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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/04/09

麦積山石窟78・74窟 現存最古の仏像


『中国石窟芸術 麦積山』は、現存最古の仏像は、後秦と北魏の時代のものだ。後秦が開鑿を初めて以降、北魏、西魏、北周、隋唐と続く。北朝から隋唐期にかけて麦積山の開鑿が盛んに行われた。 
452年、北魏の文成帝が即位し、曇曜が首都平城(現大同)に雲崗石窟を開き、孝文帝の時に雲崗石窟が現在の規模となった。
麦積山石窟は北魏前期窟は雲崗様式を模し、北魏前期の窟は20窟ほど現存し、3期に分かれている。
第1期は文成帝期から孝文帝前半期(452-477)で、51、74、78、90、165などの窟で、主に西崖区中下部にある。
窟内は供養者が礼拝するための小さな空間で、窟頂は穹窿(ヴォールト天井)であるという。
残念ながら、51窟がどこにあるのか分からない。 
麦積山石窟西崖区図 『中国麦積山石窟展図録』より

今まで北魏時代といえば386-534年という期間にしていたが、太武帝の廃仏を失念していた。
『北魏仏教造像史の研究』は、太平真君7年(446)、中国仏教史上初の大規模な仏教弾圧事件へと発展したのである。
詔の内容は、仏塔、仏教経典をことごとく焼き払い、僧はみな生き埋めにせよとの厳しい内容であった。
結局廃仏は6年9ヵ月に及んだ。正平元年(451)には皇太子晃が、翌年3月には太武帝が次々と殺され、晃の拓跋濬(文成帝)が即位するに至って、ようやく仏教復興の詔が発せられた。興安元年(452)のことであるという。
だから仏教美術史で北魏時代は452-534年なのだった😅

第78窟 北魏、隋代重修 塑造 高さ4.5m、幅4.7m、奥行3.0m
『中国石窟芸術』は、0.9mの凹形壇が正壁及び東西壁にあり、如来坐像がそれぞれの上に安置されるという。
『中国麦積山石窟展図録』は、78窟と構造、規模が近似する窟として74・51窟が挙げられるが、51窟は窟全体が清末の改修を被り、造営時の形状はほとんど判別できない。
この窟の上には165窟があり、北宋時代の菩薩像が造られているが、中尊の台座の下には結束のある藤座があり、正壁には北魏前期様式の光背が残っている。藤座の形式から、菩薩交脚像を造っていたことが明らかで、そうすると、上段の165窟は弥勒菩薩、下段の78窟は三世仏を表す1組の窟であることが分かる。弥勒菩薩は兜率天で天人のために説法している姿であり、やがてこの世に下生して成仏し、釈迦の代わりに衆生を済度するのである。下段の78窟の三仏は、ガンダーラ、アフガニスタン等で見られる三仏と同じ内容の過去・現在・未来三世の諸仏を代表する仏陀、すなわち燃灯仏・釈迦仏・弥勒仏を意味しているという。
如来は大衣を偏袒右肩に着るが、涼州式では右肩にかかるだけなのに対し、大衣を両肩にまとい、右腕を大衣の端から出して、大衣の端は左肩に掛けている。
左半身にかかる大衣は体に密着し、衣褶も多い。薄い布を表現しているのだろうが、あまりにも線が多い。
こういう点が北魏前半の着衣の特徴だろう。
麦積山石窟78窟正壁及び西壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

正壁如来坐像 高さ3.25m
『天水麦積山』は、高い肉髻、顔は四角く鼻は真っ直ぐ、目は前を向く。体は健康的で偏袒右肩の衣を着ける。衣文は不規則な平行線が陰刻される。結跏趺坐し、説法印を結ぶという。
大衣の衣褶は流れる水のようでもある。大衣は左肩から左胸部、そして腹部全体から両膝にかけて広がり、結跏趺坐した脚部を覆う。ジグザグの衣端は少し見られる程度で、内側の衣端は車襞のように重なっている。
膝下はすぼまって、密着した着衣の裾は蓮華座に垂れているのだろうか。土壇の上に台座もなく安置されているようにも見える。
麦積山石窟78窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

『中国石窟芸術』は、高く、波のような文様の肉髻、四角い顔は鼻が高く目がくぼんでいるという。
細い線で水の流れに渦巻もありそうな肉髻の髪の筋👀
ガンダーラ仏に似た容貌の古式金銅仏ほどではないと思うが🤔
麦積山石窟78窟正壁如来頭部 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁両脇侍菩薩像
右脇侍菩薩像(隋代、581-618)と左脇侍菩薩像(北魏)では、容貌が全然違う。
麦積山石窟78窟正壁脇侍菩薩像 北魏・隋代重修 『中国石窟 天水麦積山』より

正壁左右小龕 高さ0.6m、幅0.7m
『中国麦積山石窟展図録』は、窟正壁脇侍菩薩の上部にそれぞれ1小龕を開き、右龕に菩薩交脚像、左龕に菩薩半跏像を一対にして置いている。このように龕中に2つの小龕を造る構成は、麦積山石窟の初期窟にのみ見られ、6世紀になると無くなるが、興味深いことはガンダーラ出土の石彫仏三尊像の構成に先例があることが指摘されているという。
麦積山石窟78窟正壁小龕 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

西壁如来坐像 高さ3.18m
『天水麦積山』は、禅定印を結び、脇侍菩薩はない。東壁如来坐像は壊れたという。
顔貌は正壁如来坐像とは異なっているように感じる。腹部前で禅定印を結ぶ手は大きく、体形は太っても痩せてもいない。
気になる台座は分からない。蓮華座ではなさそうだ。
麦積山石窟78窟左壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

『中国石窟芸術』は、肉髻の水波文はガンダーラの写実的な造像に、図案化され変化したものであるという。
正壁如来の水波文は渦巻状のものもみられ、もっと凝っているが、左如来のものは様式化されてしまっている。
また、正壁の如来がややうつむき加減なのに対し、この如来は正面を見据えて、黒目も彫り出されている。そのせいか、それとも意図したものか、相貌は東アジア的である。
麦積山石窟78窟左壁如来頭部 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

左如来坐像の頭光と身光に化仏が並んでいる。
麦積山石窟78窟正壁と西壁の如来頭部 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

『天水麦積山』は、仏像の風格は雲崗石窟の曇曜五窟とよく似ていて、同時期の造像である。土壇の下方には仏伝図が描かれ、供養者が記されている。この窟の仏像と壁画を奉献した人物は、北魏の仇池鎮の時期で、孝文帝が太和12年(488)仇池鎮を廃止した際にこの窟の開鑿を始めた。窟内の造像は最も早い。現存最古の窟とする研究者もいるという。

供養者図 高さ0.55m、幅1.5m
上下2段に16人ずつ男性の供養者が描かれる。
麦積山石窟78窟西面土壇供養者図 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

『天水麦積山』は、包巾帽を被り、襟を合わせた筒袖の長い上着、腰にベルトを締め、裾がすぼまるズボンに先の尖った革靴をはく。供養者毎に氏名が記された。そこには「仇池氏族が供養者として修復した」という文もみえるという。
後仇池(385-442)は氐族。
『五胡十六国』は、前秦の弱体化後、甘粛省南部で自立した勢力に後仇池がある。385年に苻堅が後秦の姚萇に殺されると楊定は隴右に逃れ、さらに11月には歴城(甘粛省西和県)に移って氐族・漢族の人々を糾合し、平羌校尉・仇池公を称して自立した。
楊盛は398年には北魏に朝貢して仇池王とされた。
442年、難当は仇池をすてて北魏に亡命した後仇池はここに滅亡したのである。443年に仇池も北魏によって平定された。ただ仇池の氐族はその後もときとして自立し、南北両朝の対立の間で勢力を保ちながら6世紀末まで集団を維持するのであるという。
麦積山石窟78窟土壇西面供養者図 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

『中国麦積山石窟展図録』は、1978年窟内の堆積物の中から発掘したもの。画面は共に変色は少なく、新しく描かれたようであるが、惜しくもこの残欠だけが残っている。
周壁に描かれたものがいつか落ちたのだろうが、伎楽天の様式から北魏時代後期の遺品であることが分かる。麦積山石窟で最も古い第78窟は造営後何回か補修を受けていたことが推定されるという。

壁画残欠1 火頭明王と供養者 北周-隋 高さ0.40m、幅0.60m、厚さ0.45m 天水麦積山石窟芸術研究所蔵
『天水麦積山』は、火頭明王、天王、比丘、居士などが描かれる。背景は赤で、鮮やかな色彩が保たれているという。
麦積山石窟78窟壁画断片 北周-隋 『中国石窟 天水麦積山』より

壁画残欠2 北周-隋 高さ0.48m、幅0.40m
『中国麦積山石窟展図録』は、手に弦楽器を持ち、裙と飄帯を翻し、膝を曲げて飛翔する姿は、龍門期の伎楽天の形と一致する。という。
書物によって、隋代(557-581)、北周-隋(535-581)、北魏後期(6世紀前半)と時代の判定が様々。

麦積山石窟78窟壁画断片 北周-隋 『中国石窟 天水麦積山』より

『天水麦積山』は、74窟と78窟は近くにあり、規模も同じくらいで、窟の造りも造像様式も似ているので、一組の双窟とされるという。

第74窟 西・正・東壁の三如来像
麦積山石窟74窟三世仏と脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より

正壁一仏二菩薩像 北魏、如来頭部のみ清代重修
麦積山石窟74窟正壁一仏二菩薩像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

如来坐像
清代の人は良かれと思ってこのような顔にしたのだろうが、北魏の雰囲気が損なわれてしまつて残念😢
麦積山石窟74窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

西壁の如来は落下した頭部が継がれている。手は78窟正壁西壁と同じ定印だったのだろう。結跏趺坐した脚部と台座の境目がわからない造像こそがこの時代の特徴になるのかな😊
麦積山石窟74窟西壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

そしてその横顔。やはり高い肉髻は、74窟西壁の如来と同じような、様式化された水波文が細く、浅く彫り込まれている。
麦積山石窟74窟左壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

正壁左右の小龕
西側は交脚菩薩像、東側は菩薩思惟像と、これも74窟と同じ構成である。
麦積山石窟74窟正壁上部小龕 西交脚菩薩像、東菩薩思惟像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

正壁両脇侍菩薩像
『天水麦積山』は、保存状態は良い。宝冠を被り、項圏、瓔珞、上半身は裸、右側に袈裟が懸かるという。
確かにジグザグの衣端が右腕の外側にあるのだが、身に付けているようには見えない。菩薩に袈裟が懸かるというのはどういうことなのだろう。
麦積山石窟74窟正壁両脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

このように麦積山石窟の早期窟を見ていると、偏袒右肩のことが気になってきた。


関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「麦積山風景名勝 李克強撮影集」 2014年 天水市旅游局
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国麦積山石窟展図録 シルクロードに栄えた仏たち」 東山健吾監修 1992年 日本経済新聞社