ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2009/02/24
慶州天馬塚の冠飾
鳥翼形冠飾 金製 高45.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、金冠塚からの出土例と、形態や文様が非常に類似する。しかし、中央上部の突起が5つから3つに減り、左右の鳥翼形装飾が金冠塚のものよりも直線的に上に長く伸びる点が異なる。被葬者の着用品ではなく、木槨内の副葬櫃から蝶形冠飾と一緒に出土した。鳥が力強く羽ばたく姿を連想させる左右対称の構図である。
冠飾の内面には、複雑な文様が透彫されており、唐草の蔓と類似する。5世紀中葉の金属工芸品にみられる図案を考慮すると、龍文が唐草文のように変化したものとみられる。龍文の周縁には、裏側から打ち出して装飾した列点文が施されており、冠飾の周縁には、列点文と波状列点文が施されている。金糸を用いて約400個以上の円形の歩揺をびっしりと取り付けて、華麗に装飾しているという。
これだけの歩揺がついていると、歩くとにぎやかな音がしたのだろうか。よく似ている金冠塚出土の鳥翼形金冠はこちら 蝶形冠飾 金製 高23.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
1枚の薄い金板を切り抜いて製作する点が特徴で、その製作技法と意匠が非常に特異である。全形は、義城・塔里3槨から出土した典型的な冠飾とは異なり、ふくろうのような鳥類が羽を広げた姿に類似する。
透彫文様と文様装飾部の周縁には、列点文が表現されている。中間と左右の羽根部には端の丸い猪目形の文様を、中央には5つ、左右にはそれぞれ3つずつ、透彫技法で施す。この文様は、主に6~7世紀の百済の金工品で大いに流行したもので、心葉形の変形とみられる。こうした文様が新羅の金属工芸品に現れるもっとも早い例としては金冠塚の冠帽があり、天馬塚出土品では、龍文が表現された銀製銙帯にもみられるという。
心葉形の変形がこのような丸い猪目形になったという。心葉形は金冠塚出土垂飾耳飾(5世紀)に見られるが、一番下の大きなものが鎖で閉じられていて心葉形とわかるが、それ以外は心葉形だとは思ってもみなかった。猪目形がよくわかるものはこちら。
そして、同じ天馬塚の金製冠帽では、猪目形の刳り貫きが変形して半環文になったという(「世界美術大全集東洋編10」より)。
このように5~6世紀の新羅でどんどん変化していく文様だが、百済では6~7世紀に金工品で流行したらしいが、中央アジアのティリヤ・テペ6号墳出土の金冠立飾にも猪目形の刳り貫きが見られる。それは前1世紀後半~後1世紀前半に作られたものである。 三角帽形をした内冠の前面にさし込んで装飾するというが、実際に被るとどのようになるのだろう。
壁画に古代朝鮮人 ウズベキスタン、サマルカンド市アフラシヤブ都城宮殿址出土 ソグド時代(7世紀後半)
『図説韓国の歴史』は、ソグド時代の壁画には、古代朝鮮人とみられる2人の人物が描かれていた。鳥羽冠をかぶり、環頭大刀を佩き(はき)、拱手している姿は、高句麗人か新羅人を彷彿させる。高句麗は突厥と交渉をもっていたので、中国を経由しない「ステップ・ロード」ルートにより、西域との直接接触を強く示唆するもので、三国時代の文物にみられる西域的要素はこうした経緯によるものと考えられるという。
668年に高句麗は唐と新羅によって滅ぼされ、統一新羅時代になるのだが、この壁画製作時期の7世紀後半は、三国時代の高句麗から行った人たちなのか、新羅から行ったのか、それとも統一新羅時代のどちらかの人たちなのか、微妙なところやなあ。 朝貢図 陝西省乾県乾陵陪葬墓出土、章懐太子墓・墓道東壁 唐・神龍2年(706) 西安市陝西歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』で杜暁帆氏は、長安の鴻臚寺、礼賓院の官吏が3人の周辺異民族の使節を連れ、大唐王朝に拝謁(朝貢)する途中の風景であるという。
唐朝文官は籠冠を被り、赤色長袍をつけ、笏を持って綬帯を引きずる後ろからついて行くこの使節たちは、『唐書』に記載のあるタジクないしペルシア、高句麗ないし日本などの民族であると考えられるという。
使節の前にいる人物はタジクもペルシアも東方アーリア系なので、どちらかわからないが、後方の人物は、日本人ではなく統一新羅の人で、高句麗系か新羅系かはわからない。『黄金の国・新羅展図録』は、金冠と共に、金製冠帽と冠飾も着用者の社会的地位や身分を示す重要な威信材であった。冠帽と冠飾は別々に出土することもあるが、本来はセットであったと考えられる。
冠飾はも冠帽の前面にさし込んで、冠帽とセットで用いられる装飾品である。新羅人と高句麗人は、高句麗の古墳壁画や記録にみられるように、羽毛や鳥翼形装飾を冠飾として好んで用いた。
鳥翼形と蝶形の冠飾は中央アジア・アルタイ地方のパジリク遺跡の積石木槨墳でも出土しており、両地域間の関係を暗示しているという。
パジリク遺跡は紀元前5~4世紀の古墳群で、5号墳からフェルト製の王権神授を表した壁掛けが出土したことで有名が、同遺跡から鳥翼形や蝶形の冠飾が出土したことは知らなかった。
またここでも中央アジアというか、北方ユーラシアとの交流が見えてきた。草原の道で中国を介さずに行き来できた証明にはなるが、時代が違いすぎるようにも思えるなあ。
※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」 森浩一監修 1988年 中央公論社
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館