偏袒右肩の如来像はクシャーン朝期に現インドで造られるようになった。当時の僧たちの着衣を写したもので、蒸し暑いインドでは肌を露出していたからだという風に言われている。
仏三尊像 クシャーン朝、2世紀前半 総高71㎝ 砂岩 北インド、カトラー出土 マトゥラー博物館蔵
『インド・マトゥラー展図録』は、初期のマトゥラー仏の典型とされる作品である。中央の仏陀は、目を見開き、厚い唇の口元を強く引き締めた明るい表情であり、胸板は厚く、肘を張って堂々結跏扶坐していて、像高わずか40㎝に過ぎないが、たくましく野性的な力強さに満ちているという。
『インド・マトゥラー展図録』は、初期のマトゥラー仏の典型とされる作品である。中央の仏陀は、目を見開き、厚い唇の口元を強く引き締めた明るい表情であり、胸板は厚く、肘を張って堂々結跏扶坐していて、像高わずか40㎝に過ぎないが、たくましく野性的な力強さに満ちているという。
それが中国に伝わり、肌の露出を嫌う中国人たちが涼州式偏袒右肩という形式を編み出したと言われ、その最初のものが炳霊寺石窟169窟6龕の如来坐像である。
無量寿仏(阿弥陀如来)坐像 炳霊寺石窟169窟6龕 西秦建弘元年(420)頃 像高1.55m
『北魏仏教造像史の研究』は、浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と名づけたこの地位形式は、筆者も、肩を露出しないという点で着衣の中国的な変化とする見解を提示している。炳霊寺石窟第169窟(西秦時代、420年頃)に出現したこの新しい着衣形式が、河西地区では434年頃に現れるとする殷氏の指摘は、この着衣形式の伝播を考える上で重要である。
建弘銘は、前半は判読できない部分も多いが、末尾に「建弘元年歳在玄枵3月24日造」の文字が確認できる。ただし、題記の中ほどには「請妙匠容慈尊像」云々とあり、慈尊すなわち弥勒を造ったという内容が見え、無量寿三尊像の題記としては疑問が残るという。
ということで、著者の石松日奈子氏は420年頃としている。
着衣の彩色が残っていないので、少し補色してみた。左胸の大衣の縁に緑色が残っていたが脚部の下側に赤茶けた色がある程度で、大衣自体の色彩はわからなかった。右首に回した大衣は、縁が剥落しているが、大衣自体は右腕を半分覆っている。そして両脚部をすっぽり覆った大衣は、左手下から分かれて縁が外側にきて蓮台にかかる。
涼州式偏袒右肩の最初とされる本像の大衣のまとい方は以上である。
『北魏仏教造像史の研究』は、北涼制圧の際には涼州の民3万余家が平城へ移され、塔寺盛況だった北涼の仏教文化が一気に平城へ流入した。
5世紀後半の平城仏教の隆盛は涼州仏教、涼州造像の存在なしにはあり得なかったと言っても過言ではない。仏教文化の最先端地区であった涼州からの徒民は、河北造像を基盤とするやや旧式の平城造像界に、インドや中央アジアの新しい流行様式を吹き込み、さらに、石窟造像という未知の造像世界をもたらしたという。
そして敦煌莫高窟の窟について同書は、従来明確な根拠がないままに北涼期とされてきた早期3窟のうち、少なくとも第275窟に関しては年代を北魏時代、5世紀半ば以降に下げるべきであろうという。
これについては前回記事にしたので、今回は北涼時代の制作とみなされ、北魏時代とは断定されていない他の2窟、268窟・272窟の如来の着衣について。
268窟 窟頂平棋 北涼
『北魏仏教造像史の研究』は、奥壁に塑像の如来交脚像を造り、左右には2つずつの房室を設ける僧房窟であるという。
西壁如来交脚像 高さ0.76m
『敦煌莫高窟1』は、偏袒右肩に着て左右両側に供養菩薩が描かれる。龕庇は火焔文で装飾され、莫高窟唯一のギリシア式柱頭が描かれる。龕外には供養菩薩が跪き、上方に2飛天、龕下には供養者が描かれるという。
今回見学した中原の石窟では、アーチ形の龕庇を柱頭のある柱で支えているものを見てきた。炳霊寺石窟でも128窟(北魏時代)では、龕庇の龍下端に龍頭、それを支える柱頭は蓮華になっている。アーチ形龕庇と柱頭という組み合わせが定着して、中国化していった様子が窺える。
『北魏仏教造像史の研究』は、上段南側には女性の供養者が描かれ、一人は漢族の大袖に裙襦、もう一人は漢胡混交して小袖に衫裙を着る。北側は男性の供養者で、ひとしく漢族の深い袍で、漢族晋の衣冠制である。敦煌や酒泉では、魏晋十六国時代の墓の壁画に描かれた衣冠に似ているという。
敦煌莫高窟に現存する最古の窟の一つは、どうやら漢族が奉献したもののよう。前漢の武帝がシルクロードを拓いて以来、敦煌は漢族の町だったので、漢族がこの窟を開鑿したとしても不思議ではない。
敦煌莫高窟268窟西壁如来交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より |
『北魏仏教造像史の研究』は、如来交脚像は袈裟を偏袒右肩に着けるが、インドの偏袒右肩と異なり、右肩に衣を少しずつ懸ける形は、炳霊寺第169窟の如来像に見られる特徴(涼州式偏袒右肩)と共通するという。
如来の右腕が失われているのは残念だが、右肩から腕に浅く懸かる大衣の縁が腕の裏側から、ぐるりと脇腹に回り、それが腹部と胸部を斜めに交差して左肩に懸かる様子がよく表されている。
涼州式偏袒右肩という点で、169窟6龕の如来坐像から中国風に変化していく様子が分かる如来坐像である。この図版では着衣の衣文線が見えない。
ただ、私には頭部が北涼や北魏風ではないように思える。石松氏は後補とは指摘されていないのだが。
272窟
『北魏仏教造像史の研究』は、方形のプランで、奥壁に塑像の如来倚坐像(頭部は補作)と多数の供養菩薩像の壁画という。
如来倚像
本像は右肘まで残っているので、右肩から腕へと懸かる大衣は肘下から左肩へと上がり、その衣端は左肩から腕にかけて、折畳文をつくりながら垂れている様子が表現されている。
しかしながら、見方を変えると、通肩に着ていた大衣をぐっとゆるめて胸をはだけ、右腕を出しているとも解釈できる。内着の僧祇支は団花文のよう。
また、アーチ形龕頂部には、天蓋が四半球の形に合わせて描かれている。
左肩に懸かる衣端が折畳文になっているのも特徴的だが、左手から垂下する大衣の衣端がひらひらとしていて、その着衣の薄さの表現は169窟7龕の如来立像に近い。
しかしながら、身体に密着した大衣のU字形衣文線は凸線で表されるのは、敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像と共通する特徴である。
じっくり見ると奇妙な着衣表現の本像が、272窟の衣文線を真似たのかも。
如来説法図 側壁
『北魏仏教造像史の研究』は、左右壁は如来坐像の説法図を描くという。
肉髻がなく、涼州式偏袒右肩の大衣を極端にはだけているが、これは炳霊寺石窟169窟6龕(西秦)の如来坐像に似る。ただ、6龕の如来坐像は禅定印を結ぶのに対し、本像は施無畏与願印にも見えるが、右手は胸前に挙げ、左手は衣端を握っているのだろう。
このような手の表現は、炳霊寺石窟169窟の西秦像では立像にみられる。
脚部の張り出しの少ない如来坐像である。
坐像としては右手が残っていないので断定できないが、20龕の五如来坐像のうち、窟口から2番目の如来坐像が左手で衣端を握っている。
268窟と272窟にも炳霊寺石窟169窟(西秦)の如来像の特徴が見られ、それが変化せずに採用されている。北涼時代としても良いのではないだろうか。
関連項目
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「敦煌への道上 西域道編」 石嘉福・東山健吾 1995棊年 日本放送出版協会
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社
「獅子 王権と魔除けのシンボル」 荒俣宏・大村次郷 2000年 集英社