雲崗石窟の20窟は太武帝の廃仏後、最初に造られた仏像である。
『中国の仏教美術』は、いわゆる西方式といわれ右肩を袒(かたぬ)ぐ偏袒右肩(へんたんうけん)式だが、右肩先に大衣の端がかかっており、このかたちは、多く河西回廊の涼州地域にみられるので、涼州式偏袒右肩と称されるという。
涼州式偏袒右肩は私もずっと右肩にだけ大衣の端がペロッとかかっているのだと思っていた。向きを変えて右腕を眺めると、ジグザグの衣端は肘まで続いていて、後は状態が良くないが、腕の下側に回っていたのに、見学した時は気付かなかった。
また、麦積山石窟の78窟正壁如来坐像も涼州式偏袒右肩だ。
『天水麦積山』は、高い肉髻、顔は四角く鼻は真っ直ぐ、目は前を向く。体は健康的で偏袒右肩の衣を着ける。衣文は不規則な平行線が陰刻される。結跏趺坐し、説法印を結ぶという。
しかし、右肩に現れた大衣は右腕を覆うようにして、首の左側から出たものと胸前で結ばれている。実際にどうなっているのか、頭に描けないのだが、涼州式偏袒右肩というものは、大衣が右肩だけにかかるのではないことが、この像で分かった。
西壁の如来は落下した頭部が継がれている。手は78窟正壁西壁と同じ定印だったのだろう。結跏趺坐した脚部と台座の境目がわからない造像こそがこの時代の特徴になるのかな😊
とはいえ、このような涼州式偏袒右肩は、今までにも見ているはずなのに、見えていなかったのだ。
如来坐像 石造 西安市王家巷出土 北魏・和平2年(461) 西安碑林博物館蔵
『北魏仏教造像史の研究』は、太平真君7年(446)太武帝の排仏の詔が発せられ、文成帝が即位するに至って、ようやく仏教復興の詔が発せられた、興安元年(452)12月のことである。
袈裟を涼州風の偏袒右肩に着けており、河北省正定の太平真君元年銘如来坐像が旧来の通肩で表されているのと大きく異なっているという。
マトゥラー仏の偏袒右肩とは異なり、右肩に大衣が懸かるものを涼州式偏袒右肩と呼ぶが、それが仏教復興後間もないこの像に、早くも採り入れられている。
『北魏仏教造像史の研究』は、太平真君7年(446)太武帝の排仏の詔が発せられ、文成帝が即位するに至って、ようやく仏教復興の詔が発せられた、興安元年(452)12月のことである。
袈裟を涼州風の偏袒右肩に着けており、河北省正定の太平真君元年銘如来坐像が旧来の通肩で表されているのと大きく異なっているという。
マトゥラー仏の偏袒右肩とは異なり、右肩に大衣が懸かるものを涼州式偏袒右肩と呼ぶが、それが仏教復興後間もないこの像に、早くも採り入れられている。
二仏並坐像 第12窟前室東壁
見学して以来、偏袒右肩でも、次の様式の双領下垂式でもない、不思議な着衣だと思っていたが、これこそが涼州式偏袒右肩だったのだ。
涼州式偏袒右肩について『北魏仏教造像史の研究』には、興味深い文があった。
涼州造像に見られる特徴は、北魏の平定以降次々と平城に到来したと考えられる。
河北省蔚県発見の太平真君5年(444)銘朱業微如来坐像は、銘記によれば廃仏以前の河北の作品であるが、袈裟を涼州風の偏袒右肩に着けており、同じく太平真君元年銘如来坐像が旧来の通肩で表されているのと大きく異なっている。これは、439年の涼州からの大量徒民によって平城にもたらされた涼州式造像様式が、早くも河北方面へ及び始めていることを示している。
甘粛省の敦煌、酒泉、武威、新疆の吐魯番などから多数出土している石造の経塔は、発願文中に420-430年代の年記を有する作品があり、北涼期の仏教信仰と造像の状況を知る上で、極めて重要かつ確実な作例である。8面に仏龕を設けて7体の如来坐像と1体の菩薩坐像。7体の如来は釈尊までの過去七仏、1体の菩薩は未来の仏陀弥勒であることが、題記からも確認できるという。
高善穆石塔 五胡十六国時代・北涼、承玄元年(428) 高44.6㎝ 蘭州市甘粛省博物館蔵
残念ながら涼州式偏袒右肩の如来の画像はない。
殷氏は14基の石塔の分期を試みている。如来の着衣に着目し、「半偏服飾」「半披肩袈裟」と呼んで、石塔にやおけるこの着衣の出現を434年の白双且石塔以前としている。殷氏が着目したこの着衣形式は、すでに浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と名づけた形式に相当し、筆者も、肩を露出しないという点で着衣の中国的な変化とする見解を提示している。
炳霊寺石窟169窟(西秦時代、420頃)に出現したこの新しい着衣形式が、河西地区では434年頃に現れるとする殷氏の指摘は、この着衣形式の伝播を考える上で重要であるという。
釈迦浄土変 金堂1号壁 飛鳥時代(706-711年) 法隆寺
涼州式偏袒右肩で、じっくり見ると、大衣の黒い裏地(現在)の間から右腕が出ていた。
法隆寺金堂1号壁釈迦浄土変 飛鳥時代 『日本の美術204 飛鳥・奈良絵画』より |
法華堂根本曼荼羅図 麻布着色 縦107.1横143.5㎝ 奈良時代(8世紀) 1911年寄贈 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション
右肩が露出する、クシャーン朝将来の偏袒右肩である。
右肩が露出する、クシャーン朝将来の偏袒右肩である。
法華堂根本曼荼羅図 奈良時代 『ボストン美術館 日本美術の至宝展図録』より |
仏画だけでなく、仏像を調べても、日本で涼州式ではない偏袒右肩の像は、奈良時代になって描かれたり造像されたりしているようだ。
関連項目
参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「麦積山風景名勝 李克強撮影集」 2014年 天水市旅游局
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂編 1983年 至文堂
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK