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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2024/11/12

大阪市立東洋陶磁美術館 青磁・白磁・青白磁をさかのぼる


せっかくなので東洋陶磁美術館の展示から青磁・白磁・青白磁の作品の製作年代をさかのぼってみると、

飛青磁花生 元時代(14世紀) 高27.4㎝ 口径6.6㎝ 底径8.5㎝ 龍泉窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、鉄斑を散らした青磁は、日本では「飛青磁」と呼ばれている。優美な形のこうした瓶は中国では「玉壺春」の名で知られ、主に酒器として用いられたが、日本では花器として珍重された。本作は鴻池家伝来品で、伝世する飛青磁花生の最高傑作といえるという。
特に何を表しているのでもない鉄斑が、まばらに散らばっているのが良い。

『世界美術大全集東洋編7 元』は、元時代の青磁が宋代の青磁ともっとも異なるところは、器形の大型化と器種の増加である。龍泉窯がその市場を西アジアに向けたためである。しかし、元代の龍泉窯青磁はイスラーム世界だけでなく、日本を中心とした東アジアや東南アジア、インドなどにも多くの伝世品がある。龍泉窯が、東アジア向けの製品と西アジア向けの製品を明確に分けていたことは、興味深いという。
大きな器は日本人の好みではなかっただろう。


青磁管耳瓶 南宋-元時代(13世紀) 高20.9㎝ 口径13.3㎝ 哥窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、哥窯は明時代の文献に宋時代五大名窯の一つに挙げられている。南宋官窯青磁のような「紫口鉄足」(鉄分の多い胎土由来の口部や底部の特徴)や「金絲鉄線」(無数の細かな貫入)がその特徴である。本作は古代青銅礼器の「觚」をモチーフとした造形であるという。
貫入があるということは磁器になりきれていないからだろうか。

口縁部が黒ずんでいるのが
「紫口鉄足」ということだが、欠けた箇所の胎土はやや黒ずんでいる程度。


青磁鳳凰耳花生 南宋時代(13世紀) 高28.8㎝ 胴径13.0㎝ 龍泉窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、釉が厚く多層がけされ、「粉青色」を呈した南宋時代の龍泉窯青磁を、日本では「砧青磁」と呼び親しんできた。鎌倉・室町時代以降、こうした龍泉窯青磁は貿易品として日本に盛んにもたらされ、花器として珍重された。本作は丹波篠山藩主青山家伝来とされるという。
青磁はこのような落ち着いた色が日本人の好み。へそ曲がりの私もこの色の青磁を好んでいる。しかしながら、この「砧」について昔聞いていたのは、「布地を打つ道具」だったが、「砧」という名称の由来については諸説あり、現在、静嘉堂文庫美術館に所蔵されている利休所持と伝える青磁鯱耳瓶に割れがあり、これを錠で止めてあるのを見て、砧を打つ音の響きにかけて命名されたとする説や、東山の相国寺慈照院にあった青磁の花生が砧の形に似ているところから名づけられたとする説などが知られている。しかし、砧とは布地を槌で打って艶を出すために用いる「石もしくは木の台」をいうもので、いわば槌形というべき花生の形態から 名づけられたとする説は、どのような経緯で現れたものかよくわからない(『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』、以下『東洋編6』より)いうことが判明した。

耳が鳳凰の頭部から肩にかけての形を模している。鶏冠のギザギザや翼の付け根まで丁寧な仕事をしている。


胴部には轆轤目がはっきりと残っている。或いは釉薬が厚く掛かる工夫なのかも。



青磁八角瓶 南宋時代(12-13世紀) 高21.0㎝ 胴径13.5㎝ 官窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、灰黒色の胎土に、釉薬が厚く多層がけされ、白濁気味の淡青緑色を呈している。類似の八角瓶が浙江省杭州烏亀山の郊壇下官窯址でも出土している。釉色の美しさや造形の端正さ、いわゆる「薄胎厚釉」(胎土が薄く釉薬の厚いこと)の特徴など、南宋官窯の青磁にふさわしい特徴を見せているという。
八角形の角は厚い釉薬が垂れているのか、器形に角を付けているのか。

角を出して、胴部に被さるような形にしているみたい。



ここから金という時代の磁器も登場するが、金とはどんな国だったのか。
『東洋編6』は、中国北方で農耕・狩猟生活を営んでいた女真族が1115年に建国した金は、遼(907-1125)を滅ぼし、その領地を領有し(天海3年、1125)、さらに北宋(960-1127)を攻めて宋王朝を南に追い(天会5年、1127)、淮水以北の華北を版図として1234年まで存続した国家であったという。
女真族は後の満州族でタングート系。

そして金の磁器について同書は、前期は遼時代の技術を継承して匣鉢(さや)を使用せず、釉薬は潤いのある呈色を示さず、器物も変形が多く見られる。
しかし華北に進出した後期では、金前期に一時停滞していたと見られる定窯・耀州窯・磁州窯などの北宋時代の名窯と謳われた生産地も復興し、新たな技術展開も生まれ、金時代の陶磁史を彩ることになる。
華北に進出した後期では、金前期に一時停滞していたと見られる定窯・耀州窯・磁州窯などの北宋時代の名窯と謳われた生産地も復興し、新たな技術展開も生まれ、金時代の陶磁史を彩ることになる。
女真族という異民族の支配下にあったとはいえ、その支配層が早く中国化したために、華北諸窯はみずからの歴史の流れに沿って盛衰の過程をたどることができたのである。金時代後期における華北諸窯の陶磁器は、従来どおり漢文化の流れのままに展開したという。

月白釉碗 金時代(12-13世紀) 鈞窯 住友グループ寄贈 (安宅コレクション)
説明パネルは、朝顔の花のような優雅な器形で、全面に施された釉薬は「月白釉」と呼ばれる鈞窯特有の失透性の淡青色を呈した美しい釉色を見せている。河南省禹州市の鈞台窯を中心とした窯で誕生した鈞窯は、金時代以降に隆盛を見せ、各地でも鈞窯風の製品が生産されたという。
鈞窯のあった禹州市は殷代の都のあった鄭州市の南方。

『東洋編6』は、その優品では釉層が厚く玉のような質感を呈するもので、北宋晩期に出現していると報告されているが、作品の多くは金時代と考えられるものであるという。
ルーシー・リーがこのような高台の小さな碗を知っていたかは分からないが、その作品は高台が極端に小さかったという印象が強い。

と思いながら進んでいくと、ロビー2の現代陶芸コレクションにルーシー・リーの作品が1点展示されていた。高台は小さいが、器体は膨らんでいる。私の記憶違いだった。

むしろ大鉢のような作品が似ているかも。
線文大鉢 1958年頃 高さ10.3㎝ 口径26.0㎝ 磁器 イセ文化基金蔵
月白釉碗の形が柔らか


青磁貼花夔鳳文香炉 金時代(12世紀) 高18.0㎝口径21.5㎝ 耀州窯 住友グループ寄贈 (安宅コレクション)
説明パネルは、耀州窯青磁の香炉としては大型の作例で、古代青銅器の「鼎」を模した器形である。胴の三面に夔鳳文と長方形の突起帯を交互に貼り付けている。三足には獣面をあしらい、重厚さを加えている。金時代の耀州窯青磁の傑作の一つであるという。
青銅器に施された細かな装飾まで表している。殷や周の青銅器というのを金時代でも目にすることができたからこその形だ。    

同書は、文様では型押しで作った文様を器物に貼り付ける貼花文様や、印章を押し付けて文様を表す、いわばスタンプ文様も金時代におこなわれるようになる。総体に素地が厚みを増し、青磁釉はより黄みを帯びるといわれるという。
頸部には象の足を逆さまにしたような文様が高低がありながら並んでいる。スタンプであることは境目の線があることからもわかるが、肩部の雷文繋ぎは彫ったもののように見える。
大阪市立東洋陶磁美術館蔵青磁螭龍文香炉部分 世界美術大全集東洋編6 南宋・金より

そして底部にも頸部と同じ文様がスタンプされている。矛と盾かも。
大阪市立東洋陶磁美術館蔵青磁螭龍文香炉部分 世界美術大全集東洋編6 南宋・金より


白磁銹花牡丹唐草文瓶  金時代(12世紀) 定窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、白磁の胎土に鉄泥を掛け、文様の背景部分を掻き落とし、結果として鉄泥による褐色の牡丹唐草文が白磁の中に浮かび上がる。「吐魯瓶」とも呼ばれ、当時酒瓶として用いられたものと考えられるという。
二重蔓と言って良いのだろうか。明代永楽・宣徳期(15世紀前半)の金地二重蔓牡丹唐草紋金襴などに見られる二重蔓は、このような文様からできていったのかも。

元時代(14世紀)の青花龍牡丹唐草文双耳壺の牡丹の花を横からみた図柄と比べると、花弁の一枚一枚が小さい。花が品種改良されたのかも知れないが。

青花の双耳壺と比べると轆轤目が見えるほど釉薬は薄い。



白磁刻花蓮花文洗 北宋時代(11-12世紀) 定窯 高さ12.1 径24.5㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、瓜形状の胴の内外に流麗な彫りで表された蓮花文は、定窯特有の牙白色(アイボリーホワイト)の白磁に浮かび上がる。光を通すほど薄く成形され、ゆがみなく焼成するために上下逆にして焼かれた。釉のかかっていない口縁部には銀製の覆輪がはめられているという。
これまでに何度か記事にした定窯の白磁で最も優美な作品。いつ見てもゆったりと大きな作品に感じるのに、径が24.5㎝と小さなものだった。
覆輪と覆焼についてはこちら

ここまで見込みが見られることはなかった。低い一に転じされていると中まで見えて嬉しい。

残念なのは、牙白色白く写ってしまったこと。


白磁刻花牡丹文瓶 北宋時代(11世紀) 定窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、定窯の窯址は河北省保定市曲陽県にある。晩唐から白磁を生産し、宋・金時代には宮廷用器も生産した白磁の一大産地である。
本作は、薄い器壁の全面に牡丹唐草文が流麗な刻花文様で表されており、北宋時代の定窯の技術の高さをうかがわせる優品であるという。
上の洗とは別の部屋で展示されていたので、写真で比べるしかないが、これは牙白色よりも白い。
実際のところ、定窯の白磁といっても、青磁に近い発色をしているものもあれば、ガラス器に見えるほど白ものもある。
それについてはこちら

極細の毛彫りで花の葉脈が密に描かれている。


青白磁について『東洋編5』は、南中国の白磁といえば、景徳鎮窯の白磁(青白磁)に代表されるが、景徳鎮で青白磁がさかんに焼かれるようになるのは、北宋後期以降である。
景徳鎮窯の青白磁生産が飛躍的な増加を見せるのは、越州窯青磁の場合と同様、磁器の海外輸出が大きな要因となったと考えるべきである。
器表に刻された花文の上に溜まった青白磁釉が美しいシルエットをなし、「影青(いんちん)」と呼ばれたものがそれである。景徳鎮窯の青白磁の輸出は、南宋以降さらに増大化し、元-明時代へと受け継がれるのであるという。
青白磁の柔らかい色目は独特。


青白磁瓜形水注 北宋時代(11-12世紀) 景徳鎮窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、細身の瓜形を呈した胴部には、葉状の刻花装飾が見られる。エレガントでシャープな注口と把手が付き、花びら状の蓋を伴う。こうした水注は深めの鉢とセットで酒器として用いられ、盏托や盤にのせた杯に酒を注いでいた様子が、当時の墓の壁画にうかがえるという。
凹んだところなどに薄い青の釉溜まりができて、白に近い器体にアクセントとなっている。柔らかな器形には轆轤目が浮かんでいる。


青白磁輪花鉢 北宋時代(11-12世紀) 景徳鎮窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、うすづくりでシャープな造形の七弁の輪花鉢である。純白の胎土に青みを帯びた透明釉が施され、青白磁ならではの清純な美しさが感じられる。こうした鉢は中国では「温碗」と呼ばれ、水注とセットで用いられ、温酒器と考えられているという。
七弁で先の尖っていない花といえばクチナシだろうか。花弁の細い線がややぎこちない。


青白磁柘榴形盒 北宋時代(11-12世紀) 景徳鎮窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、蓋には突起状のつまみが付き、全体に柘榴をかたどっている。柘榴は前漢時代に西域から中国にもたらされたと言われ、多くの種子をつけることから、多産と子孫繁栄を表す吉祥文様として好まれた。女性の化粧道具であったと考えられるという。
ザクロの実の先は六つだったような・・・


青磁について『東洋編5』は、北宋後期の青磁は北中国では耀州窯が隆盛を見せ、南中国では越州窯が衰退して龍泉窯が台頭してくる、といった状況である。
耀州窯ではこの時期、刻花装飾や印花装飾が主流であり、流麗な刻花文様で飾った青磁が作られている。耀州窯の代表作は、ほぼこの時期に集中しているといってよいという。

青磁刻花牡丹唐草文瓶 北宋時代(11-12世紀) 高16.7㎝ 胴径17.3㎝ 耀州窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、北宋時代の耀州窯青磁の魅力はオリーブグリーンの透明感ある釉色と深く鋭い彫り技にある。本作はその中でも最高傑作の一つで、冴えた彫り技は釉薬の濃淡を生み出し、緻密な文様を立体的に浮かび上がらせている。耀州窯青磁の世界的名品であるという。
頸部以外は彫った文様で埋め尽くされている。ボタンの花の表現は、金時代の白磁銹花牡丹唐草文瓶よりも、青花龍牡丹唐草文双耳壺に近いかも。


青磁盤 北宋時代(11世紀) 耀州窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、口縁は平らで笠形を呈し、美しい稜線を見せる。やや灰色がかったオリーブグリーンの艶やかな釉色で、釉薬の溜まった部分は深い色合いをたたえている。シンプルな造形の小品ながらも耀州窯青磁の魅力が凝縮しているという。
料理を盛るものだったのだろうか。水を湛えたら文様が浮き上がったりするのだろうか。
見込みから口縁部へ文様が途切れなく続いている。

拡大したら何故かこんな色に・・・


青磁輪花碗 五代-北宋時代(10-11世紀) 耀州窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、五弁の花びらをかたどった輪花碗で、ドレープ状の立体感あふれる造形が美しい。金属器に倣ったもので、型による成形でうすくつくられている。淡く明るい色調と潤いのある質感の青緑色の釉色は、この時期の耀州窯青磁の特徴であるという。
口縁部の釉薬つ付き方がやや薄いところと、五つの稜線が、文様のない器に華やかさを醸し出している。


青磁盤 北宋時代(11世紀) 耀州窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、口縁は平らで笠形を呈し、美しい稜線を見せる。やや灰色がかったオリーブグリーンの艶やかな釉色で、釉薬の溜まった部分は深い色合いをたたえている。シンプルな造形の小品ながらも耀州窯青磁の魅力が凝縮しているという。 
このような口縁部を笠形というのか。それを凹面につくったようで、濃い釉溜まりができている。


青磁水仙盆 北宋時代(11世紀末-12世紀初) 汝窯 住友グループ寄贈(安宅コレクション)
説明パネルは、汝窯は北宋時代末に宮廷用の青磁を生産した窯で、「天青」 と形容される青味を帯びた独特な釉色が特徴である。伝世品は 世界で90点余りで、中でも「水仙盆」は他に台北の国立故宮博物院の4点と吉林博物院の1点しかなく、汝窯を代表する器形であるという。
独特の青い色が、口縁部の黒で際立っている。

黒い口縁部は、覆輪ではなく黒く施釉しているようだ。その釉薬がちょっと付いてしまったのか、黒い斑点は、返って景色となっている。


青磁陰刻草花文多嘴壺 北宋時代(11世紀) 龍泉窯 住友グループ寄贈 (安宅コレクション)
説明パネルは、肩にある五本の管は壺の内部には通じておらず、墓の出土例もあることから副葬用の明器と考えられる。蓮弁文装飾のある蓋が付き、胴部には簡略な草花文が陰刻されている。「五穀」の 墨書銘のある類例から、豊穣を願ったものかもしれないという。
蓋には縦の葉脈に釉薬が溜まって色が濃い。胴部には釉薬が密な縦線のように流れている。

胴部の草花文は細い線で伸びやかに描いている。まるで筆で描いたような濃淡がある。




『世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏』は、唐代、陸羽の著した『茶経』の中で、越州窯や邢州窯などの青磁や白磁が茶碗として絶讃されたことは、あまりにも有名である。越州窯青磁を氷や玉の如しといい、邢州窯白磁を雪や銀の如しと表現したこのことばは、陶磁器が当時の中国のハイ・ソサエティーの世界で銀器や漆器・玉器と肩をならべるほどに好まれ、高級食器として日常世界に広まっていたことを示すものである。しかし、『茶経』に記された唐代後期の陶磁生産の具体的な状況はわからないことが多く、遺品もそれほど多いとはいえない。とりわけ越州窯青磁については、この8世紀後半から10世紀の遺品はきわめて少ない。
9世紀後半-10世紀、五代-北宋初期の青磁や白磁などの質の高い陶磁器生産のはじまりは、晩唐以前にあるのではないかと考えざるを得ないという。
その作品を見ると、

白磁盒
唐時代(8-9世紀) 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、「粉盒」と呼ばれる盒子で、化粧用の白粉や頬紅あるいは香粉などを入れるための容器とされる。白磁はマット状のやわらかな質感を見せる。釉のかかっていない底部には墨書銘の痕跡が見られるが残念ながら文字は判読できないという。

蓋を拡大すると貫入のようなものが見える。


白磁杯
隋時代(7世紀) 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、西方のガラスを彷彿とさせるこうした薄くエレガントな造形の白磁杯は、隋から初唐にかけて流行した。底部は平底で、雪のような白い胎土がのぞく。内部や高台脇の釉だまりは鉄分により青緑味を帯び、緑水晶のような美しさを見せているという。
胴部に貫入が見られるが、この時代にこんなに完成度の高い白磁がつくられていたとは。


そして魏晋南北朝時代
『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』は、三国・南北朝の陶磁器は、約350年にわたった分裂の時代という社会状況を反映し、華北と華南で大きく様相を異にしていた。華南では、後漢に浙江省北部で誕生した青磁が目覚ましい発展を遂げた。
青磁は、技術的には殷中期から続いていた灰釉陶を発展させたものである。灰釉陶との相違は、堅く焼き締まった胎と、均質に滑らかに熔け、青緑色に発色した釉にある。これは釉胎の質の改良と、安定した高火度焼成によって実現されたものである。その結果、青磁は灰釉陶と比べて陶磁器として、よりいっそう完成した状態となっている。釉胎ともに青磁として完成した状態になるのは、3世紀末以降の西晋に入ってからのようであるという。


青磁透彫三足香炉 西晋時代(3-4世紀) 越窯 李秉昌博士寄贈
説明パネルは、宝珠形の三足香炉が三足の承盤内に置かれ、一体として焼成されたものである。香炉は、胴部に三段にわたって鋸歯状の三角形の透かし彫り装飾が施され、つぼみ状のつまみが付く。青磁釉はやや灰色がかった青緑色で、独特の光沢を見せているという。
古瀬戸のように茶色っぽく見えるのだが、古越磁と呼ばれる磁器は概してこのような色のものだった。

貫入は全面にあるが、貫入の有無は陶器と磁器という違いには関係のないものだった。





関連記事

参考にしたもの
館内の説明パネル

参考文献
「没後20年 ルーシー・リー展図録」 2015年 日経新聞社
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編7 元」 1999年 小学館
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館

2021/11/12

敦煌莫高窟275窟 菩薩交脚像は北魏か北涼か


今回の黄土高原石窟巡りでは、古いところでは後秦時代とされる武山水簾洞千仏洞の菩薩像や、炳霊寺石窟169窟の西秦時代の仏像仏画などを見学した。それをまとめているうちに、これまではさまざまな文献やテレビの番組で北涼時代のものといわれてきて、私も北涼時代と思ってきた敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像を、北魏時代のものとする『北魏仏教造像史の研究』の石松比奈子氏の次の文が気になってきた。

『北魏仏教造像史の研究』(2005年)は、こんにち敦煌莫高窟で最も早期と見なされているのは第268、第272、第275の3窟で、時代について敦煌研究院は北涼期(北涼の支配は421-439)としている。ただし、3窟とも年代を確定できる材料があるわけではなく、近年宿白氏は様式的観点から3窟の年代を北魏の太和8年(484)頃から洛陽遷都(494)頃、雲崗石窟の影響を受けて開かれたとする新説を唱えている。また、桑山正進氏は第275窟の塑造菩薩交脚像の宝冠形式を検討した結果、やはり北涼期には遡り得ないことを指摘している。筆者も第275窟については、後述するように北魏まで下げるべきと考えている。
1989年に宿白氏が提起した新年代論は衝撃的であった。氏はこれら3窟には河西地区の石窟や炳霊寺石窟との共通性は少なく、むしろ雲崗石窟第2期(470-494)の影響が認められるとして、その上限を太和8年(484)頃、下限を「洛陽遷都(494)をあまり隔たらない時期」まで下げたのである。宿白氏の新説は現在までのところ学会で認められたとは言えないが、明確に反論する意見も出されていない。これら3窟の年代は敦煌のみならず涼州地区全体の石窟造像の年代に大きな影響力を持つはずであるが、現状では漠然と敦煌研究院の公式見解である北涼説が採用されているという。

敦煌莫高窟275窟は北涼時代ではなかったのだろうか。

菩薩交脚像 西壁(正壁)
同書は、西壁本尊に菩薩交脚大像、南北壁上段には闕形龕内菩薩交脚像2、樹形龕内の菩薩半跏思惟像1を塑造で作るが、みな天衣が肩を広く覆って臂に懸かる独特の形状を示しているという。
確かに両肩にはギザギザの天衣がかかり、肘の後ろから下に垂下して、交差した脚の奥から端が出ている。このような天衣は他に見たことがない。

同書は、これらの菩薩像の尊格については、交脚像は兜率天で説法する上生の弥勒、思惟像は龍華樹下で思惟する下生の弥勒と見なす解釈が多い。しかし、酒泉から出土した北涼時代の白双且石塔(434)では、6体の如来像と1体の菩薩半跏思惟像、1体の菩薩交脚像の8体が組み合わされており、その配置から交脚像は弥勒菩薩として造像されたと推定できる。したがって、本窟の思惟菩薩像の尊格についても慎重に検討する必要があろうという。
背後には逆三角形のが描かれている。これは靠背と呼ばれる椅子の背もたれに懸かる布で、炳霊寺石窟169窟16龕の菩薩思惟像(西秦)にも描かれているが、背後に回った布帛は16龕の方が長い。靠背は短い期間にしか見られないもののように記憶しているが、275窟内にも西秦時代の、あるいは炳霊寺石窟の影響が及んでいる証拠の一つといえよう。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『世界美術大全集3 三国・南北朝』より


莫高窟の実測図には東入口から入って1/3の所に壁のようなものがあるが、後世に造られたもので、すでに取り除かれている。

『敦煌の美と心』は、窟頂は中国中原地域の木造建築を模しており、中央の両端を切妻形に折りあげた人字坡、すなわち人の字型の構造をしている。
奥行7mの正面に初期における最大の塑像といわれる高さ3.4mの交脚弥勒菩薩像が、人々を迎えるように両手をひろげ泰然と坐っているという。
同書では弥勒菩薩としている。

敦煌莫高窟275窟立面図及び平面図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


南壁上段 菩薩交脚像
『中国石窟 敦煌莫高窟1』(以下『中国石窟』)は、闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現しているという。坐り方が交脚でも、両手の印相はそれぞれ異なる。
菩薩像の肩から腕には、天衣(あるいは披巾)がぺらっと懸かっているように見える。
(画像に書籍名のないものは、敦煌石窟陳列館で写したものです。以下同じ)


北壁上層

菩薩半跏像 塑造
275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、樹形龕に坐している。
『中国石窟』は、双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿であるという。
胸飾りや短い瓔珞をつけた菩薩の左肩には、折畳文を3つほどつくる布帛がかかる。これは主尊では描かれていただけの天衣が、塑土で表されたものである。
そして天衣は右肩も覆い、右脚の下に波状の揺らぎを出しながら、右足と左手の奥からその端はやや下方向に曲がっている。その端は折りたたまれていて、天衣は幅のある布帛であることを表している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北魏窟の菩薩半跏像と比べてみると、

敦煌莫高窟257窟 菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
菩薩の顔は275窟の主尊と似ているように思う。
宝冠を留める宝繒の端がひらひらと重なり、曲線的な折畳文をつくるところなどは、275窟よりも表現が進んだものと思われる。
『中国石窟』は、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すという。
本像は天衣を肩から腕に添わせ、肘の内側に回しているところまではわかるが、その後天衣がどのようになっているのかは分からない。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

上図の菩薩半跏像の天衣の表し方は、炳霊寺石窟169窟22龕の脇侍菩薩像(西秦)に似ている。

脇侍菩薩立像 22龕 高さ1.28m
肘の内側から垂下している披巾は、脚部の外側で風に揺れているような優美な表現なのだが、両肩から腕にかけて、こんな風に魚の背びれのように披巾(または天衣)を添わせることに、制作者は不自然さを感じなかったのだろうか。主尊の大衣の端が左肩から腕に添っているのをただ真似ただけだろうか。
炳霊寺石窟169窟22龕 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


そして、何よりも高善穆北涼石塔(承玄元年、428、酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵)の菩薩交脚像の天衣も、このような形式である。
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
本石塔は、北涼時代に西秦時代の菩薩の独特な天衣が伝わっていたことを示しているが、275窟の菩薩像でこのような天衣は見られない。両肩から腕にかけて天衣が掛けられ、その衣端が折畳文のようになっている。それはやはり様式が進んだ北魏時代の制作であることを示しているのだろうか。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

菩薩の宝冠(三面頭飾)について
『北魏仏教造像史の研究』は、桑山正進氏も第275窟左右壁の塑造菩薩交脚像の宝冠について、ササーン朝ペルシャのヤズデガルド2世(在位438-457)の王冠形式の影響を指摘しているという。
ヤズデギルド2世の王冠がどのようなものかがわからないが、丸いものが3つ肉髻を囲んでいる。主尊の三面頭飾の正面には化仏が表される。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
宝冠は西壁菩薩交脚像と同じく丸い三面頭飾で、それぞれに化仏が配されているようだ。
また、主尊とおなじく天衣は両肩にかかり、肘の内側に回って斜め下に垂れる。その端の表現が主尊の天衣と似ている。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
三面頭飾には丸い文様がある。
そして、主尊と同じく天衣が両肩にかかり、肘の内側に回してその端は斜め下に張り出している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


『北魏仏教造像史の研究』は、筆者は北壁に描かれた本生図がみな『賢愚経』(北魏、慧覚等訳)に収められている物語である点に注目したい。
この経典は443年に慧覚が訳出したと伝えられており、本窟を北涼期の造営とするならば訳出以前に描かれたことになるという。
北涼は439年に北魏により滅亡しているので、下図のような具体的な本生図は描くことができなかっただろう。

南壁中層 四門出遊図
敦煌莫高窟275窟南壁四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁中層 月光王本生図
敦煌莫高窟275窟北壁中層四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁供養者像
下段は南北壁ともに供養者がそれぞれ主尊に向かって並んでいる。
『北魏仏教造像史の研究』は、胡服供養者列像についても、同様の胡服供養者列像は5世紀半ばから末頃までの北魏造像に常見されるという。
敦煌莫高窟275窟北壁供養者像 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

こんな風に275窟が北涼ではなく北魏に入ってからの開鑿であるというのが正解かも知れないが、炳霊寺石窟169窟(西秦)の影響もあることは間違いなく、宿白氏が河西地区の影響がないとする説には疑問がある。


関連項目

参考文献
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版株式会社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社