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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/06/02

青銅大鍋はウラルトゥ


装飾付き青銅の大鍋はウラルトゥが原産だった。

人面鳥付き大鍋 ゴルディオン出土 アンカラのアナトリア文明博物館蔵
人面鳥(ギリシア神話ではセイレン)が四方から大鍋の中をのぞき込んでいる。
説明パネルは、ゴルディオンで出土した青銅製の大鍋は、フリギア金属工芸における最も傑出した発見の一つ。これらの丸い胴体の大鍋の縁には、人や動物を模したものが装飾として施されている。
人頭の魔物で装飾された大鍋は、アッシリア美術の影響を示している。これらの大鍋はウラルトゥの大鍋と非常に類似しており、ウラルトゥから請来されたものと考えられるという。
フリギアの金属工芸といいながら、ウラルトゥから請来されたものとしている。

毛髪や翼の細部を細かい彫りで表現しているし、背中に環付きが残っている。


確かによく似た大鍋がウラルトゥの工芸品として展示されていた。

人面鳥付き大鍋 ウラルトゥ アナトリア文明博物館蔵
フリギア時代にゴルディオンから出土した大鍋とほぼ同じ。こちらには環も残っている。

環のついた人面鳥の翼は1枚1枚が丁寧に彫られていて、ゴルディオン出土品よりも緻密な作りである。


もう一つのタイプは牛の頭がついたもので、牛の肢をかたどった三脚にのっていた。


牛頭付き大鍋 前7世紀初 ウラルトゥ、アルトゥンテペ出土 アナトリア文明博物館蔵
同館図録は、4頭の牛の頭がついて典型的ウラルトゥ風に飾られたこの大鍋はフリギア、ギリシア、イタリアに輸出されていたという。

鳥の形の平たい板が留め金で取り付けられているのに牛の頭部とは。鳥の尾や翼の線刻がない。


よく似たものが平山郁夫氏の所蔵品にもある。
牛頭装飾付き大鍋 前8世紀末-7世紀 トルコ、アルトゥンテペ出土 青銅高20㎝口径26㎝ 神奈川県、シルクロード研究所蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、二つの牛頭把手の大鍋はウラルトゥ美術を代表する作品である。大鍋の口縁は外側に反り返っている。
このような丸底の把手付きの鍋は西アジアの調理用鍋の典型的な形で、古くから土製のものが使用されていた。その形をまねて金属で大型に製作し、牡牛の装飾把手をつけたのは、特別な儀式に用いられたためと考えられるという。

『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、本来は牛の脚をかたどった三脚の上に据えられ、径1mに達する大きなものもある。口縁のところには雄牛や鳥、神像などの形をした把手が付けられている。このような青銅鍋はフリュギアやエトルリアでも出土しており、ウラルトゥの文化的影響を示しているという。
大鍋の把手は四つと決まっていた訳でもないようで、この大鍋の把手は二つだけ。取れてしまった跡もない。
シルクロード研究所蔵 アルトゥンテペ出土牛頭装飾付き大鍋 世界美術大全集東洋編16 西アジアより

『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、牛頭はおそらく蠟型技法によって製作され、細かい線刻を加えて額の毛並みや後頭部の毛の流れが表現されている。T字形の基部は三つの鋲で留められ、鳥の翼と尾を表し、線刻で羽根の一筋一筋が刻まれている。力強い牡牛の表情がしっかりとした角、ぴんと張った耳、はっきりと刻んだ目や、鼻の皺からうかがわれる。これは牡牛のもつ力への畏れの現れで、魔除けとしてつけられたのであろうという。
アナトリア文明博物館品よりも鳥の翼や尾の表現が丁寧だけれど、何故牛頭の基部が鳥の翼と尾なのだろう。
シルクロード研究所蔵 アルトゥンテペ出土牛頭装飾付き大鍋部分 ウラルトゥの美術と工芸展図録より


アンカラのアナトリア文明博物館の前6千年紀のチャタルフユックの部屋が再現されていた。部屋の壁面にはたくさんの牛の頭が掛けられていた。古来よりアナトリアでは大きな角を持った牛を畏れ、魔除けとするということが、広く行われていたのだろう。


アナトリアの東部にあったウラルトゥで製作された青銅製鼎あるいは大鍋はギリシアに請来されて、東方化様式というものが生まれたが、ウラルトゥではなかった大きなグリフィンやライオンの頭部が付属するものだった。

大鍋 オリンピア出土 前670年頃 オリンピア考古博物館蔵
『OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS』は、東方の原型を受け継いだライオン頭部、グリフィン、セイレンが周囲を巡るという。
幾何学様式では垂直の把手だったのが、背中に鐶付きのついたセイレンとなる。これはウラルトゥの把手の一種である人面鳥をそのまま受け継いだのではないのかな。

円錐形の台 前8世紀 青銅製 オリンピア考古博物館蔵
同書は、前700年頃からそれまでのギリシア式の鼎に代わって、オリエント直輸入の形式が登場する。比較的平らな釜を円錐形の台脚に載せる着脱式のタイプで、この新型の釜の原産地は主な出土地である東アナトリアのウラルトゥないし中央アナトリアのゴルディオンとも考えられるが、北シリア地方の石造レリーフとの様式上の類似点も多く、詳細はなお不明である。
いずれにせよこのオリエント製の鼎は東方化時代に入ったばかりのギリシア人の想像力を強く刺激したらしい。ギリシアの主な神域であるオリンピアやデルフィ、サモス島のヘライオンで多数の類品が出土し、また幾何学時代最末期のアテネでこの新型の鼎を模した器形の陶器が登場し、あるいはこの釜を描いた後期幾何学式や初期プロト・コリントス式陶器画も存在するという。
その大流行したオリエント様式の鼎の台脚には、行進する有翼精霊の間に、ポリュフェモスの画家が人物の足の間に描いた「一本の木」によく似たものが描かれている。
それは、花というよりも蕾のようなもので、2段ある葉は渦巻いている。


別の鼎の図
この図からは4枚の翼のある4名の上にはザクロの実のようなものが巡り、精霊は左手で松毬状のナツメヤシの雄花のようなものを持ち行進している。翼の下には小さな植物の芽、脚の間にはちょっと成長した植物が、そして精霊の間にはもっと大きくなった植物が表されているが、ギリシアに運ばれたナツメヤシの実を見て、ナツメヤシはこんな風に出来るものと思って描いたのだろうか。実際のナツメヤシは文字通りヤシなので、どんどん高く成長して、雌雄異株で、人が雄株を雌株に包んでいるのを何かの番組で見たことがあるが、干した実(英語ではデーツ)しか知らないギリシア人が、こんなものかと思ってナツメヤシの成長の様子を描いたのではないだろうか。


大鍋 デルフィ出土 前7世紀 デルフィ考古博物館蔵
口縁周辺に突起物が取り付けられた痕跡はないが、背後の想像復元図ではそのようになっている。三脚の台はウラルトゥのものと同じ牛の足なので、造られた時は牛の頭が付いていたのでは。

その想像復元図
(何故かオリンピアの鼎と同じ)
ギリシアで造られた大鍋は牛の頭ではなく、外側を向いた3つのグリフィン頭部と内側を向いた3つのライオン頭部、そしてセイレン型の鐶付が付いてにぎやかになる。
『DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』は、東方様式の奉献品は、新たな鼎のタイプ、おそらく北シリア地域を起源とするものに取って代わった。鎚打ちの大鍋は持ち運ぶことができ、縦溝飾りのある三本の脚に支えられた輪っかに載せた。縁の周りは、牡牛、ライオン、そしてもっとよくあるグリフィンやセイレンのような想像上の動物で飾ったという。
また、幾何学様式時代の鼎の把手は垂直に固定された大きな円形のものだったが、東方化様式の時代になるとそれはなくなってしまう。一見把手はわからないが、一対のセイレンの背中に小さな鐶付(かんつき)があり、そこに小さな輪(鐶)が通してある。
デルフィ考古博物館蔵 デルフィ出土大鍋想像復元図 前7世紀 DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM より 


セイレン 前625-600年頃 青銅製
東方様式の鼎を飾った。東方のモデルに影響を受けたギリシア工房の特徴的な作品。
女性の頭部をした有翼のセイレンは、オデッセイの冒険で知られるセイレンに似ているので、便宜上付けられた名称である。ギリシアの工人たちが東方のものを真似て、自身の作風へと換えていく過程を示している。アーモンド形の目、肉付きのよい頬、だんご鼻をした東方の怪物の顔だちは、強さと生命力のある人物像の表現となったという。
これまでの人面鳥は翼の上に腕が表現されていたが、このセイレンは腕が翼の下にあるみたい。
デルフィ考古博物館蔵 デルフィ出土青銅製大鍋の装飾セイレン 前7世紀 DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM より


脚のとれた大鍋 
残念ながら説明板を写していなかったので、制作年代は不明
他の大鍋が壊れて残った上下を繋いだような形。

翼を広げた鳥形の青銅板が付けられていた。付けるための穴や小さなリベットが残っている。どんな頭部が付いていたのだろう。



イタリア(エトルリア)で出土した大鍋

兵士と動物のレベス(宗教儀式用大釜) 前7世紀 イタリア、パレストリーナ(ローマの東方)、ベルナルディーニの墓出土 銀、鍍金 ローマ、ヴィッラ・ジュリア国立博物館蔵
『世界美術大全集5 古代地中海とローマ』は、外面は上下3段に分割されており、下段は戦車に乗る人物と楯や槍を持つ兵士の行進、中段は騎馬人物と武器を持つ兵士の行進、上段は水鳥が並んでいる。いずれもエジプトのモティーフを手本としているが、細部に曖昧なところがあり、エジプト人の手によるものではないことは確かである。事実、パレストリーナ出土の他の1点にはフェニキア文字でかつての所有者の名前が刻まれている。
銀製の本体に鍍金を施したこの容器がレベスと称されるのは、口縁近くから蛇を模した6本の突起があるためで、宗教儀式における大釜としてギリシアやエトルリアで用いられたという。
外側を向いた6匹の蛇が口縁部を飾っている。
銀に金の鍍金とは、よほど大切な儀式に使用されたのだろう。
ヴィッラ・ジュリア国立博物館蔵兵士と動物のレベス 前7世紀 パレストリーナ、ベルナルディーニの墓出土 世界美術大全集 古代地中海とローマより
 
ウラルトゥ請来の牡牛の頭部や人面鳥の控えめな造形が、ギリシアやエトルリアではこんなにおどろおどろしいライオンやグリフィンの装飾になったとは。




関連記事

参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」2000年 小学館
「DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 DIANA ZAFIROPOULOU 2012年  ATHENS
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON S.A.
世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館

2026/05/05

フリギアのアクロテリオン(頂部装飾)


ミダス記念碑と呼ばれているものは女神マタルを祀るための神殿とされている。
見上げると整然と彫られた幾何学文様の緻密さと、地震で上部が裂けても尚2千数百年間立ち続けているいる頑丈さに敬服する


ペディメントは亀裂が入って鎹で留めてある。残念なことに、頂部の装飾(ギリシア風に言えばアクロテリオン)が分からない。

大きな耳のようなものは何の部分だったのだろう。目だろうか?


幸い同じ地区の裏側にある未完成の記念碑 Bitmemiş Anıt に似たものが残っていた。

アクロテリオンは巨大な目のようなものに口のところが六弁花、その下は円柱のようだが、ペディメントの下部で消失するという不思議な装飾。ミダス記念碑のアクロテリオンもこんなだったのだろうか。



こんな目を何かで見たことがあるような気がした。それはテル・ブラク出土の目の偶像だった。
『世界の博物館18 シリア国立博物館』は、北シリアのハラフ期の遺跡からしばしば発見される目を強調した土偶である。人間は人体の各部のなかでも目を特別に見てきており、眼光によって悪霊を払うことが可能であると考えたこともあるという。
ハラフ期は前6千年紀前半なので古すぎた。
北シリア出土目の土偶 世界の博物館18 シリア国立博物館より


迷路にはまり込んでいたところ、漆喰のことでガラス作家の田上惠美子氏よりメールを戴いた。添付の福井県三国町の旧森田銀行本店の漆喰装飾の写真の1枚にあったイオニア式柱頭を見て解決した。
しかし、イオニア式柱頭については以前にまとめた記事では、前8世紀に現在のシリアとトルコの国境付近の遺跡アルスランタシュ(アスランタシュ)で出土したものがプロト・アイオリス式の渦巻形柱頭に発展してゆく(『世界の博物館18 シリア国立博物館』より)という。
その記事はこちら
それなら、イオニア式柱頭からこのようなアクロテリオン(頂部装飾)ができたのではなく、このようなものがイオニア式柱頭へとなっていったことになるのかな。

ミダス記念碑の下部中央の壁龕
水の流れによる浸食のため下にいくほど風化しているが、上中央には四角い穴がはっきりと残っていて、その真下にはそれより小さな穴が見える。ここに女神マタルが安置されていた。
この二つの穴についてTürkiye Kültür Portalı の MALTAS FRIG ANITI は、壁龕の基部中央にある窪みは、おそらくキュベレの持ち運び可能な像が置かれていたほぞ穴であろうという。
マルタシュの遺跡 Maltaş ören yeri(前8-6世紀)はアスランタシュとユランタシュの遺跡があるギョイニュシュ渓谷 Göynüş vadisi の南方にある。
ここに安置されていた女神マタルも上下で固定された可動式のものだったのだろう。マルタシュの方は背後に井戸があるからだが、ミダス記念碑の方は何もなさそう。ひょっとすると一年に一度の祭儀の時に乗り物に乗せて集落を練り歩いたのかも。


ミダス記念碑では失われた女神マタルだが、別の遺跡から出土したマタルがゴルディオン博物館やアナトリア文明博物館に展示されていた。

母なる女神キュベレ、安山岩 ゴルディオン博物館蔵
GORDION MUSEUM』は、フリギア人の主神は母なる女神であり、碑文では単に「マタル」(母)とされ、時には「キュベレ」という呼称が加えられることもある。古フリギア城塞時代のゴルディオンでマタルが崇拝されていたという証拠はほとんどないが、新城塞の建設と関連して、マタルを表したと思われる石像がいくつか発見されているという。
背後の写真パネルは後に見学したミダス記念碑の、祠上の浮彫を模したものだが、そこに安置されていたマタル像にしては小さい。頭上が失われているのは残念。


同館図録は、マタルは通常、杯を口に当てている姿で描かれている。ある例では、もう一方の手に猛禽類(タカ?ハヤブサ?)を持つという。
小さくて猛禽類には見えないけれど、小鳥を左手で握っているように見える。


キュベレ像 前7世紀 浮彫 安山岩 アンカラ 、バフチェリエヴラーより発見 アナトリア文明博物館蔵
簡素な造形だが屋根のアクロテリオン(頂部飾り)が大きく表されているが、イオニア式柱頭を思い起こすことはない。牛の角と言う方が相応しいかも。

ゴルディオン博物館蔵女神マタル像はこの帽子や着衣に共通点がある。両脇のメアンダー文(ギリシア雷文)のように繋がらない不揃いで素朴な文様も好ましい。


女神マタルと祭祀記念碑 出土地不明 アナトリア文明博物館蔵
説明パネルは、フリギア人は多くの神々を崇拝していたが、人間の姿で描かれた神はただ一人。それは「母」を意味する名を持つ女神「マタル」で、碑文にはマタルはいくつかの属性とともに記されている。キュベレの語源は、おそらくフリギア語で「山」を意味する「キュベレイア」に由来する。フリギアにおけるキュベレーに捧げられた祭祀記念碑は、前9-6世紀にかけてのものという。

ここにミダス記念碑によく似たアクロテリオンがあった。

頂部とペディメントの装飾の左右に六弁花が表されたり、箱状の装飾があるのはヤズルカヤ近辺の未完成の記念碑に共通するが、ペディメントの丸いものとその中央から出ている円柱のようなものはない。そして目玉のように見えるものを囲うものが円になりきらず、草食獣の角のように先が切れている。
ミダス記念碑の近くではこのようなアクロテリオンが共通するもののようだけれど、出土地不明なのが残念。




関連記事

参考サイト
Turkish Archaeological NewsのYazılıkaya - Midas Monument

参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 増田精一・杉村棟 1979年 講談社
「GORDION MUSEUM」 Republic of Turkey Ministry of Culture



2026/04/28

ミダス記念碑の浅浮彫


ミダス記念碑(ヤズルカヤ) Yazılıkaya/Midas Anıtı  前8-6世紀前半
説明パネルは、長方形平面で切妻屋根を持つフリギア時代の住居(メガロン)の正面を岩に彫り込んだもの。フリギア時代の岩窟記念碑の中でも最も壮麗なもの。記念碑の名称は、左上部分の平らな岩盤に刻まれた古フリギア語の碑文にある「ミダイ」という言葉に由来している。しかし、地元の人々は碑文があることから「ヤズルカヤ」(刻まれた岩)と呼んでいる。ここは母なる女神マタルに捧げられた野外神殿という。
メガロンは長方形の建造物で、奥行きの深い広間と、それよりずっと浅い前室またはポーチが前面にある。

昔はこれがファサードで、中央下の開口部から中に入るとアナトリア文明博物館に復元展示されていたミダス王の木槨墓があると勘違いしていた時期があった。


ペディメントが彫り込まれている上の岩の凸部にフリギアの碑文が斜めに刻まれている。

Turkish Archaeological NewsのYazılıkaya - Midas Monumentは、正面の上部には、岩に刻まれた古代フリュギア語の碑文がある。おそらく神官であったアテスという人物が、この記念碑をミダス王に捧げたと記されている。フリュギアにはミダス王の名を冠した王が複数いたため、研究者たちはこの記念碑によって称えられた王を明確に特定できていないという。

左から右へと読むものと思って2段に拡大してみたが、右から左へ書かれているのかも知れない

右端には縦に碑文が刻まれている。上から読むのか下から読むのか・・・
縁の文様帯は斜めの正方形四つの間に正方形という組み合わせが2列に並んでいる。


中央の一辺16mの正方形の平らな面に浅浮彫の幾何学文様が整然と並んでいる。

部分的だが、一番低く彫られた箇所を黄色く塗ると、クロスと四角い点、それらを囲む帯が浮かび上がる。
上から1段目は四角い点、2段目はクロスと四角い点、3段目は四角い点、4段目はクロス、5段目は四角い点、6段目はクロスと四角い点、7段目はクロスと四角い点、8段目は四角い点、9段目は・・・壁龕があるせいか、文様が途切れている。
一段高い帯は迷路にも見えて、ついつい視点の先を追ってしまう。

壁龕右側
ここにはクロスはない。地の文様に注目すると、正方形の2辺が外へ伸びている。これは何を表しているのだろう。凸帯を残すと出来た文様というだけなのだろうか。

左側は風化していて柔らかそうな岩肌がうかがえる。やっぱり凝灰岩だ。




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参考サイト
Turkish Archaeological NewsのYazılıkaya - Midas Monument

参考にしたもの
現地説明パネル


2026/03/31

ゴルディオンに最古の舗床モザイク


ゴルディオン博物館では細かい粒の舗床モザイクが屋外展示されていた。
ⓐMM墓 ⓑコルテIII号墓 ⓒP墓 ⓓ博物館入口 ⓔフリギア時代の舗床モザイク ⓕ展示室 ⓖガラティア時代の墓 ⓗローマ時代の舗床モザイク ⓘミュージアムショップ 


PENN MUSEUM の Expedition Magazineゴルディオンの初期モザイクは、エーゲ海地域でモザイクが初めて作られたのは前5世紀と考えられている。ギリシア最古の小石モザイクは、コリントス、オリュントス、オリンピアで発見され、前5世紀後半-4世紀初頭にかけてのものとされている。これらのモザイクは、様々な色(多くの場合、黒と白)の天然小石を漆喰またはセメントの上に文様状に敷き詰め、固定する。
建物の内室と列柱のあるポーチにあったことが判明した。
この建物は、ゴルディオンの古代集落に属する大きな建造物の南端の二つの部屋を覆うように建てられていた。この集落は、前5世紀半ば直後に発生した地震によって破壊されたと考えられている。敷地は規模は小さかったものの、列柱のあるファサードで装飾され、成形テラコッタの壁面タイルに華やかな彩色が施され、床は小石のモザイクで舗装されていた。
大きな内室の奥にある、モザイクで覆われていない長方形の空間は、かつて何か別のもの、おそらく祭壇、あるいは祭儀用の彫像、あるいは玉座か審判の座が置かれていた場所であったと考えられるという。
見学したときはモノクロームに見えた。


ところで同ページは、モザイクの床を発見したとしても、喜びの声を上げる発掘者はほとんどいない。良心の呵責を感じずに、モザイクを撤去することはできない。特に地層が深い遺跡では、通常、モザイクは撤去されるのが通例だ。モザイクをそのまま残しておけば、より深い掘削が妨げられるだけでなく、保存措置(通常は再び厚い土で覆う)を講じる必要がある。その結果、発掘者は自制の甲斐なく、結局何も残らないことになる。モザイクを掘り出すには多額の費用がかかる可能性があり、訓練を受けた専門家が近くにいることは稀だという。

その後訪れたゴルディオンの都市遺跡の説明パネルに発掘時の写真があった。かなり広い部屋で、中央の丸い箇所に炉があったのだろう。
ミケーネではメガロンという3間続きの宮殿主体部の一番奥の部屋に炉があった。
メガロン2は石造りだが、同様の木造の骨組みが使用されていた。建物の床は、主に幾何学模様の小石モザイクで覆われており、この種の床としては世界最古のものの一つという。

舗床モザイクの図解
ゴルディオン博物館の外に展示されている舗床モザイクはこの一部。
同ページは、幾何学文様のレパートリ、卍や狭間溝、石畳文や菱形、中空の正方形、三角形、砂時計などは、ゴルディオンのブロンズ彫刻、象嵌細工を施した木製家具、そして同時代の彩色陶器にも見受けられる。炉床の上の大きなロゼットは、ブロンズ彫刻に見られる同様のロゼットと同様に、コンパスを用いて円状に配置されていた可能性があるという。
青銅製品は見逃した。


左奥のモザイク 右下に「炉床の上の大きなロゼット」

右奥のモザイク


舗床モザイクはペブル(河石)から、需要の高まりから丸石が不足するようになってテッセラ(切石)へと変わっていった。

ペブルモザイクの例(豹に乗るディオニュソス神 前4世紀末 ペラ、ディオニュソスの館出土)
せいぜい1㎝程度の小さな石を並べて表していると現地で感じたが、

ゴルディオンのメガロン2で発見された舗床モザイクは、ペラのものよりもずっと小さく、丸石ではないが、大きさが揃っているのだった。

右手前


右端中奥


幾何学文様が多いが、そうとも思えないものもあった。石畳文の下のモザイクは何かの動物を表しているようにも見える。
この写真の最下部でテッセラの形が分かる。まるで人の歯のような形。

こんな小石がまとまって採取できる場所が近くにあったのだろう。




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参考サイト
ゴルディオンで発掘調査を続けているペンシルベニア大学のPENN MUSEUM の Expedition Magazineゴルディオンの初期モザイク

参考にしたもの