お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
ラベル 柿蔕文・四葉文 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 柿蔕文・四葉文 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016/08/30

中国の古鏡展5 秦時代の鏡の地文様は繊細


今回根津美術館で開催された「中国の古鏡展」では秦時代になると地文の繊細さが際立っていた。
同展図録は、非常に細い直線や渦巻線と小珠点とを組み合わせた地文をもち、そのうえに 様々な文様を載せる。戦国時代中頃から散見し、秦時代から前漢時代初頭にかけて地文のパターンが緻密でかつヴァリエーション豊かになる。地文の上に載る主文様も精緻でかつシャープな表現をとるものが多いという。
地文は驚くほど精密につくられているが、非常に浅浮彫のため、主文様を邪魔しない。

細文地四鳳鏡 秦時代(前221-206年) 径11.2㎝重104g
極細線であらわされた鉤連雷文のなかを小珠点で埋め尽くし、その隙間に極細線の渦巻文を並べた地文をもつという。
浅い地文だが、鉤連雷文の線、その中に規則的に並ぶ小珠点と渦文。そして渦文と渦文の間には、Z字形のようなものが。これは渦雷文と呼ばれる円形渦の左右に三角渦を組み合わせた地文(同展図録より)という完成された文様になっていく、前段階のものかも。

細文地龍鳳文鏡 秦時代 径14.0㎝重200g
極細線で菱形に区画されたなかに渦巻や小珠点を充填した地文をもつという。

菱形の区画は割合に大きなもので、中央に大きな渦巻が4つあり、そこから小さな渦巻が2つ出ているもの、一つだけのものなど一定していない。大小の渦巻の隙間を小珠点が埋めている。
この区画は、ひょっとすると鉤連雷文を簡略化したもの?

細文地狩猟文鏡 秦時代 径22.1㎝重104g
細文地龍鳳文鏡と同じスタイルの地文をもつという。
龍鳳文鏡よりも大きいので、地文が小さく見えるのだろうか。

では、この鏡の制作時期はどうだろう。

渦雷文地四葉文鏡 戦国時代末-前漢時代初頭(前3世紀) 径11.8㎝重130g
同書は、円形渦の左右に三角渦を組み合わせた渦雷文をすき間なく並べた地文をもつ。 地文はブロック状の原型(スタンプ)を鋳型に押し当てる方法で施文されており、羽状獣文地や細文地と同じ技術系譜にある。戦国時代末から秦時代頃に出現し 前漢時代前期にかけて流行した。本鏡は大柄な円形鈕座の外周に四葉を配するだけの簡素なもので、地文の状況がよく確認できるという。
渦雷文が完成された文様となっている点、そして地文が大きくて秦時代の繊細さに欠ける点などから、秦時代よりも後、前漢時代に入ってからの作品のように思う。






※参考文献
「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 根津美術館学芸部編 2011 根津美術館

2016/08/12

中国の古鏡展3 羽状獣文から渦雷文、そして雷文へ


「羽状獣文」について『中国の古鏡展図録』は、羽状獣文は青銅祭器の文様として発達した龍形文様の羽状飾だけを強調した文様である。これを30㎜X15㎜くらいの長方形区画にまとめて縦横に並べている。鋳型への施文は基本的に原型(スタンプ)で地文をつくり、さらにその上に主文様を載せる。このような羽状獣文地をもつ鏡が前4世紀~前3世紀にかけて長江中流域を中心に大流行したという。

羽状獣文地五山字文鏡 戦国時代(前3世紀) 径18.7㎝重600g
龍の羽状飾一部分だけの文様もあれば、頭部や胴部の見られる箇所もある。いや、もはやこれは龍ではなく、正体不明の獣だろうか。長い口から首、背中にかけて、小珠点を並べた列点文がみられる。

羽状獣文地四山字文方鏡 戦国時代(前3世紀)
波文のようでもある。その隙間に、列点文が入り込んでいるようにも見えるが、これが獣の体なのだろう。


羽状獣文地四獣鏡 戦国時代(前3世紀) 径16.4㎝重329g
同書は、大きな円圏鈕座のまわりを4体の禽獣が旋回する。羽状獣文地の上に凸線で輪郭だけをあらわす。文様はいくつかのヴァリエーションがあるが、いずれも尾が雲気状に発達しながら長く伸びるという特徴を持つという。
禽獣の凸線ははっきりしているが、地文は上の2点と比べると浅いのではっきりとはわからない。
同書は、胴や尾が雲気状に発達する表現は、戦国時代末から前漢時代初頭にかけて流行したスタイルで、秦時代に発達した細文地獣文鏡や蟠螭文鏡などに受け継がれていった。製作時期は山字文鏡や花菱文鏡よりもやや遅れると考えられている。羽状獣鏡をもつ鏡としては最も新しい時期の作品である。
発達した牙をもった尾長の獣4頭で文様を構成する。獣は自身の尾を銜えている。このスタイルの文様のなかで最も流行したタイプであるという。
地文がわかりにくいのは、禽獣の体が無文なので、そこが地文が途切れてなくなっているように感じるからでもあるのだろう。
これくらい拡大すると、細い線と複雑な羽状文が浮かんでくる。
禽獣の尾は、文様の1単位の半分でもよいくらいなのに、∞字状に長々と伸び、しかも草文のように葉状のものがついたり、蔓が出たりしている。ケルトの動物を見ているようだ。

羽状文地葉文方鏡 戦国時代(前3世紀) 辺長8.5㎝重120g
同書は、羽状文を地文として、その上に葉文を配置した簡素な方形鏡である。羽状文は先端を丸めた羽根を正方形にまとめ、それを縦横に並べた単純な構造をとる。羽状獣文をより簡略化したものである。縦2個横4個を基本単位とする長方形のスタンプによって鋳型に施文されており、羽状獣文地と同じ施文技法をとっているが、全体にやや粗雑で鈍い仕上がりの印象を与えるという。
この方鏡の地文は極めてはっきりしている。一房の巻毛か高い波のよう。獣の体を表した列点文は全くみられない。
葉文は方形の鈕座の各角に、そして外の区画からは、2つの葉文の間に一つの葉文がくるように配されている。

細文地四鳳鏡 秦時代(前221-206年) 径11.2㎝重104g
同書は、非常に細い直線や渦巻線と小珠点とを組み合わせた地文をもち、そのうえに様々な文様を載せる。戦国時代中頃から散見し、秦時代から前漢時代初頭にかけて地文のパターンが緻密でかつヴァリエーション豊かになる。地文の上に載る主文様も精緻でかつシャープな表現をとるものが多い。
極細線であらわされた鉤連雷文のなかを小珠点で埋め尽くし、その隙間に極細線の渦巻文を並べた地文をもつ。方形鈕座の四隅に尾を高く振り上げた鳳が留まる。鳳の隣には大柄な菱文を入れているという。
浅い地文だが、鉤連雷文の線、その中に規則的に並ぶ小珠点、渦文がはっきりと鋳出されている。

渦雷文地四葉文鏡 戦国時代末-前漢時代初頭(前3世紀) 径11.8㎝重130g
同書は、円形渦の左右に三角渦を組み合わせた渦雷文をすき間なく並べた地文をもつ。地文はブロック状の原型(スタンプ)を鋳型に押し当てる方法で施文されており、羽状獣文地や細文地と同じ技術系譜にある。戦国時代末から秦時代頃に出現し前漢時代前期にかけて流行した。本鏡は大柄な円形鈕座の外周に四葉を配するだけの簡素なもので、地文の状況がよく確認できるという。
四葉文は柿蔕文を小さく表したもののよう。久しぶりに柿蔕文を見た。柿蔕文についてはこちら
渦雷文とはこのような渦の組み合わせ文様をいうのか。これは秦時代の細文地四鳳鏡にもすでに出現している文様だが、この文様だけで地を埋め尽くすということは秦時代にはなかったかも。

八弧蟠螭文鏡 前漢時代(前2世紀) 径19.7㎝重567g
同書は、渦雷文地のうえに数体の蟠螭文が鈕座のまわりを旋回するタイプの鏡である。蟠螭文は龍形文様の一種で、口を大きく開き2足あるいは4足をつけた細長い胴体をくねらせる。胴のくねらせ方はヴァリエーションに富んでいるが、胴体が左右に大きく展開するタイプが多い。とくに長江中流域の戦国時代末から秦時代にかけて多く見られ、引き続き前漢時代前期に大流行した。
円圏鈕座のまわりを幅広の連弧文がめぐる。連弧文は半円を内向きに8個連ねる。渦雷文地にこのような連弧文のみをあらわした鏡が、戦国時代末から前漢時代初頭にかけて製作されたが、本鏡はさらにその連弧に分断されるような形で蟠螭文を4体あらわす。連弧の外縁側に口を開いた龍頭をおき、それから4足を付けた胴体が、連弧をくぐりながら鈕座側に伸び、さらに隣の連弧外縁側へと展開する。蟠螭文はいずれも輪郭がシャープで渦雷文地も細密にあらわされており、極めて出来の良い作品であるという。
これまでみてきた古鏡では、地文は凸線で表されてきたが、この鏡では陰刻となっている。地文は渦雷文のみ。

方格規矩蟠螭文鏡 前漢時代(前2世紀) 径16.3㎝重420g
同書は、中央にある方格の各辺にT字形文、その対面にL字形文方格対角方向にV字形文を配した方格規矩文と蟠螭文とを組み合わせた渦雷文地鏡である。鈕の周りを2頭の龍が旋回し、その外側に方格銘文帯がある。T字形文とL字形文とで区画されたなかに蟠螭文があらわされているという。
このタイプの鏡はこれま数多く確認されているが、地文が不鮮明で粗雑な仕上がりのものが多い。そのなかにあって本鏡は地文が鮮明で鋳上がりも優れているという。
その鮮明な地文は渦雷文だが、丸い渦と2つの小さな三角形からなる渦の組み合わせとはまた異なった配列のように見える。

雷文鏡 前漢時代(前2世紀) 径16.3㎝重466g
同書は、正方形に区切られたなかにL字状の雷文を縦横に並べる。戦国鏡にみられた羽状獣文の退化形態あるいは模倣と考えられるが、鋳型にスタンプで施文せず直接文様を彫刻している。鈕座は扁平で先端が鋭く尖る四葉であらわされる。いずれも前漢時代中頃に出現した新しいスタイルである。従来の伝統的な要素を遺しながらも、新しいスタイルへ移行しようとする過渡的な様式の鏡であるという。
四葉文は柿蔕文で良いのでは。柿蔕文は戦国時代前期(前5-4世紀)からある文様だが、このように鈕を取り巻くということが新しいのだろう。
雷文は繋がらずそれぞれ独立している。ギリシア雷文とも異なる起源から生まれた文様。

羽状獣文から渦雷文、そして雷文へと変遷していったということになる。


   中国の古鏡展2 「山」の字形← →中国の古鏡展4 松皮菱風の文様(杯文)

関連項目
柿蔕文?四葉文?2
ギリシア雷文
中国の古鏡展5 秦時代の鏡の地文様は繊細
中国の古鏡展1 唐時代にみごとな粒金細工の鏡

※参考文献
「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 根津美術館学芸部編 2011 根津美術館
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館

2012/06/19

傾斜のある木棺2



契丹展で出品されていた木棺に傾斜があった。『契丹展図録』は、古くは三燕や北魏時代のものなど、鮮卑貴族の棺にも例があるという。
北魏時の棺にはゆるい傾斜がある。しかし、石製で細かい線刻画が施されていた。

石棺 仙人騎龍・騎虎図 北魏(6世紀前半) 河南省洛陽市出土 高68.0㎝長224.0㎝ 洛陽古代芸術館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、1977年発見当時、墓室等はすでに破壊されていたが、墓道は南向き、棺の頭部は西向きの当初の状態を保っていた。蓋、底材、四方の周壁の6材でできているという。
蓋がどんなものかわからないが、敦煌莫高窟の壁画に描かれた棺同様、棺側板は枕元が足元よりも高くなっている。
平たい蓋がのせられていたのだろうかか、それとも丸みのある蓋だったのだろうか。
石棺 孝子図 北魏、正光5年(524) 高約67.5㎝長約223㎝ ミネアポリス美術館蔵
こちらの方が側板の傾斜がきつい。
石棺の枕元側と足元側がやや丸く盛り上がっている。唐時代の舎利容器ほどではないが、わずかに丸みのある蓋が載せられていたことが推測される。
蓋は一枚石か、契丹の棺蓋のように数枚の長い石板を並べたのだろう。
五胡十六国時代の北燕(鮮卑化した漢族)でも片流れ型の棺があった。

木棺 馮素弗墓出土 遼寧省北票市西官営子 北燕、太平7年(415)
『三燕文物精粋』は、十六国時期の北燕の官僚貴族である馮素弗とその妻の墓で、年代が明らかな北燕の墓である。馮素弗は北燕の天王である馮跋の弟で、本人もまた大司馬で、地位はきわめて高く、墓から出土した遺物は豊富で、三燕時期のきわめて重要な墓のひとつである。
槨室の内壁には一面に石灰を塗り、その上に壁画を描く。埋葬具は柏材を用いた彩色画のある棺で、すでに腐朽して完全ではないが、もとは槨室の中央に置いてあり、形と構造は前が高く広く、後が低く狭い。棺両側の下部には、それぞれ2個の鉄製柿蔕形舗首の遊環が付いており、遊環と舗首板はともに金貼である。棺の表面には赤漆を塗って、彩色画を施すという。
馮素弗墓から出土したものはたくさんあったと記憶しているが、今まで採り上げたものは金糸金粒嵌玉蝉文飾だけだった。
こちらも棺の側板自体に高低差があり、正光5年銘の石棺と同じくらいの角度だ。屋根は失われているらしく、平たかったか丸かったかを知ることができない。
その前の西晋時代(280-316年)の木棺はどうだろう。

女性墓主葬具 敦煌仏爺廟湾M37号墓出土 
『敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓』は簡体中国語のため本文は全く分からないが、「傾斜」とか「高低」というような文字は見当たらない。
側板は一枚板ではなく、数枚を組み合わせて作られていて、傾斜はなさそうだ。棺の蓋が棺自体よりも出っ張っていて不思議な形をしている。
下部の方が上部よりも広く、台形になっているが、傾斜はないようだ。
雲気文木棺 楼蘭故城北方地区古墓出土 漢~晋時代(2-4世紀) 新疆文物考古研究所蔵
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、被葬者を特定する資料に欠けるが、漢文化の系譜に連なる棺の作風からみると、当時、この地に進出していた漢人を埋葬したのかも知れないという。
傾斜もなく、平たい、形としては簡素な木棺で、他には見られない足がついている。
傾斜のある棺の起源がインドだというが、インドからシルクロードのメインルートには見られない。草原の道を通って北燕にこのような棺の形が伝播したのだろうか。
つづく

「草原の王朝 契丹展図録」2011年 九州国立博物館
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」2002年 NHK
「三燕文物精粋」2004年 奈良文化財研究所
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」2000年 小学館
「敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓」甘粛省文物考古研究所 戴春陽編 1998年 文物出版社

2008/11/21

中国の古墓にもラテルネンデッケはなかった


高句麗の安岳3号墳の墓主冬壽(357年没)の出身地は中国遼寧省蓋平県という(「高句麗壁画古墳展図録」より)ので、中国の古墓にラテルネンデッケ(三角隅持送り天井)が用いられているか調べてみたが、見つけることはできなかった。

当時の中国の墳墓はどのようなものだったのだろうか。
『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、後漢末、激しい盗掘が、伝統的な倫理観だけでなく、社会上層の厚葬風習にも大きな影響を与えた。しかも、長い戦争の中で、国の財政は疲弊し、首都洛陽中心にした中原地域では、壁画墓の造営がほぼ停止状態となった。
建安10年(205)11月に、天下統一を志した曹操が厚葬を禁止する命令を発布。建安25年(220)に曹操が死んだ時には平服で斂葬され
たと、『三国志』の主人公の1人、曹操について述べている。そして、220年、曹操の息子操丕(そうひ)が禅譲の形で後漢王朝を滅ぼし、黄河流域を支配した曹魏王朝の初代皇帝、魏の文帝となった。曹丕は、父の遺志に従い、厳しく薄葬政策を採り続けた。確かに、漢時代の古墓と比べて、曹魏時代には贅沢な墓葬の例は殆どなかった。それは曹氏父子の提唱した薄葬の結果ではないかという。
265年に魏は権臣司馬氏に滅ぼされたが、薄葬の伝統は次の晋王朝にも受け継がれたようである。『晋書』巻83江逌伝(こうゆうでん)によれば、東晋の康帝まで、山陵には瓦器しか副葬しなかったようだという。
魏晋の薄葬風習の中で、中原と関中地域では壁画墓が衰退し、陵墓の造営を管理する役所や工房に所属した工人たちは、戦乱で都から離れた地域へ避難した。それにより、遼東地域や河西地域では、壁画墓の造営が後漢より盛んになったという。
このような時代に、中原はともかく冬壽の故郷の遼東地域でもラテルネンデッケの古墓はない。 では、安岳3号墳は高句麗の流れをくむのだろうか。安岳3号墳の墓室構造図を見ると、天井がラテルネンデッケ(三角隅持送り天井)というだけでなく、回廊が巡っていたり、列柱があったりと、高句麗のそれまでの古墳にはない特徴がある。
『高句麗の歴史と遺跡』 は、遼河流域における漢から北魏にかけての墓制を類型化している。それによると、列柱は後漢にはすでに現れている。同時期には槨室の前に前廊があるが、列柱は前廊から直角に出ている(第1類型)が、それが中国起源のものか、シルクロードを経由して伝わったものかわからない。
その後、後漢後半には前廊の片側に列柱が並ぶようになる(第3類型)。あいにく遼東地域の同時期の古墓の平面図がないので、河南省の南陽漢墓で墓室の回廊を見ると、

馮君孺久墓 河南省南陽市唐河県(湖北省に隣接) 王莽代の始建国天鳳5年(後18)没  
地域性のためか、列柱がないなど様式は異なるが、馮君の棺が安置された後室の周りを回廊がまわっている。葬儀が内部で行われたのだろうか。 他にも安岳3号墳と共通するものを見つけた。

打虎亭漢墓 河南省密県(黄河の40㎞ほど南、嵩山の20㎞東) 後漢末期(2世紀末~3世紀初)
『世界の大遺跡9古代中国の遺産』は、中室天井に描かれた蓮華文。蓮華は仏教との関係が強く、この文様も西域からの仏教伝来とともに採用された可能性がなくもないが、むしろ中国に伝統的に存在した文様と考えるのが妥当であろう。すなわち花を上からみたモチーフは殷代から存在し、漢代にはさまざまな器物に応用されたのである。とくに光の象徴として四葉文が鏡の鈕座や乳などに用いられることからすれば、この蓮華文も墓室を明るくする意図から天井に描かれたと考えられるという。
ヴォールト(円筒)天井に表された蓮華は、4世紀後半の安岳3号墳奧室や5世紀末の双楹塚奧室のラテルネンデッケ天井の頂石にも描かれている。
話はそれるが、四葉文が光の象徴とは知らなかった。四葉文というのは、柿蔕文(していもん)の変形かと思っていた。『中国古代の暮らしと夢展図録』は、柿蔕は中国語の発音「事」や「世」と似ており、吉祥の意味を持つため、漢代またそれ以降もよく装飾に用いられたというので、四葉文の方がずっと古くからあった文様だったのだ。  では、中国で一般的な墳墓の天井はどんな形か。

和林格爾(ホリンゴール)漢墓 内蒙古自治区和林格爾県新店子 後漢末(後160年前後)
『世界の大遺跡9古代中国の遺産』は、甬道・前室・中室・後室が一直線に並び、前室に2室、中室に1室の耳室が付くという。各室は伏斗式という、中国の斗(ます)を伏せたような形で、頂部は四角くなっている。そして、各室をつなぐ甬道はヴォールト(円筒)天井となっている。  敦煌郊外の墓地で見学した西晋墓(265-316年)もこんなに立派ではなかったが、やっぱり伏斗式の天井だった。また、トルファン郊外のアスターナ古墓群で見学した唐時代の墓室はもっと質素なものだったが、やっぱり伏斗式天井だった。
いったい安岳3号墳のラテルネンデッケ天井はどこからきたものなのだろう。

※柿蔕文・四葉文についてはこちら

※参考文献
「高句麗の歴史と遺跡」(監修森浩一 1995年 中央公論社)
「高句麗壁画古墳展図録」(監修早乙女雅博 2005年 社団法人共同通信社)
「魏晋南北朝壁画墓の世界」(蘇哲 2007年 白帝社)
「世界の大遺跡9 古代中国の遺産」(監修江上波夫1988年 講談社) 
「中国古代の暮らしと夢展図録」(2005-2006年 岡山市立オリエント美術館他) 

2008/01/23

新沢千塚古墳群を巡る1


新沢千塚古墳群を見学するのにどこから入ったら良いのかわからなかったので、とりあえず橿原市千塚資料館の向かい側の駐車場に車を置いた。資料館は閉まっていた。千塚古墳群は歩道橋を渡って行くよう案内があった。
渡ったところにパネルがあるのだが、いくら無料公開といっても、あまりにも何もなさすぎる。そして誰もいない。
近づくとすぐにポコポコと小さな円墳が見えてくる。『海を越えたはるかな交流展図録』の古墳の分布図よりも実際はたくさんあるようで、どこから見ていくのか迷ってしまう。とりあえず階段を上っていった。 左側に173号墳と178号墳があるはずと道をはずれる。落ち葉が積もっていてどれが本来の通路なのかわからない。
分布図と照らし合わせて、とりあえず、向こうの大きな円墳が178号墳で、手前の左側が173号墳だろうと思った。178号墳は同図録によると、26x24mの円墳、木棺直葬の埋葬施設。棺内遺物はなく、棺外の墓壙西にf字形鏡板付轡と剣菱形杏葉の馬具、そして棺上から転落したような状態で須恵器高杯などがそろって出土した。
供伴の須恵器が6世紀後半に下るため、f字形鏡板と剣菱形杏葉ともに時期の最も下る例になる
という。
分布図で番号のある円墳2つを見たと思って道に戻り、歩いているとパネルがあった。そこには分布図よりも詳しく古墳の番号が記されていた。 それで173号墳は通路に面している円墳で、先ほどのは違っていたことがわかった。173号墳は、同図録によると、半肉彫獣帯鏡を副葬する、5世紀中葉~後半の目立った例で、前方後円墳クラスの主要古墳の副葬品に匹敵する内容であり、この古墳群を性格づける特徴となっているということで、126号墳とほぼ同時期か少し後に築かれた円墳らしい。
獣帯は口縁内側にもあるが彫りが浅く不鮮明である。内側にある獣帯は、7つの柿蔕文の間に龍のような動物が表されているが、それぞれに異なっていて、中には羽人か人間が登場しているものもある。鈕(ちゅう、中央のつまみ)の周りには柿蔕文がなく、周囲に小さいものが7つもあるのは珍しいのではないだろうか。 登り切ってしまえば、ほぼ平たい道となる。振り返るとゴミ焼却場の煙突が見える。この煙突が見えると甚だしくしらけるのだが、自分のいる位置がわかるという利点もある。竹林が古墳に迫っている。最初は1つ1つ墳丘を見ていたが、段々と歩いていくことが主となっていった。 冬なので、木の葉がなくて見通しがよいのだが、針葉樹が現れて、その奥には紅葉の残った木が見えてきた。 途中に道標があり、109号墳と126号墳が示されているのだが、どちらもわかりにくかった。どの墳丘が126号墳なのか、さっぱりわからずに歩いていった。115号墳は同図録によると、126号墳の西に接した径18mほどの円墳で、墳頂部に円筒埴輪輪列が巡り、その中央に箱形木棺を直葬した埋葬施設がある。棺内には、衝角付冑と三角板鋲留短甲の一式をはじめ、五鈴鏡・二神三獣鏡、刀剣、多数のガラス小玉があり、棺外の両側に多くの鉄鏃が置かれていたという。
※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)

2006/10/17

また見つけた四葉文



四葉文としてなら他にも見つかった。福岡平原遺跡出土の「内行花紋鏡」にも四葉文があった。後漢の頃のものらしいが、これは葉っぱには見えない。「日本の美術359号蓮華紋」によると、「内行花紋」というのは、四葉座周囲の8つの内向きの弧線で光芒の表現であると林巳奈夫が説いているらしい。そして、楽浪郡時代の軒丸瓦の中にも四葉文があった。
楽浪郡についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、
楽浪郡(らくろうぐん)は紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域である。郡治(郡役所所在地)は現在の平壌にあった。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の文明化に大きな役割を果たした。 
前漢の武帝が前108年に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,その地に楽浪郡を設置したのが始まりである。同時に真番・臨屯・玄菟の3郡も設置され、漢四郡と呼ばれる。
しかし前82年には真番・臨屯が廃止され,臨屯郡北部の7県は楽浪郡に併合された。玄菟郡も前75年には遼東半島に移転している
という。

この瓦は前漢から晋時代までに製作されたいうことか。これは柿の蔕にも見えないが、葉っぱにも見えないなあ。さらに、正倉院南倉の「銀製の提示」(把手付きの深鉢)は環座に四葉蓮華紋があった。柿の蔕には見えないが、蓮弁とも思えないなあ。しかし、ハート形の猪目がはっきりと表されている。
※参考文献
「日本の美術359号 蓮華紋」1996年 至文堂

2006/10/16

六葉で猪目も


夢ばかりなる日さんの釘隠に似ているかどうかわからないが、日本のもので、四葉ではないものを見つけた。それは大正期の調査で法隆寺五重塔の心礎から出土した舎利具のうち、ガラスの舎利容器を収めた金製の透彫容器で、銀製の透彫容器に収められていた。

下図は金・銀それぞれの調査時の拓本で、立体の卵形の頂部半分である。金製の方は柿蔕文に近いが全面では八葉となる。銀製の方は三つ葉のような形だが、全面では六葉となるもので、猪目があり、かつ四葉ではないものも存在したことがわかる。
製作時期としては、五重塔が完成した和銅4年(711)という、奈良時代の早期ということだ。
実際には下のような形であったらしいが、調査後埋め戻されたので、写真は複製品である。
銀製の方に似たものが見つかった。それは正倉院中倉88「螺鈿箱」の蓋に表された花文であった。
四弁花・五弁花は洋の東西を問わずよく見かけられる文様である。正倉院宝物の中にも六弁花はあるが、たいていは花弁の中央がこの花の花弁のように出ておらず、へこんでいる。
金属製品の中に六葉のものがありそうな気がします。いかがでしょうか、夢ばかりなる日さん。


※参考文献
「日本の美術358号 唐草紋」1996年 至文堂
「日本の美術486号 正倉院宝物の装飾技法」2006年 至文堂