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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2008/08/30

統一新羅にも右手をあげた誕生仏があった

慶州南山の七仏庵などでいろとりどりの提灯に右手をあげた誕生仏を見つけたが、博物館で見た2体の金銅仏は右手をあげず施無畏印(せむいいん)だったことが頭に残っていた(新羅の誕生仏は右手をあげていない)。
しかしその後、『日本の美術159誕生仏』をよく見ると、日本のお寺に統一新羅時代の右手をあげた誕生仏があった。 

広島康徳寺像 像高17.8㎝ 銅造鍍金 統一新羅時代(668-935)
愛知正眼寺の誕生仏(飛鳥時代)よりも制作時代は下がる。同書は、胴長で短い裳をつけるところなど四国や九州に伝わる古代の誕生仏に相通じるところがあるが、それらに比べると表現に稚拙なところが目立つ。足下に足枘や蓮肉を鋳出していないのは朝鮮半島製の誕生仏にしばしば見られる特色である。鍍金の色はさすがに鮮やかでよく残っているという。 
そういわれると顔がキムさんに似ている気がする。日本のものは体が貧弱でも挙げている腕は長目なのに対し、統一新羅の像は腕の表現が貧弱なように思う。
同書では他に高麗時代(918-1392)のものが紹介されているので、現代の韓国まで右手をあげた誕生仏は一般的だったのだろう。たまたま私が見た誕生仏が右手を挙げていなかったようだ。 福岡聖福寺像 像高12.7㎝ 
同書によると、聖福寺は栄西を開山とする西国屈指の臨済宗の名刹で、この誕生仏も栄西が中国から請来したものであるとの伝えもある。
正眼寺像に比べると様式的に進んでいるといえ、7世紀半ば頃に制作時期を求めるべきであろう
ということなので、中国ではなく日本で造られたものと考えられているようだ。中国の誕生仏と言えば、ここ何年か奈良博の常設展示で見て強く印象に残っているものがある。その解説には、日本や朝鮮半島の誕生仏は右手をあげているが、この誕生仏はあげていないとあり、韓国旅行の後ではこの解説に違和感をもったのだった。 

東京・個人蔵誕生仏 銅造鍍金 像高6.8㎝ 北魏時代(6世紀)
それはこのように両手を下げたずんぐりした小さな像だった。『古代の誕生仏』は、頭上に肉髻状に単髻を結い、毛筋をあらわす。全身裸形、三道をあらわさず、両腕を体側に沿って垂下、掌を前に向けて開き、両足をわずかに開いて方形の台上に直立するという。
写真よりも目鼻立ちがくっきりと見えたこともあって、北魏でも早い時期のものではないかと思いこんでいたが、6世紀(ただし534年に滅亡)のものとは意外だった。
日本や朝鮮半島では一般的な右手をあげた誕生仏だが、中国にはないのだろうか?

※参考文献
「日本の美術159 誕生仏」(田中義恭編 至文堂)
「古代の誕生仏」(1978年 飛鳥資料館)

2008/08/18

南山茸長寺址の磨崖仏は浅浮彫

慶州南山には急傾斜に茸長寺址がある。三層石塔からかなり下ったところに、建物は現存しないが、幾つもの丸い台座が重なった上に石仏坐像があり、その背後の崖に小さく如来坐像が浅浮彫されている。
右手は石窟庵の如来坐像と同じ触地印を結び結跏趺坐しているが、左手は実際には無理な形で不思議だ。
しかし、もっと不思議なのは大衣の着方だ。西方風偏袒右肩に、中国風の双領下垂の大衣をはおったようで、衣褶線も非常に密である。袈裟を着た如来像が新羅だけでなく唐にもあったので、このような着衣も唐にあるのかも知れない。

それらを除けば、頭部と左手がやや高浮彫であるが、全体に浅浮彫でまとまっている。  南山三陵渓で上禅庵の上にあった磨崖釈迦如来坐像は頭部は丸彫に近く、体や衣文の表現は線刻になってしまっている。着衣は双領下垂式。
一方、掘仏寺の四面石仏西面の阿弥陀仏立像は大岩に体を浅浮彫し、頭部は別に丸彫した石を載せているという。着衣は双領下垂式である。
東面の薬師如来坐像も頭部が高浮彫、体が浅浮彫で、衣褶線の多い表現だが、腕には大衣がなく、偏袒右肩にしては胸部の上まで衣文線が表されていて不思議だ。
新羅の磨崖仏は、見学した範囲では、頭部が高浮彫あるいは丸彫で、浅浮彫または線刻の体よりも重要視される傾向にあったようだ。その中にあって、南山茸長寺址の磨崖仏は頭部と体の表現に極端な違いがなく、まとまりの良い磨崖仏だと思う。
 

2008/08/05

慶州南山、神仙庵の磨崖菩薩像と同じ坐り方は法隆寺壁画

神仙庵の磨崖菩薩像はこんな崖の上にあるので、当時はどのように拝んだのだろうと思うくらいだ。 自分でもどうやって正面から写したのかよく覚えていない。
同心円状の頭光と身光が線刻されていて、体と台座は浮彫となっている。右手に持っているのは花枝らしい。手がかなり高浮彫なのに、左膝や右脚が平面的だ。このあたりから、説明板に8世紀後半とされているのだろう。
しかし、半跏像なら左脚を下げているので反対だし、右脚を開き加減に下ろしているので遊戯坐(ゆうげざ)とされている。この坐り方が気になっていた。 奈良国立博物館で、国宝法隆寺金堂展が開催され、再現壁画が出品されていた。その中で第5号壁半跏菩薩像を前にして、神仙庵の菩薩と同じ坐り方であることに気がついた。
ところが、会場の解説は、2号壁の半跏菩薩像を反転させたものということだった。  2号壁の半跏菩薩像と比べるとほぼ反転像のようである。『国宝法隆寺金堂展図録』 は、これらの壁画制作に当たっては、同じ下図が繰り返し用いられたようで、  ・・略・・  相対する菩薩像の場合も基本的に同一の図像を反転して用い、持物や頭上の標識などを入れ替えて尊名を区別できるようにしている。  ・・略・・ 金堂壁画は総じて初唐様式を濃厚に伝えており、その制作時期は天智天皇9年(670)に炎上した金堂の再建事業が進んだ7世紀末から8世紀初頭に懸かる頃と見てよかろう という。一方統一新羅では、8世紀になると唐から新たな様式を将来せず、独自の様式を確立したということなので、法隆寺と同じ頃、最後に入ってきた初唐の様式にこのような坐り方のものがあり、それが8世紀後半に神仙庵に採り入れられ、当時の様式で表されたのだろう。

※参考文献
「国宝法隆寺金堂展図録」(2008年 朝日新聞社) 

2008/08/02

新羅の誕生仏は右手をあげていない

七仏庵の提灯には誕生仏が描かれているので、韓国では旧暦でお釈迦さんの誕生日を祝うのだとわかった。何故誕生仏かというと、天上天下唯我独尊の右腕を挙げているからだ。 日本でも誕生仏と言えば、右手を挙げているのが一般的だ。

誕生釈迦仏立像 愛知正眼寺蔵 飛鳥時代(6世紀末~645年)
『日本の美術159誕生仏』は、わが国に伝わる最古の誕生仏である。面長な頭部や短い裳の襞を左右対称に折り重ね裾を図式的に表現するところなど止利様式の作品と共通する。全身にわたり鍍金が鮮やかに残っているという。
日本の誕生仏は、右腕をあげるだけでなく、この像のように頭部にかかるものが多いように思う。  誕生釈迦仏立像 奈良悟真寺蔵 白鳳時代(645~710年) 
同書は、幼児を思わすような可愛らしい姿につくられている白鳳時代の典型的誕生仏であるという。
この像は右腕をまっすぐにあげて宣誓しているかのようである。また、腰あたりの裳の襞は立体的に鋳造されているが、紐や裾の折り重ねは線刻で軽やかに表現されて、飛鳥時代よりも洗練された表現が見られる。  ところが、今回の韓国旅行で見た2体の誕生仏は、手を挙げていないことに気がついた。

金銅誕生仏 三国時代(7世紀) 高さ10.7㎝ 国立慶州博物館蔵
しかし、国立慶州博物館で見た誕生仏は右手を上に上げていなかった。施無畏印(せむいいん)である。 誕生仏 統一新羅(668-935) 国立大邱博物館蔵
大邱の博物館でも右手をあげない誕生仏をみた。これも施無畏印なのだろう。
どうも日本の誕生仏と新羅の誕生仏は別の流れにあるようだ。

※参考文献
「日本の美術159 誕生仏」(田中義恭編 至文堂)
「国立慶州博物館図録」(1996年 世光印刷公社)
「国立大邱博物館図録」(2002年 通川文化社) 

2008/07/29

慶州南山、七仏庵(チルプラム 칠불암)の仏像は


七仏庵には神仙庵から下りていったので、まずこのように見えたはずだ。しかし、韓国では釈迦の誕生日を旧暦で祝うため、色とりどりの提灯で、実際にはよく見ることができなかった。国立大邱博物館で絵葉書を買えてよかった。  三尊像もこんな風にしか見えない。お昼過ぎだったので、四面石仏の北面は日陰でこんな風にしか写せなかった。如来が双領下垂式の服装であることはわかる。 東に回ると三尊像の左脇侍が右手に蓮華を持っているので、観音菩薩、ということは主尊は阿弥陀如来か。四面石仏の東面も双領下垂式の服装で、結跏趺坐して左足が出ている。少し左に回ると三尊像が見えてきた。 もう少し回ると三尊像が現れた。阿弥陀三尊像は如来のみ坐像で、偏袒右肩の服装である。どうも新羅の偏袒右肩はマトゥラー式の右肩に何も付けないものばかりのようだ。
四面石仏の南面の如来は双領下垂式の服装である。 絵葉書は四面石仏南面の如来が座す大きな蓮華がよくわかる。三尊像の如来は蓮華に坐しているというよりも蓮台に坐している風で、同時期に造られたにしてはやや表現が異なっている。
それは服装についても言えるのだが、共通しているのは、頭光が文様のない宝珠形であることだ。説明板は、統一新羅時代(7-8世紀)に製作されたものと推定されるというが、石窟庵の如来坐像に比べると頭部が大きく、時代は下がるように思う。 柵があって近寄れなかったので、四面石仏の西面がどのような如来だったか見えなかった。それに、写した図版は絵葉書だけでなく、本にもない。四面石仏というからには浮彫されているのだろうが、見えない面の向かいに西方浄土の阿弥陀如来が表されているので、七仏庵には2体の阿弥陀如来坐像があるのだろうか。

※参考文献
博物館で購入の南山仏像の絵葉書

2008/07/25

慶州南山、塔谷(タップゴル 탑골)磨崖群の北面と西面

磨崖北面は塔谷に来るとまず見える面なので、ここに表された九層木塔と七層木塔を見て、ここが塔谷と呼ばれていることを納得してしまうが、説明板は、南側に三重石塔があって「塔谷」と呼ばれているという。勘違いしやすい。 北面で不思議なのは大きな蓮華に坐す如来が、九層木塔七層木塔の間に表されていることだ。橘夫人厨子では、橘夫人の念持仏が坐る蓮華、そして両脇侍が立つ蓮華それぞれが蓮池から茎が出ているが、北面の如来は大きな蓮華に坐して虚空に浮かんでいるようだ。天蓋が頭上にある。
表情は穏やかで、双領下垂式の服を着ているように見える。 九層木塔と七層木塔のそれぞれ下部には、獅子が浮彫されいるという。九層木塔の方(上側)は獅子に見えなくもない。しかし、七層木塔の方(下側)はとても獅子には見えない。 北面から西面に回ってみると、樹木と何かが浮彫されているような気がする。足か手のようなものが見える。南面には樹木表されているのは僧なので、ここにも僧が表されていたのかも。 樹木の右には大きく如来坐像が浮彫されている。表情はこちらも穏やかなのだろうが、頭光が宝珠形で、内側のくりくりした文様は火焔を表しているのか、迫力がある。
宝珠形頭光というのは珍しいのではないだろうか?根津美術館蔵の仏五尊像の中尊も宝珠形火焔頭光を付けているが、解説によると、8世紀半ば以降のものらしい。 如来の上部にも飛天がいるが、東面の飛天たちよりも柔らかい表現に思える。 西面とはいうものの、面積は非常に狭く、山の斜面にあるので、見にくく、他に浮彫があるかどうかさえわからない。

2008/07/23

慶州南山、塔谷(タップゴル 탑골)磨崖群の南面には僧侶が3人

磨崖南面は坂を上がったところにある。お供え箱ではなく、この方向からが正面になっている。
丸彫の如来立像は磨崖群とは別に造られたものだろう。その奧に僧侶坐像がある。そして一番手前にある岩にも僧侶像が浮彫になっている。
しかし南面での主尊は磨崖の仏三尊像だろう。その右には僧侶坐像らしきものが浮彫されている。主尊とその両脇侍は、二仏並坐像に一菩薩が脇侍として寄り添っているようにも見える。大きな蓮華の上に台座があり、そこに二仏が坐っているかのようだ。しかし別の方向から見ると、右脇侍は別の小さな蓮台に座しているので、やっぱり仏三尊像だった。それにしても左脇侍だけ横向きに表してある不思議な構図である。
仏三尊像の右側には樹下に座す僧侶像が浮彫されているが、瞑想する風でもない。 如来立像の背後に浮彫された僧侶坐像は、この中で一番僧侶らしい像だ。どちらかというと、南山仏谷の龕室石仏座像に近い。小さな洞窟で瞑想しているかのようだ。 そして、手前の低い岩に浮彫されている僧侶は上半身しか表されておらず、地中に埋もれているのか、あるいは上半身だけが何かの理由で残ったのだろうか。しかし、この僧侶は樹下で瞑想するどころか、遊んでいるような表し方だ。主尊の仏三尊像が何時の時代に彫られたのかよくわからない。古拙な表現で、塔谷の磨崖群では最も古いと思ってよいのか。
そして、3人の僧侶はどのような意図で浮彫にされたのだろうか。なんとも面白い僧侶たちだなあ。

2008/07/18

慶州南山、塔谷の東面上部は山東省の影響?

塔谷(タップゴル 탑골)磨崖群の東面右上方には、丸顔で大きな頭光に囲まれた胸部が線刻されている。頭光があるので俗人ではないはずだ。
頭部の左側と胸の下に幅のある枠があって、下の飛天たちとは別に彫られたようだ。顔の描き方も全く違う。時代も別かもわからない。
この丸い顔が記憶に残り、ひょっとして『中国・山東省の仏像展』で見た「日月を持つ天人風の人物」ではないかと思ったりした。

仏三尊像 1956-57年広饒県埠城店 山東省石刻芸術博物館蔵 北魏時代
同展図録は、舟形光背の外側に6体の楽天が舞い、頂の左右には日月を持つ天人風の人物が見えるという。
山東省では手に持っていた太陽や月を、塔谷東面ではその中に人物を表すという風に変わっていった。故に仏菩薩ではなく人物だったというのはどうでしょう。
ただ、仏三尊像は、ふっくらとした頬に笑みをたたえた表情を伝えており、二重に着た大衣や、大衣の下に着けた裳の裾が左右に広がりを見せているのは、北魏時代後期の様式に通じているということで、北魏後期は494-534年なので、遅くとも6世紀前半である。これ以降に日月を持つ人物を表したものが図録あるいは他の本にないので、それ以降も造られたのかどうかわからない。そして、塔谷の磨崖群は7世紀中葉ということなので、時期的にはかなりの開きがある。  また、東面には、丸顔の人物の左の方にうっすらと円形が線刻されているように見える。

※参考文献
「中国山東省の仏像-飛鳥仏の面影-展図録」(2007年 MIHO MUSEUM)

2008/07/15

慶州南山、塔谷磨崖群の東面はにぎやか

塔谷(タップゴル 탑골)磨崖群の中でも東面が一番面積が広いせいか、様々なものが彫られている。 まず、中央の下の方には如来と左脇侍がそれぞれ蓮華に座している。
左脇侍の左肩すれすれにまで飛天が舞い降りてきている。天衣が垂直に近い表現だがスピード感はない。さて、主尊だが、蓮華の花弁をぎっしり敷き詰めたような頭光をつけている。着衣は重そうで、マトゥラー式の偏袒右肩である。どこからまわってきたのか、衣端が両腕と、結跏趺坐した足の裏も隠している。表情は穏やかだが、他に似た仏像があっただろうか。頭部は螺髪ではないようだ。『慶州で2000年を歩く』は7世紀中葉としている。
如来の向こうには右脇侍ではなく、舞い降りた飛天が表されているが、顔や細かい表現はよくわからない。 菩薩の左肩まで降りていた飛天と合わせて、仏菩薩の上には3人の飛天が舞い降りているが、不思議なことに、先ほどから登場している飛天の上方に大きな頭光に囲まれた仏の頭部だけが彫られている。 中央の大岩の右方の細い岩にも舞い降りる飛天が描かれている。どうもこの飛天の視線は中央の仏菩薩を見ていない。主尊同様穏やかな表情である。 菩薩の斜め下から仏坐像を拝んでいる僧侶に注がれているように思う。残念ながら僧の着衣が袈裟かどうか見分けられない。中央の岩の左にある岩には森の中で禅観あるいは瞑想する僧が描かれている。袈裟は付けていないようだ。 ※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)

2008/07/10

如来の着衣が袈裟というのも


南山三陵渓の如来坐像は首がないだけでなく、僧の着る袈裟のような着衣で気になっていた。如来ではなく、高僧の像ではないかとさえ考えた。また、袈裟の紐の表現は丁寧だが、石窟庵の如来坐像と比べると膝の表現が人体ではないようだ。 背中はこのようになっていて、すっきりとはしているのだが、実際にこのように着ることができるのだろうか。その後行った茸長寺跡にある如来坐像は、説明板は、弥勒丈六像と推定される石仏坐像で、彫刻の様式から見て8世紀中頃のものというが、この像も袈裟のような着衣だった。 こちらは三陵渓の如来坐像に比べると首が太いので頭部が大きそうだ。こちらは結跏趺坐した両膝がはっきりと表され、衣端の表現は全く異なるものの、石窟庵の如来坐像に近い。 私はどちらも高僧像だろうと思っていた。ところが『世界美術大全集東洋編4隋・唐』には初唐時代の袈裟のような着衣の如来坐像が複数あったのだ。

五尊仏坐像の中尊 唐・貞観15年(641) 河南省洛陽市、龍門石窟賓陽南洞  
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、魏王泰が亡くなった母の文徳皇后を追慕して奧壁に五尊像を彫り出した。中尊は高さが8m余りあり、方形宣字形台座に結跏趺坐している。衣は僧祇支(下掛)、大衣(袈裟)、偏衫(覆肩衣)をつけて、大衣の端を左肩から下がったつり紐に結んでいる。像は四角張った顔、円筒形の首、方形の厚板のような胴体、平たい台のような膝など、隋様式特有のブロック状の造形表現がなお顕著である。しかし手の表現はやわらかいという。確かにこなれない表現で、唐時代のものと思えない。趙王福造阿弥陀仏坐像 唐・顕慶3年(658) 山東省済南市、神通寺千仏崖
両膝が出ているが、結跏趺坐したとは思えない表現である。
賓陽南洞と山東は意外と密接な関係にあった。山東省済南の南郊外にある神通寺千仏崖には、  ・・略・・  「趙王福造阿弥陀仏坐像」などがある。これら造像主のうち、清州刺史として赴任した趙王福は太宗の第13子  ・・略・・  これらの仏像はいずれも大衣の端を紐でつっているのはもちろん、四角張った顔、肩の張った胴体が共通して同一の様式系統を示すとともに、趙王福造像はいっそう丸みを帯び、進んだ様式を示しているという。
このように、袈裟を着た如来像は初唐期(618-704)にあった。それも朝鮮半島に近い山東省に複数あるので、この様式が新羅に伝わった可能性はある。しかし、山東省と南山の造像時期には100年くらいの開きがあるのはどうしてだろうか。その間の像が残っていないだけだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」(1997年 小学館)