で、中空の見事な角をもった野山羊(アルガリ)の像が発見された。蹄の先につけられた4個の小環は、この小像の下にさらに構造物があって、それに固定するために使用されたものであろう。角のあいだにも中空の管がつけられており、その管に別の何かが差し込まれ、継がれていたと考えられる。被葬者頭部で発見された円板の葉をつける黄金の樹木(高9.0㎝16.46g)がそれであるという。
野山羊の頭部にのっていたにしては樹木が大きすぎるのでは。こちらは歩揺が円形になっている。
ホフラチ古墳出土のディアデムには左側にも樹木があり、鹿ではなく大きな角を持つ山羊があったが、ティリヤ・テペ出土の山羊とよく似ている。ティリヤ・テペはどのような民族の墓だったのだろう?
『アフガニスタン遺跡と秘宝』で樋口隆康氏は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られるというが、『騎馬遊牧民の黄金文化』で田辺勝美氏は、この墓地に埋葬された人たちがどのような民族であったかという点については、大月氏とかクシャン族、サカ族とかさまざまな見解が提示されたが、筆者はユスティヌスやストラボンなどのギリシア人著作家がグレコ・バクトリア王国を滅ぼした民族の一つに挙げているサカラウリないしサカラウカエではないかと思うという。どちらにしてもイラン系騎馬遊牧民のようだ。
樋口隆康氏は、シバルガンの北5㎞の地に、このテペがあり、古い神殿遺構のテペの上面に堀込まれた6基の墓から約2万点の黄金製品を発見した。墓は何れも小型の小型の土坑墓で、遺体は木棺の中に盛装されて、納められていたという。
慶州の古墳群とは反対に、見つからないような墓に埋葬されていたらしい。

このような円板の葉をつけた樹木は、遼寧省房身2合墓出土の金製歩揺付冠飾に見られ、ホフラチ古墳出土の写実的な木の葉形歩揺ほどではないが、木の葉状の歩揺は遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠・内蒙古出土(1~3世紀)の牛首金歩揺冠・内蒙古自治区出土(3-5世紀)の鹿角馬頭形歩揺飾にも見られる。 帽子の飾り イシック・クルガン出土 前4世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬民族の黄金文化』は、冠は、さきの尖った帽子を黄金で装飾し、正面にグリフォンや馬を配置して、側面に山岳に樹木の上にとまる鳥などを取り付けたものであった。この墓の被葬者は「黄金人間」と呼ばれ、足の先から冠まで黄金をまとっていて、スキタイ系民族の1つであるサカ族の一部族長とされている。
南側の埋葬施設は墳丘下に丸太で造られたログハウスのような墓室があった。墓室の大きさは内法2.9X1.5mの細長い長方形。身長はおおよそ165㎝で、形質人類学者のイスマギロフ氏によると年齢は16~18歳、ユーロペオイドとモンゴロイドの特徴が混合しているらしい。
ユーラシアの草原地帯の人々は一日の寒暖の差が激しく防寒の必要もあり、また馬に乗り行動するところから、三角形の帽子を着用していた。その帽子に黄金の装飾をつけたものや帽子の上に立飾りのついた冠帯をかぶることが彼らの冠であった。
このような冠は黒海沿岸から朝鮮半島までいくつか出土している
という。
墳丘に竪穴を掘って木槨を築いたのだろうか。
一見なんの共通点もないような尖った冠帽だが、よく見ると左耳上方に針金の樹木が見える。 鹿はいないが、「出」や「山」の字に繋がる形をした樹木の表現だ。
クーバンにあるウスチラビンスカヤ46号墓もサルマタイ族の墳墓で、出土した冠は直線的な樹木の2本の枝先と頂上に鳥、基部に角の大きな山羊、樹木の左右に山羊を対置したもので、樹木の造形が新羅の「出」字形の冠と似ているという。
クーバンのサルマタイ墳墓出土の冠が気になる。どんな形なのか見てみたいなあ。  ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠について『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、第6号墓のシャーマンのような女性の墓室から出土したもので、6本の樹木からなっている。6本の樹木はそれぞれ歩揺や花弁で飾られていて、中央部をのぞく5本の木には富や王権のシンボルである鷲が左右についていたという。
山羊も鹿も登場しないこと、そして、樹木が「出」や「山」の字形ではなく左右対称に金板を切り取ったような形で、どちらかというと、新羅の金冠よりも時代が下がる藤ノ木古墳出土の金銅冠の方が似ている。

元は同じ樹木だったとしても、ティリヤ・テペから藤ノ木古墳へと伝わった樹木形立飾りの系統と、イシック古墳から慶州へと伝わった「出」「山」字形立飾りの系統という、2つの流れがあるのでは。
どのような経路で、それぞれ新羅や日本に伝播したのだろう。

イシック・クルガンの位置はこちら
積石木槨墳についてはこちら

※参考文献
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」(林俊雄 2007年 講談社)
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」(1993年 京都文化博物館)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団)
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館)
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館) 

2009/04/17

ティリヤ・テペの細粒細工は金の粒だけを鑞付け

 
新羅の金冠に似ているとされるティリヤ・テペ6号墓出土の王冠にも粒金細工があった。
ティリヤ・テペは北アフガニスタン、アレクサンドロス大王が遠征したバクトラ(現バルフ)とアレクサンドリア・マルギアナ(現メルヴ)の中程に位置している。粒金細工の装身具が出土したサルマタイの住むクラスノダルやロストフよりも東南方にある。
『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られる。なかで、シルクロードの各地に見られるものが、スキタイ系の黄金製品である。
スキタイは、黒海の北の沿岸にいた騎馬民族であった。紀元前7世紀頃、ギリシャ民族がこのあたりに植民地を開き、ふたつの民族の交流がはじまった。ギリシャは穀物や毛皮・奴隷を求め、スキタイは工芸品や葡萄・オリーブ油を求めた。スキタイの特色とされる金銀工芸品は、スキタイ貴族の要請に応えて植民地にいたギリシャの工人が作ったものであったといわれる
という。
へえー、スキタイの金工品はギリシャ人が作ったものやったんや。その後のサルマタイの金工品はサルマタイが作っていたのかなあ。  ティリヤ・テペは、6基の墓はいずれも構造は簡単なものという。

5号墓の首飾りは華麗だ。前1世紀ともなるとスキタイではなくサルマタイの工芸品か、あるいはヘレニズム美術かだろう。
象嵌されているのは赤と青の石あるいはガラスだろうが、形も大きさもよくそろっている。 
そして大小の金の粒。台座に金の粒を鑞付けしたのではなく、金の粒どうしを鑞付けしているように見える。 1号墓出土の黄金飾板は10個の金の粒を鑞付けで平面的な三角形に仕上げている。何か帯状のものにでも取り付けてあったのだろうか。 3号墓出土の金製粒金の空玉は底が見えているのだが、金の粒どうしを鑞付けすることによって、中空の玉を作り上げたようだ。この技術ってすごくないのだろうか。ティリヤ・テペの小規模な墓群で出土したものが、その土地で作られたものか、他の国から将来されたものか全くかわからないが、今までにはない、金の粒どうしを鑞付けするという技術が特異である。

ティリヤ・テペ6号墓出土の王冠については、歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?・剣菱形飾りは新羅?-藤ノ木古墳の全貌展よりをどうぞ



2009/04/14

サルマタイと謎の碧の民

 
黒海の東側のクラスノダル地方やロストフ州で、粒金や貴石象嵌の装身具が出土している。

首飾り 3世紀末-4世紀初 長33㎝ クラスノダル地方、ヴォロネジスカヤ村出土 クラスノダル博物館蔵
貴石の象嵌はないし、粒金も一風変わった付き方をしている。もっとたくさん粒金が鑞付けされていたのにとれてしまったのか、元々このような付け方だったのかわからない。
しかし、3個の金の粒で形成する文様というのは他にもみかけるので、その流れにあるものだろう。  垂飾 2-3世紀中葉 長3.6㎝ ロストフ州、ノヴォ・アレクサンドロフスカⅠ墓地20号墳1号墓出土 アゾフ博物館蔵
硬玉髄とサンゴが象嵌されているらしい。濁って見える方がサンゴだろうか。大小あるものの、形を整えようとしていることがわかる。細粒金が周囲をめぐっていて、垂飾の輪郭に沿って鎖状のものが巡っている。 指輪 1世紀後半-2世紀前半 直径1.86㎝ ロストフ市コビャコフスク墓地10号墳出土 ロストフ博物館蔵
『ロシアの秘宝展図録』は、サルマート製、透かし文様の指輪は金線を交差する装飾細工がなされる。指輪中央には緑色と紫色の練りガラスを上下に配し、それを囲む形で金粒で装飾を施しているという。
ここでも金の粒は、象嵌したものを巡るだけでなく、1個・3個という少ない数で各所にちばめられている。サルマートはサルマタイとも呼ばれ、当時黒海から南シベリアにかけて居住した騎馬遊牧民で、今回採り上げた作品は全てその地域から出土したものであるが、2本の金線を捩らせた細工は斬新だ。
また、ガラスの象嵌という点で、内蒙古自治区出土の鹿角馬頭形歩揺飾(3-5世紀)に通じるものがある。 フィブラ 1世紀 長3.2㎝ クラスノダル地方ミハイロフスカヤ古墳群2号墳14号墓出土 クラスノダル博物館蔵
1個の金の粒がまばらに配置され、4(2X2)個・9(3X3)個・16(4X4)個・25(5X5)個の金の粒でそれぞれに菱形をつくっている。金線の内側・外側を金の粒が巡り、頂点には10個の金粒で三角形ができている。
紅玉髄をはめ込んだ周囲の金の縁も曲線になって装飾的だ。 このように見てくると、このサルマタイの地で作られたものは、フン族のもののように金粒をたくさんちりばめるのではなく、少ない数で、しかも洗練されている。当時の粒金細工制作の中心地だったのかも。
しかし、まったく違うものを見つけた。

帯飾金具 1世紀後半 3.0X3.2㎝ ロストフ州ダーチ墓地1号墳1号隠し穴出土 アゾフ博物館蔵 
ダーチ墓地1号墳1号隠し穴からは様々な財宝が出土しているが、その中に慶州、皇南大塚北墳出土の腕輪につながるのではないかと思われる金製品があった。
こちらの方が古いせいか、技術が未熟なようだが、貴石の形や大きさを整えようとする傾向が見られる。縦長の菱形はトルコ石、それ以外はガラスらしい。  しかし、この碧い象嵌はサルマタイの地では他にはロストフ市コビャコフスク墓地10号墳出土の指輪がある。
この色のものは、黒海東部で作られたのではなく、慶州同様に、他の地で作られて将来されたもののような気がする。
皇南大塚北墳出土の腕輪や内蒙古ダルハンムミンガン出土の鹿角馬頭形歩揺飾は、同じ部族が、時代を経て技術が円熟した時期のものだろう。
これらを作った騎馬遊牧民をとりあえず、「謎の碧の民」としておこう。

※参考文献
「南ロシア騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 朝日新聞社)
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」(1993年 京都文化博物館・京都新聞社)

2009/03/03

慶州天馬塚で出土した金製附属具は内帽の揺帯?


天馬塚では金冠の他にも附属具とされるものが出土した。中央の16個は金冠からはずれた歩揺かも知れない。外側の歩揺のついた細い金線が、瑞鳳塚の金冠についていた鳳凰飾りを支える内帽形の骨格を作る揺帯に似ている。
しかし、その間にある角の輪郭のようになっているものはわからない。遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠を支える揺帯に似ているような気がする。 『世界美術大全集東洋編3』は、石槨墓の墓主・憑素弗は、十六国の一つ北燕(407~436)の王馮跋の弟であった。北燕は、鮮卑系の後燕を継いで漢民族の将軍・馮跋が建てた王朝であり、都とした龍城(遼寧省朝陽市)は北辺、契丹などの遊牧民の地であった。馮氏の出自と政策ゆえに漢文化への傾斜が強かったようだが、地勢、時勢、ともに外界からの刺激にさらされていたという。
憑素弗墓出土の金歩揺冠に似たものが、同じ遼寧省より出土している。

金製歩揺付冠飾 遼寧省房身2合墓出土 遼寧省博物館蔵
『日本の美術445』は、房身2号墓では方形冠飾のほか、木の葉形の歩揺を金板に着し、いかにも聖樹を連想させるような金製冠飾とやはり歩揺付の金製帯板が出土しているから、三点一具をなして一つの冠を形づくっていたようであるという。 
形は似ているが、瑞鳳塚出土の金冠の歩揺飾のように頭頂部を飾るものではないようだ。同墓出土の方形冠飾はこちら 内蒙古自治区からも、歩揺飾が出土している。

鹿角馬頭形歩揺飾 3-5世紀 高19.5㎝幅12㎝ 1981年内蒙古自治区烏蘭察布盟達爾罕茂明安聯合(ダルハンムミンガン)旗西河子出土 内蒙古自治区博物館蔵
『中国☆美の十字路展図録』は、金の鋳造で複雑に分岐した角をつける馬頭を作り、耳の輪郭及び鼻柱や角などを金の細粒で装飾し、石やガラスを象嵌している。角の先端につけられた桃形金葉の輪郭は刻点連珠文装飾の効果を出している。これは一組の冠飾の内の一つで馬頭形及び牛頭形飾が各々一対ずつ発掘された。辺境から匈奴の故地へと導いた鮮卑の始祖神話の神獣は馬に似、声は牛に似ると伝えられるが、これらはそのような神獣の辟邪祥瑞の意味合いを担っていたのであろう。金の桂枝や獣形をつけた冠飾(歩揺)付の冠は後漢書にも見られるが、イラン系遊牧民族起源と考えられる。晋書には歩揺冠を好んだ鮮卑族慕容部の人々は歩揺と呼ばれ、これが訛って慕容部の名前となったと伝えられるという。牛頭形飾はこちら
歩揺付の冠がイラン系遊牧民の起源とすると、その人々の居住地区はシベリアだったのだろうか?また、鮮卑族のうち北魏を建国したのは拓跋部だが、他にもいろんな部族があったようだ。中国から見れば東北部に、朝鮮半島から見れば西方に居住していた鮮卑族は慕容部だが、歩揺からその部族名がついたとは知らなかった。  『日本の美術445』は、いずれも4世紀中葉から5世紀初頭に比定される遺品であり、6世紀前半の武寧王陵王妃棺出土冠飾に先行する黄金製冠飾の北方作例として注目される。
特に房身2号墓からは3件の冠飾のほか、多岐にわたる黄金製品が副葬されており、古代鮮卑族の墓であることから、鮮卑族の黄金尊重のさまが偲ばれるとともに、黄金文化伝播の役を担った北方遊牧民達の活動の実体が彷彿とさせられる
という。
武寧王陵出土の方形金製冠飾はこちら

これらは樹木形や鹿角形というシベリアのシャーマニズムの要素を持っているが、新羅式金冠ほどの大きさはない。ずいぶんと簡便になっているとも見えるが、それは鮮卑族の好みだったのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」(2000年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「中国☆美の十字路展図録」(2005年 大広)
「日本の美術445 黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂) 

2009/02/27

慶州天馬塚の金冠


『世界美術大全集東洋編10』は、朝鮮半島の古代文化を象徴するのは、新羅の金製品である。
今日までに金冠塚、皇南大塚北墳、天馬塚、金鈴塚、瑞鳳塚の合わせて5基の古墳から典型的な金製の新羅式冠が出土している。これらはみな新羅の都があった慶州の邑南(ゆうなん)古墳群に属する
という。
もっとたくさんあるのかと思っていた。
金冠塚に比べて立飾の枝が太くなり、列点文が2条になるなど、新しい要素が見られる。冠帯の左右には、冠垂飾が一つの金環から長短2条下がる。1条は、3枚の金板を折り曲げ、背中合わせにして作った三翼形垂下飾を先端に垂らす。中間の飾りは、細金板を二つに折り曲げた両端に輪を作り、細金板の周りを金線で螺旋状に巻き付け枝を出し、その先に心葉形歩揺を垂らした金具を9個連結している。他の1条は、華籠形中間飾りに3個の心葉形垂下飾を下げるという。
垂飾は新羅から出土した皇南大塚北墳・金冠塚・瑞鳳塚・金鈴塚の金冠にそれぞれついていて、飾り・金冠への取り付け金具はすべて異なっている。 
新羅式金冠は、鉢巻き式の冠帯に「山」字形を上下に3、4段連ねた立飾が正面と左右側面に一つずつ立ち、背面に鹿角形立飾が1対立つ形を典型としているという。
この型式のもっとも古い形は、邑南古墳群内の南に位置する校洞から出土した1段の「山」字形の立飾をもつ金冠である。金板には打出列点や蹴彫りがみられず、円形歩揺が冠帯と立飾につく簡素なものである。民家の塀の修理中に偶然発見され、金製耳飾り、金銀装素環頭大刀、三葉文環頭大刀などが合わせて届けられた。遺構は後に調査され、直径15.6m(復元)の積石木槨墳であることが判明した。これらの遺物は、おそらくこの古墳からの出土と見てよく、古い様相をもっており、金冠も新羅初期のものと見てよいだろう。新羅は、歴史書によれば377年に中国の前秦に使者を送ったという記事があるので、4世紀後半には成立していたとみてよいという。
これが慶州で最初に作られた金冠らしい。1段の「山」字形の立飾というが、太い幹と枝の樹木を表したとみる方が自然だろう。側面の立飾は樹木形なのか、鹿の角形なのか、木の葉のような歩揺があるので樹木形のようだ。 『図説韓国の歴史』は、祭政一致時代の韓国の王は、王であるとともに、祭祀を司るシャーマンであった。新羅(シルラ)や百済(ペクチェ)、伽耶(カヤ)国などの故地から出土した金冠や金銅冠なども、シャーマニズムにかかわる冠物とみて大きな間違いはない。聖樹を立て飾りに用いたそれらの冠は、生命樹つまり樹木信仰の具象化した形だとわたしは思う。横に鹿の角を立てた冠などがシベリアのシャーマニズム文化圏でも見られるという。
シベリアと新羅・百済・伽倻の間には高句麗という国があったのに、高句麗にはこのような冠はないようだ。高句麗を経由せずに、どのようにしてシャーマニズムや樹木形や鹿の角形の立飾のある冠が伝わったのだろう。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」(2008年 奈良国立博物館)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)

2009/02/24

慶州天馬塚の冠飾


鳥翼形冠飾 金製 高45.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、金冠塚からの出土例と、形態や文様が非常に類似する。しかし、中央上部の突起が5つから3つに減り、左右の鳥翼形装飾が金冠塚のものよりも直線的に上に長く伸びる点が異なる。被葬者の着用品ではなく、木槨内の副葬櫃から蝶形冠飾と一緒に出土した。鳥が力強く羽ばたく姿を連想させる左右対称の構図である。
冠飾の内面には、複雑な文様が透彫されており、唐草の蔓と類似する。5世紀中葉の金属工芸品にみられる図案を考慮すると、龍文が唐草文のように変化したものとみられる。龍文の周縁には、裏側から打ち出して装飾した列点文が施されており、冠飾の周縁には、列点文と波状列点文が施されている。金糸を用いて約400個以上の円形の歩揺をびっしりと取り付けて、華麗に装飾している
という。
これだけの歩揺がついていると、歩くとにぎやかな音がしたのだろうか。よく似ている金冠塚出土の鳥翼形金冠はこちら  蝶形冠飾 金製 高23.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
1枚の薄い金板を切り抜いて製作する点が特徴で、その製作技法と意匠が非常に特異である。全形は、義城・塔里3槨から出土した典型的な冠飾とは異なり、ふくろうのような鳥類が羽を広げた姿に類似する。
透彫文様と文様装飾部の周縁には、列点文が表現されている。中間と左右の羽根部には端の丸い猪目形の文様を、中央には5つ、左右にはそれぞれ3つずつ、透彫技法で施す。この文様は、主に6~7世紀の百済の金工品で大いに流行したもので、心葉形の変形とみられる。こうした文様が新羅の金属工芸品に現れるもっとも早い例としては金冠塚の冠帽があり、天馬塚出土品では、龍文が表現された銀製銙帯にもみられる
という。
心葉形の変形がこのような丸い猪目形になったという。心葉形は金冠塚出土垂飾耳飾(5世紀)に見られるが、一番下の大きなものが鎖で閉じられていて心葉形とわかるが、それ以外は心葉形だとは思ってもみなかった。猪目形がよくわかるものはこちら。
そして、同じ天馬塚の金製冠帽では、猪目形の刳り貫きが変形して半環文になったという(「世界美術大全集東洋編10」より)。
このように5~6世紀の新羅でどんどん変化していく文様だが、百済では6~7世紀に金工品で流行したらしいが、中央アジアのティリヤ・テペ6号墳出土の金冠立飾にも猪目形の刳り貫きが見られる。それは前1世紀後半~後1世紀前半に作られたものである。 三角帽形をした内冠の前面にさし込んで装飾するというが、実際に被るとどのようになるのだろう。

壁画に古代朝鮮人 ウズベキスタン、サマルカンド市アフラシヤブ都城宮殿址出土 ソグド時代(7世紀後半)
『図説韓国の歴史』は、ソグド時代の壁画には、古代朝鮮人とみられる2人の人物が描かれていた。鳥羽冠をかぶり、環頭大刀を佩き(はき)、拱手している姿は、高句麗人か新羅人を彷彿させる。高句麗は突厥と交渉をもっていたので、中国を経由しない「ステップ・ロード」ルートにより、西域との直接接触を強く示唆するもので、三国時代の文物にみられる西域的要素はこうした経緯によるものと考えられるという。
668年に高句麗は唐と新羅によって滅ぼされ、統一新羅時代になるのだが、この壁画製作時期の7世紀後半は、三国時代の高句麗から行った人たちなのか、新羅から行ったのか、それとも統一新羅時代のどちらかの人たちなのか、微妙なところやなあ。 朝貢図 陝西省乾県乾陵陪葬墓出土、章懐太子墓・墓道東壁 唐・神龍2年(706) 西安市陝西歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』で杜暁帆氏は、長安の鴻臚寺、礼賓院の官吏が3人の周辺異民族の使節を連れ、大唐王朝に拝謁(朝貢)する途中の風景であるという。
唐朝文官は籠冠を被り、赤色長袍をつけ、笏を持って綬帯を引きずる後ろからついて行くこの使節たちは、『唐書』に記載のあるタジクないしペルシア、高句麗ないし日本などの民族であると考えられるという。
使節の前にいる人物はタジクもペルシアも東方アーリア系なので、どちらかわからないが、後方の人物は、日本人ではなく統一新羅の人で、高句麗系か新羅系かはわからない。『黄金の国・新羅展図録』は、金冠と共に、金製冠帽と冠飾も着用者の社会的地位や身分を示す重要な威信材であった。冠帽と冠飾は別々に出土することもあるが、本来はセットであったと考えられる。
冠飾はも冠帽の前面にさし込んで、冠帽とセットで用いられる装飾品である。新羅人と高句麗人は、高句麗の古墳壁画や記録にみられるように、羽毛や鳥翼形装飾を冠飾として好んで用いた。
鳥翼形と蝶形の冠飾は中央アジア・アルタイ地方のパジリク遺跡の積石木槨墳でも出土しており、両地域間の関係を暗示している
という。
パジリク遺跡は紀元前5~4世紀の古墳群で、5号墳からフェルト製の王権神授を表した壁掛けが出土したことで有名が、同遺跡から鳥翼形や蝶形の冠飾が出土したことは知らなかった。

またここでも中央アジアというか、北方ユーラシアとの交流が見えてきた。草原の道で中国を介さずに行き来できた証明にはなるが、時代が違いすぎるようにも思えるなあ。 

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」 森浩一監修 1988年 中央公論社
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館 
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」  1998年 小学館


2009/02/16

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-瑞鳳塚

 
金冠塚のそばから路西洞古墳群に入っていくと、右側に金鈴塚よりも低く広大な土壇がある。というよりも、ほぼ地面と同じレベルなので歩いていても気づかない。

路西洞 瑞鳳塚 5世紀中葉
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、発掘を視察・参加したスウェーデン(瑞典)のグスタフ・アドルフ皇太子の国名の「瑞」と出土した金冠の鳳凰飾りにちなんで「瑞鳳塚」と名づけられた。
墳丘の規模は径36.3mで、その高さは10m以上と推定され、金冠塚に接するほどになるという。封土のすべてを取り除くという全面発掘がなされたため、従来明瞭でなかった点が解明されている
という。
金冠塚は右端の向こうで見えていない。瑞鳳塚は現在双円墳の墳丘跡として残されている平面よりも、封土の分だけ膨らんでいたので、金冠塚まで迫るほどだったらしい。

削平され畑地となっていたが、南北の長径52m余、東西の短径35m、高さ7mの楕円形を呈していたという。1926(大正15)年に小泉顕夫によって発掘された。墳丘の周囲に、幅1.8mの帯状の外護列石がめぐらされた瓢形墳で、北墳ののちに南墳が造られていた。発掘は北墳のみおこなわれたという。
しかし発掘の後は住宅地となっていたらしい。瑞鳳塚に沿って歩いたが双円墳だとは気づかなかった。そういえば路西洞古墳群には双円墳がもう1つあった。 地山層を掘り下げ、東西4.7m南北3.7mの木槨、内部に東西3.8m、南北2.0mの木棺を納める。木槨の下層は掘削した地山上に褐色粘土を敷いて平らにし、偏平な割石を二重に敷き、その上にバラスを10㎝ほどの厚さに敷いて基礎としており、さらに多量の朱(酸化鉄粉)が散布していたという。朱を全面に塗布したのち木槨を組み、積石し、その表面を粘土でおおったのであるという。
今まで新羅の古墳について調べていて、「基礎全面に朱を塗布する」ということが明記されたものは、この瑞鳳塚だけである。日本の古墳にあるはずだ。藤ノ木古墳の石棺に、外側も内側も朱が塗られていたが、6世紀後半とされているので、瑞鳳塚の方がずっと早い。日本では魔除けだと思うが、瑞鳳塚の場合はなんのためだろう。
木槨内は盗掘もなく完存していた。硬玉・瑠璃製の勾玉で飾られた金冠・金製勾玉・魚形などの装身具、瑠璃碗・瑠璃杯、青銅鐎斗、漆匙、銀製盒が出土しているという。

金冠 高30.7㎝
「金冠の鳳凰飾り」はどこにあるのだろうか。この金冠には頭の形のような金の針金が見える。そして中央の「山」字形の立飾から、歩揺のついた何かが見え隠れしている。
北燕、遼寧省、憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠に似ているが、これが鳳凰の形をしているのかどうか。
『国立慶州博物館図録』は、その内側に内冠を形どっていることが特徴である。揺帯で内帽形の骨格を作り、幅約1㎝の薄い金板2枚の立飾りを十字形に交差させ、その先端には鳳凰とおもわれる三羽の鳥が枝に止まっている様子を表現した装飾がそびえ立っている。このような形の内冠は現在まで知られているものには、類を見ない独特の形式のものであるという。
針金状のものは内冠というらしい。 玉類 ガラス・水晶・オニキス製 5世紀
『黄金の国・新羅展図録』は、数量からみて首飾よりは釧として用いられたか、それぞれ別の装身具に装飾品として用いられたものの集合体とみられるという。
下中央の緑色勾玉から2つ右に藍色のトンボ玉がある。小さな黄色の斑点がある。そして上中央の青色のガラス玉の左側に金層ガラス玉がある。解説には「黄色丸玉」とあるが、私には金層ガラス玉にみえる。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、銀盒には、細い針のようなもので銘文が刻まれていた。「延寿元年辛卯」につくられたもとわかる。高句麗長寿王39年(451)と考えるのが有力である。古墳の編年問題に関係して、崔囗鉉は銀盒の製作年代と埋葬年代をほぼ同時ととらえ、瑞鳳塚を5世紀中葉に位置づけるという。
5世紀半ばといえば、皇南大塚南墳と同時代になる。同じ頃に2人の王が亡くなったのだろうか。

双円墳についてはこちら
金層ガラス玉についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)

2009/02/13

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-金冠塚

 
路東洞の道を隔てた向こう側は路西洞古墳群となっていて、路東の大きな鳳凰台古墳をぐるりと回ると、路西の金冠塚が平たく横長に見える。入口を入ると写真のように見える。

金冠塚(128号墳) 5世紀末~6世紀初め
『国立慶州博物館図録』は、慶州市路西洞のある民家で敷地拡張のための整地作業中にこの古墳の封土を掘り込んだところ、多量の遺物が出土したため、収拾、調査された古墳である。以前にも、慶州の古墳の調査は行われていたので知識不足によって埋葬主体部の積石に達すると、これを普通の積石と誤認し、発掘を中止してしまったのであるという。
遺物出土前の状態に復元したものがこの形らしいが、それ以前に中止された発掘の時期には、積石木槨墳というものがまだ知られていなかったらしい。 『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、積石木槨墳の築造過程も究明され、副葬状況も復元された。長方形の墓壙を掘り、その中央に角材を組み合わせた槨を築き、内部に木棺を置き、冠などの装身具で盛装した遺骸を安置したのち、棺内に副葬品を納めた。さらに棺外の三方を囲むように鉄鋌300~400枚と鋳造斧形品が配されていた。槨は蓋をされ、四周に人頭大の河原石を積み重ね、さいごに盛土されている。墳丘は、径約46m、高さ12mと推定されているという。径は日本の丁瓢塚古墳の円丘部くらいかな。高さが全然違うけど。
『国立慶州博物館図録』は、装身具類、武器類、馬具類、容器類など4万余点にのぼる豪華な遺物が出土している。金冠塚の装身具類の中で金冠・冠飾・冠帽・銙帯、そして腰佩は天馬塚のものと似かよっているという。天馬塚が6世紀初なのでほぼ同時期のものということなのだろう。  金冠塚と名づけられたのは、この古墳から最初に金冠が出土したことからという。
『世界美術大全集東洋編10』は、一周する冠帯(台輪)の上に、「山」字形の立飾が前面と左右に合わせて3本、鹿角形立飾が後頭部に2本、合計5本の立飾がつく。「山」字形の立飾は、木の幹と枝を表現したもので、枝が左右に3本ずつ出ているので、三段対生樹枝形立飾ともいうという。
5世紀後半の皇南大塚北墳出土の金冠と同じく、立飾の縁に1条の打出列点文と冠帯の縁に蹴彫りによる平行線と波状の文様がつけられている。それにしても2つの金冠はよく似ている。鹿角形立飾も比べられたらなあ。  金冠だけでなく、鳥翼形金冠も出土している。こちらは天馬塚のものとよく似ているが、中央の突起が天馬塚のものは1つなのに対して、こちらは3つある。  それだけではない。このような材料までも副葬されていた。冠帽も出土したというが、それ以上のなにを金で造ろうとしていたのだろう。左下に束にして置かれているものは歩揺である。 垂飾耳飾りも出土した。このような装身具類だけではない。高坏や碗までもが金でつくられている。
こんなにキンキラ豪華に葬られた王は誰だったのだろう?

鳥翼形金冠についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社) 

2008/01/18

新沢千塚126号墳には金がざくざく


新沢千塚126号墳にはガラス容器や金製方形冠飾だけでなく、金製品が驚くほどたくさん副葬されていた。『海を越えたはるかな交流展図録』によると、
金製歩揺は全部で384個、その径は1㎝を中心に2㎜前後の大きさの違いがあり、それらは円形の座金具が付くものと無いものとに大きく分かれる。出土位置は、いずれも上半身に集中していて、ガラス小玉とともに、衣服か遺骸を覆う布に綴じ付けられていたと復元できる。
このような使用状況を知ることのできる一例として、北朝鮮安岳3号墳の壁画で、墓主夫人が着ている袖なしの衣服に、小円形の飾りを多数つけているのが注目できる。墓誌には、墓主の出身を遼寧地域と記していて、歩揺の系譜をたどる手がかりになる 
 
という。 遼寧地域は現遼寧省ということだろうか。安岳3号墳は、北朝鮮黄海南道安岳郡五菊里にある。『世界遺産高句麗壁画古墳展図録』によると、この墓の主人公の墓誌が768字にわたり墨で書かれる。これによれば、357年に没した中国遼寧省蓋平県出身の冬壽(とうじゅ)の墓であることがわかるということで、冬壽の夫人の着ている服には糸か何かでとめた歩揺が描かれている。しかし、天蓋も夫人の袖なしの服と同じ色で、やはり歩揺が取り付けてあるようだ。何故夫人の方には歩揺があり、墓主の方にはないのかわからないが、ひょっとすると、126号墳の墓主は女性だったかも知れない。天蓋にも歩揺が付けられていることを考えると、魔除けかなとも思える。そして、一対の耳飾りと指輪が多数副葬されていた。『海を越えたはるかな交流展図録』によると、最大長21.7㎝あり、3条の垂飾で構成される。そのうちの1条は、歩揺を多用した中間飾りが特徴で、針金の芯に歩揺を通した金線を巻きつけた7単位の垂飾を連結させて、歩揺付き空玉(うつろだま)と中空の山形垂飾が下に続く。あとの2条は細い兵庫鎖が主体で、あいだの針金に歩揺を巻きつけた飾りは前者に通じ、下端に空玉を下げる。  ・・略・・  朝鮮半島の例では、中間飾りに歩揺を多用するのは、新羅の冠に伴う垂飾に共通する特徴が見られ、それらのなかには20㎝前後の長いものも含まれるという。
『日本の美術445黄金細工と金銅装』で河田貞氏は、これほど長大な耳飾は、韓国でも余り出土例がない。  ・・略・・  この一対も冠付属の垂飾であった可能性が十分考えられる。冠は金冠や金銅冠ではなく、布製冠帽のような有機質の冠であったことは、痕跡をとどめていないことや被葬者の頭部の位置に、金製方形冠飾を残していないことからも明らかである。  ・・略・・
うち1条は先端には空玉1箇と三又を呈する鋤形装飾板を吊下している。類例は皇南大塚の金冠垂飾や慶州・校洞出土の耳飾にも見られるなど、新羅では必ずしも特筆すべき意匠ではなかったらしい。しかし中国東北地方には、この祖型と考えられる櫛歯形垂飾が瓔珞として使用されているから、これも北方系意匠の一つと考えることが可能であろう
と、冠の垂飾とみなしている。
複数の金製指輪も副葬されていた。貴石が象嵌されていたことを思わせる細工や粒金がついたものと、数重の螺旋状のものである。後者は粒金を一列に並べたような細工が施されているように見える。 金線を螺旋状にしたものに、螺旋状髪飾りと呼ばれている長いものもあった。『海を越えたはるかな交流展図録』によると、
太さ1㎜の金線の外周に刻み目をいれて、径10.5~12㎜になるように62回巻きつけ、長さ9.5㎝の一対の垂飾に仕上げている。この上端には、円形の座金をつけて挿入していた、ガラス棒が現状では2㎝ほどだが、現場では9㎝ほどの長さでのこっていたと確認されている。
この垂飾は、左右の耳飾りに近いところにあり、そして芯に挿入したガラス棒の本来の長さから考えれば、髪飾りとしての使用法が想定できる

としている。しかし河田氏は、
不可解なのはこの耳飾と重なるような状態で、両耳の位置から金線を螺旋状に巻いて筒状にした装身具が出土したことである。二種の異なった耳飾が同位置から出土することは想定できないため、報告書では螺旋状筒形装身具を束髪用であろうとされた。しかし冠帯が有機質の布製であったとすれば、腐食消滅するのが当然であり、垂飾だけが残ったともいえるのである。  ・・略・・ 7世紀に比定される東京国立博物館の観音菩薩立像(法隆寺献納宝物178号)やエジプト18王朝時代の彫刻にみられる類例を、参考資料として提示しているが、これもグローバル性を示す遺品として興味深いと耳飾りとされているものも、髪飾りとされているものも、冠帯につけていたものと考えているようである。
法隆寺献納金銅仏178号の観音菩薩の螺旋状の飾りは、髪ではなく耳についている。実際に耳につけるには重すぎるように思うが、このような装飾品が7世紀に造られた仏像につけられているということは、かなりの期間にわたって、存在していたのは確かなようだ。
また、河田氏は、当時わが国では金は産出せず、純金製品も作られなかったから、黄金文化の伝播は朝鮮半島までであり、日本列島には至らなかったとする説もある。しかし新沢千塚126号墳に見られるように、半島からの渡来人が各種の黄金製装身具を確実にもたらしていることを勘案すれば、黄金文化の伝播を否定するわけにはいかないであろう。本格的な金の産出や精錬は行われなかったとしても、砂金や自然金は存在していた筈であり、僅かではあっても、少い金を効果的に使用した金銅製品に加え、金環だけの耳飾や指輪などのように、細工を余り必要としない素朴で小さな若干の金製品は作られた可能性が高いと、これらが大陸から将来されたのではなく、日本製説をとっている。
また『海を越えたはるかな交流展図録』で千賀久氏は、その人物が埋葬された墓地を営んだ集団を、渡来系集団と在地の有力氏族のどちらに考えるかで、126号墳の国際色豊かな文物が、その人が属する集団に関わることか、その人個人のことだけなのか、評価が分かれるように思う。
管谷文則さんの、北燕の戦乱時に「中国北方の抗争から高句麗に逃亡し、さらに南下したのち、日本列島に至った逃亡胡の貴族の1人」という理解に共感をおぼえるが、その故地は加耶だろうと私は考えている。5世紀の朝鮮半島情勢のなかで育った人物、その半生を物語るのが、身の回りの装身具と熨斗・ガラス器・漆器などであり、そこに「海を越えた交流の時代」の実態を知る手がかりがある
という。 加耶は半島中南部に3~6世紀まであった小国家郡であるとウィキペディアにある。鮮卑族というのは飛躍しすぎだったのかも。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」(2005年 社団法人時事通信社)

2008/01/16

新沢千塚126号墳にも歩揺冠、しかも金製


新沢千塚126号墳から出土したすごいものはガラス碗だけではなかった。小さな四角形の透彫の板にもまた歩揺がついていた。藤ノ木古墳の全貌展で見た金銅製の冠に続いて同じ日に歩揺冠をまた見るとは思わなかった。しかもこの方形冠飾りは金製だった。 
『海を越えたはるかな交流展図録』によると、
厚さ0.18㎜、横84㎜、横83㎜のほぼ正方形で、周囲に円形歩揺を計32か所(現存23個)とりつける。周囲に連続する鋸歯紋、中央に左向きの龍文、その上下に横向きのS字文をそれぞれ透彫りにし、四隅には各3個の小孔があり、これで帽に綴じつけていたことがわかる。
この金具は、出土位置で頭部の前面を飾っていたと想定できる。同じ形の金具は中国遼寧省房身2号墓に2枚あり、それ以降もこの地域に集中して類例が増えていて、その系譜は特定できる
 
ということだ。鋸歯文と横向きのS字文はわかりやすいが、中央に表されているのが龍とは。
6世紀後半の藤ノ木古墳では、歩揺冠は足元に置かれていたが、5世紀中葉とされている新沢千塚126号墳では歩揺冠は頭部から出土している。
『日本の美術445黄金細工と金銅装』によると、
新沢千塚126号墳の刳抜木棺内には、ちょうど頭の額に当る部分に、冠飾と思われる純金製の龍文透彫方形飾板が副葬されていた。周囲には打出しの手法で裏面から半球状に盛り上げた山形の座に28箇の歩揺を金線で装着するが、四角にそれぞれ三つの孔を穿っているのは、おそらくは冠帽に綴じつけるためのものであろう。透彫文の周囲には鋸歯文帯が廻っているが、これも三角形の透彫部分を裏に折り曲げて冠帽への装着用としたらしい。
冠帽もなく冠帯も見当らないところをみると、いずれも布製だったものが腐蝕消滅した可能性が高い
 
ということだ。藤ノ木古墳出土の金銅製歩揺冠とはだいぶ趣の違ったものだったらしい。
方形金製冠飾 百済、錦城洞武寧王陵出土 6世紀前半 韓国国立公州博物館蔵
同書によると、金属製の冠帯・冠帽を伴わず、同類の方形歩揺付金製冠飾を出土した例としては、韓国・公州の武寧王陵がある。日本に仏教を伝えたことで良く知られている百済の聖明王の父君である。武寧王は癸卯年(523)に崩じ、丙午年(526)に没した王妃ともども、己酉年(529)に、公州市郊外にある宋山里に合葬されたが生前すでに築造を了えていた中国南朝系の塼室墓である。方形金製冠飾は、その王妃の棺から発見されたもので、冠帽の正面飾板であったと目される。両側面を飾っていたと思われる火焔状の金製茎葉文冠飾と一具をなしていたらしいということだが、時代的に新沢千塚126号墳出土のものよりも1世紀以上も後のものだった。透彫がないなど、方形冠飾の衰退期のようだ。
金製方形冠飾 中国、遼寧省朝陽郊外房身2号晋墓出土 4世紀中葉~5世紀初頭 遼寧省博物館蔵
同書によると、方形金製冠飾他に、方形ではないが上辺のみを花先形に突出させた金製透彫山形冠飾と同じく山形ながら仏像を背面から打ち出した金製歩揺冠飾の2点が近在の馮素弗墓で出土している。
房身2号墓では方形冠飾のほか、木の葉形の歩揺を金板に着し、いかにも聖樹を連想させるような金製歩冠飾とやはり歩揺付の金製帯板が出土しているから、3点1具をなして1つの冠を形づくっていたようである。
いずれも4世紀中葉から5世紀初頭に比定される遺品であり  ・・略・・
特に房身2号墓からは3件の冠飾のほか、金鈴・嵌玉指輪  ・・略・・ 金環など多岐にわたる黄金製品が副葬されており、古代鮮卑族の墓であることから、鮮卑族の黄金文化伝播の役を担った北方遊牧民達の活動の実態が彷彿とさせられる
という。 百済か新羅からの渡来人と関係があるのかと思ったら、鮮卑族の名がでてきた。北魏を建国した拓跋氏だけが鮮卑族ではないが、面白い展開となってきた。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)