西崖区の下部に開鑿された78・74窟は、麦積山石窟では北魏孝文帝前半期(452-477)に開鑿された現存最古の石窟だった。それに次ぐのが80窟である。
80窟 北魏太和年間(477-499、孝文帝期)開鑿 北周、清代重修
平面方形、平天井。窟高2.55m幅1.3m奥行0.62m(前部損傷による)
『中国石窟芸術』は、主尊の高さ1.40m、その左右にそれぞれ、上の小龕に通肩、禅定印の如来坐像、中小龕に二仏並坐像、下の小龕に供養者3人の塑像があるという。
3段の小龕の外側は東西壁となっていて、脇侍菩薩像が立つ。図版には両脇侍菩薩像と小龕が写っているのに、高さまでわかっている主尊の画像はない。
脇侍菩薩像 東壁 1.20m
西壁の菩薩立像とは左右対称の姿をしているが、この像は完璧な姿で残っている。蓮蕾を胸前に掲げ、左手には把手のついた壺を提げている。
『中国石窟芸術』は、三珠宝冠を被る。切れ長の目、高い鼻。耳飾りを垂らし、三筋分かれた髪を肩に垂らす。温和な表情で早期に将来した仏像の特徴が明らかであるという。
78窟の如来に見られた上がり気味の口角は、80窟ではもっと上がっている。
如来坐像 正壁左上小龕 像高0.32m
『中国石窟芸術』は、高い肉髻と髪には黒く彩色されている。通肩で、大衣の襞はU字形。両手は前後に重ねる禅定印で結跏趺坐する。下の小龕には二仏がならび、合わせて三世仏とするという。
麦積山石窟80窟正壁左脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
『中国石窟芸術』は、高い肉髻と髪には黒く彩色されている。通肩で、大衣の襞はU字形。両手は前後に重ねる禅定印で結跏趺坐する。下の小龕には二仏がならび、合わせて三世仏とするという。
麦積山石窟80窟正壁小龕如来坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
その下の龕内は、明らかに二仏並坐像で、法華経巻第4見塔品第11に、多宝如来が釈迦の法華経説会の場に宝塔を湧出させ、釈迦所説の真実を証明し、塔中の半座を分けて釈迦を招き坐らせた(『仏教美術用語集』より)という場面を表し、右肩を肌脱ぐ着衣法は長上に対するものであるから、右手を上げている像が過去仏多宝如来を紹介する釈迦であろう(『週刊朝日百科』より)と、偏袒右肩は、本来は現世仏の釈迦が、過去仏の多宝如来に敬意を表して、通肩の大衣から右腕を出す仕草だったようだ。
着衣はともかく、この如来たちは現在仏と過去仏なので、上龕内が未来仏の弥勒であれば三世仏には違いない。
それにしても、判で押したように同じ顔が並んでいる窟である。
『中国麦積山石窟展図録』は、麦積山石窟の北魏後期様式を考えるうえで極めて貴重な遺例は第115窟である。麦積山石窟では唯一の確実な年記が、中尊台座に墨書で記されている。第1行目に景明3年(502)の年号がはっきりと認められる。
『天水麦積山』は、主尊は明、清の重修を受けているという。
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148窟 太和年間(477-499)開鑿 西崖区中ほど 平面方形平天井 窟高2.40m、幅2.12m、残った奥行2.12m 地震により窟の中-前部破壊
『中国石窟芸術』は、左右壁の大龕は壊れたが、正壁との組み合わせは三世仏である。正壁は塑造の主尊と後壁に小龕が開かれ、上層には菩薩半跏思惟像と菩薩交脚像が、中、下層には二仏並坐像が表されている。このような構成と題材は、雲崗第2期の影響を受けているという。
『天水麦積山』は、主尊は禅定印を結び結跏趺坐する。高さ1.40m、高い肉髻、方円形の顔、鼻筋が通り、唇は薄いという。
腹部に禅定印を組む手の大きいこと。足は着衣に隠れている。
如来坐像 像高1.4m
『中国石窟芸術』は、高い肉髻、広い額、鼻梁は高く、目は大きく、耳は肩まで垂れるという。
この横顔の目が、敦煌莫高窟275の菩薩交脚像の目に似ている。鼻筋は通っているが、目はくぼんでいない。
『天水麦積山』は、華鬘の冠を被り、瓔珞を付け、束帛座に坐す、高さ0.50m。二菩薩が侍すという。
西上層小龕 交脚菩薩像
手は胸前に組んでいる。
正壁左下小龕 二仏並坐像
多宝如来を右手で示す釈迦如来は涼州式偏袒右肩だが、多宝如来の方は大衣から右腕を出そうとする瞬間を表しているようだ。涼州式偏袒右肩から漢族風の双領下垂式への過渡期とも思える。
麦積山148窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 麦積山』より |
『中国石窟芸術』は、同時期に開鑿された窟は、80、100、128、144であるという。太和年間(477-499)といえば、孝文帝が洛陽に遷都する前の時期。
100窟
馬蹄形平面平天井 高さ2.80m、幅2.12m、奥行2.30m
『天水麦積山』は、正壁の如来坐像は後代の塑造。両側上部に小龕、東上に菩薩半跏思惟像、西上に交脚菩薩像、その下に二仏並坐像という。
正壁は148窟と同じ構成。
脇侍菩薩像 高さ1.26m、
東西壁にはそれぞれ菩薩立像、その前側に一龕が開かれ、如来坐像が安置されるが、宋代の重修を受けている。
菩薩立像は、ほっそりとした体に密着した着衣には衣文線が密に彫られ、壁面には飄帯が韻律を描くように美しいという。
壁画に描かれる、翻る飛天の天衣とはまた違った表現だ。菩薩は静止しているのに、飄帯はふわふわと漂っている。
平面図
『天水麦積山』は、窟の形は100窟に似る。平面方形で平天井。西壁前には大きな壇があり、上には高さ1.84mの主尊、如来坐像。左右壁両側の塑造脇侍菩薩像は高さ1.48mという。
正壁如来坐像頭部
高い肉髻、長い耳は同時期の特徴と共通するが、大きな白毫は他のものには見られない。黒目が描かれているのも今までなかったかな👀
正壁東側上小龕 菩薩半跏思惟像
麦積山128窟正壁如来坐像頭部 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
何故半跏思惟像は右手の人差し指を頰に当てるようにしているのだろう。
どちらの画像も表情は分かりにくいが、東壁の如来も西壁の如来も、白毫の穴があるみたい。
144窟
麦積山128窟正壁上部小龕菩薩半跏思惟像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
『天水麦積山』は、左右壁に円形の龕、中に高さ1.40mの如来坐像で、合わせて三世仏とする。偏袒右肩の着衣に禅定印を結ぶ。窟内には小龕が多く開かれるという。
西壁
正壁の右脇侍菩薩と、窟門の西にある正壁を向いた菩薩とが龕内の如来坐像の脇侍を兼ねているような構成である。
麦積山128窟西壁 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
東壁
西壁同様に、正壁左脇侍菩薩と窟門の東側の菩薩とが窟内の如来の脇侍を兼ねているようだ。
禅定印を結んだ手が異様に大きい。
麦積山128窟平面図 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
どちらの画像も表情は分かりにくいが、東壁の如来も西壁の如来も、白毫の穴があるみたい。
144窟
『天水麦積山』は、窟前部が崩壊しているが、正壁の禅定印を結ぶ如来坐像及び両側上下3層の小龕、西壁の一菩薩が残っているだけである。
正壁上部小龕に菩薩半跏思惟像と二脇侍菩薩像があり、交脚菩薩は華鬘の冠を付けている。長い髪は肩までかかり、秀骨清像でよく残っている。座高は0.52mという。
両側に菩薩が侍している。
115窟 景明3年(502)
『天水麦積山』は、平面方形、平天井 窟高0.93m、幅0.95m、奥行0.90m
塑造の一仏二菩薩像。正壁如来坐像は高さ0.86m、体格は良い。衣文は細かい。二脇侍菩薩は高さ0.76mで塑造が壁面に貼り付けられているという。
菩薩とは、麦積山における大乗の修行者を意味している。すると、この窟は上邽鎮(天水)の元伯という街の役人が、麦積山で悟りを求めて修行する大乗の僧のために造営したことが分かるという。
仏伝あるいは本生図の場面が表されるようになった。
麦積山石窟115窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟芸術』より |
『天水麦積山』は、主尊は明、清の重修を受けているという。
高い肉髻、長い耳は北魏様式のまま、目や口元は重修のよう。
『中国麦積山石窟展図録』は、体躯は肩がやや角張り引き締まった感がある。左肩から胸にかけて帯状に下がる衣のへりには折畳文が連続して表され、古式の衣制を保っているという。
今までギザギザとかジグザグなどという表現をしていたが、折畳文というのが正式な名称だった😅 非常に整った品字形の襞が台座の上に扇状に広がっている。
壁の脇侍菩薩像
宝冠はそれぞれ異なるが、脚部の凹凸がはっきりとわかるくらい密着した薄い着衣である。飄帯は100窟の菩薩のものほどには翻っていない。
『中国麦積山石窟展図録』は、第115窟と同時期の造営になるものとして、第76・114・155窟があるという。
76窟 西崖区東下部 平面台形の小型平天井 宣武帝景明期(500-503)
『中国石窟芸術』は、主尊は高い肉髻、通肩の大衣の端を左肩にかける。禅定印を結び、須弥座に結跏趺坐し、衣端は3つに分かれて台座に垂下する。蓮弁形の光背の左右及び左右壁には14の小龕が開かれ、塑造の如来坐像、男女の供養者が安置される。
壁画は隋代に重修されたという。
光背の形は、日本では舟形と呼ばれるが、本来は蓮弁を表している。
禅定印を結んだ手は現れているが、大衣が中央に垂れているために、結跏趺坐した足が見えない。その脚部は奥行が感じられない点、衣文線が浮き出して表される点など、麦積山石窟で現存最古とされる78窟の如来とは様式の違いが感じられる。
155窟 北魏中期
『中国石窟芸術』は、平面方形平天井、三壁三龕で麦積山石窟で最も早く出現した窟形である。窟高2.11m、幅2.11m、奥行2.12m。三龕に龕楣と龕柱が土を盛って造られている。龕内にはそれぞれ一仏が安置され、三世仏となっているという。
『天水麦積山』は、正壁中央に大龕が開かれ、須弥座に如来が坐す、高さ1.18m。説法の場面を表し、尖拱形の龕楣の上に型造りの一仏二菩薩像が貼り付けられている。龕外には脇侍菩薩が1体、高さ1.68m。正壁上東側には半跏思惟像が1体という。
麦積山石窟155窟正壁・東壁 北魏中期 『中国石窟芸術』より |
『天水麦積山』は、大龕内両側上層に如来坐像が6体、下層に交脚菩薩が8体の同笵塑像が貼り付けられているという。
正壁龕柱の下に手を挙げる力士が表される。
『中国石窟芸術』は、深目高鼻で、頬骨が凹み、下顎が尖って痩せた顔になっている。胸骨や肋骨が浮き出て、痩せ細った老人の弟子を表している。右肩に僧衣が掛かり、右手は胸前で蓮池の蕾を持ち、左手は腹部で衣の角を握る。衣文は細密で線刻する。裙の裾から足が出ている。蓮台の上に立ち、光背は蓮弁の形になっている。表面は彩色された痕跡が残り、北魏末期に重修で塑造された。弟子の一老人一年少者という組み合わせが、麦積山石窟で最も早く出現したという。
一老人一年少者の組み合わせは、日本では迦葉と阿難とされているので、これまで登場した弟子像は阿難と迦葉としてきたが、それでよかったのかな😎
麦積山石窟155窟東壁 北魏末期重修 『中国石窟芸術』より |
北魏末期
23窟 東崖区中部 平面方形平天井窟 現在窟前部が失われている。
『中国石窟芸術』は、塑造一仏一菩薩像が現存する。
如来は高い肉髻、顔は細長い。双領下垂式に大衣を着て、胸前に内着の帯が垂れている。衣文は陰刻されている。主尊は漢族化して風格がある。
右脇侍菩薩は細身で上半身は裸で裙を履く。脚部は開いて蓮台に立つ。菩薩は早期造像の特徴を留めるという。
いつの間にか、化仏が描かれていた光背は火焔文が描かれ、千仏が壁面をおおっている。
裳懸座が破損しているために、台座をどのようにつくったかを知ることができる。木材の上に安置されていとは😦
それはともかく、時代が下がるにつれて、3つに分かれて長く垂れてきた裳は、遂に台座を覆うようになって、西魏へと繋がる造像になってきた。
麦積山石窟23窟一仏一菩薩像 北魏末期 『中国石窟芸術 麦積山』より |
140窟 西崖区上部 141窟の東側にあり、西壁に140窟に通じる穴がある 窟高2.14m、幅2.17m、奥行2.01m 方形平面平天井
『中国石窟芸術』は、正壁、東西壁に各一如来坐像で三壁三仏の組み合わせとなる。
窟頂と四壁に壁画が描かれている。正壁は一仏二菩薩像、東西壁は一仏一菩薩像とするという。
141窟は北周期(557-581)の窟とされる。
高い肉髻、双領下垂式に大衣を着て、結跏趺坐した台座に右足と内着の衣端を垂らしている。前期窟の如来像と比べると細身になっている。
関連項目
参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「麦積山風景名勝 李克強撮影集」 2014年 天水市旅游局
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国麦積山石窟展図録 シルクロードに栄えた仏たち」 東山健吾監修 1992年 日本経済新聞社
「週刊朝日百科世界の美術92 南北朝時代」 1979年 朝日新聞社
「仏教美術用語集」 中野玄三編著 1983年 淡交社
「仏教美術用語集」 中野玄三編著 1983年 淡交社