今回の黄土高原石窟巡りでは、古いところでは後秦時代とされる武山水簾洞千仏洞の菩薩像や、炳霊寺石窟169窟の西秦時代の仏像仏画などを見学した。それをまとめているうちに、これまではさまざまな文献やテレビの番組で北涼時代のものといわれてきて、私も北涼時代と思ってきた敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像を、北魏時代のものとする『北魏仏教造像史の研究』の石松比奈子氏の次の文が気になってきた。
1989年に宿白氏が提起した新年代論は衝撃的であった。氏はこれら3窟には河西地区の石窟や炳霊寺石窟との共通性は少なく、むしろ雲崗石窟第2期(470-494)の影響が認められるとして、その上限を太和8年(484)頃、下限を「洛陽遷都(494)をあまり隔たらない時期」まで下げたのである。宿白氏の新説は現在までのところ学会で認められたとは言えないが、明確に反論する意見も出されていない。これら3窟の年代は敦煌のみならず涼州地区全体の石窟造像の年代に大きな影響力を持つはずであるが、現状では漠然と敦煌研究院の公式見解である北涼説が採用されているという。
敦煌莫高窟275窟は北涼時代ではなかったのだろうか。
菩薩交脚像 西壁(正壁)
同書は、西壁本尊に菩薩交脚大像、南北壁上段には闕形龕内菩薩交脚像2、樹形龕内の菩薩半跏思惟像1を塑造で作るが、みな天衣が肩を広く覆って臂に懸かる独特の形状を示しているという。
確かに両肩にはギザギザの天衣がかかり、肘の後ろから下に垂下して、交差した脚の奥から端が出ている。このような天衣は他に見たことがない。
同書は、これらの菩薩像の尊格については、交脚像は兜率天で説法する上生の弥勒、思惟像は龍華樹下で思惟する下生の弥勒と見なす解釈が多い。しかし、酒泉から出土した北涼時代の白双且石塔(434)では、6体の如来像と1体の菩薩半跏思惟像、1体の菩薩交脚像の8体が組み合わされており、その配置から交脚像は弥勒菩薩として造像されたと推定できる。したがって、本窟の思惟菩薩像の尊格についても慎重に検討する必要があろうという。
背後には逆三角形のが描かれている。これは靠背と呼ばれる椅子の背もたれに懸かる布で、炳霊寺石窟169窟16龕の菩薩思惟像(西秦)にも描かれているが、背後に回った布帛は16龕の方が長い。靠背は短い期間にしか見られないもののように記憶しているが、275窟内にも西秦時代の、あるいは炳霊寺石窟の影響が及んでいる証拠の一つといえよう。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『世界美術大全集3 三国・南北朝』より |
『敦煌の美と心』は、窟頂は中国中原地域の木造建築を模しており、中央の両端を切妻形に折りあげた人字坡、すなわち人の字型の構造をしている。
奥行7mの正面に初期における最大の塑像といわれる高さ3.4mの交脚弥勒菩薩像が、人々を迎えるように両手をひろげ泰然と坐っているという。
同書では弥勒菩薩としている。
南壁上段 菩薩交脚像
『中国石窟 敦煌莫高窟1』(以下『中国石窟』)は、闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現しているという。坐り方が交脚でも、両手の印相はそれぞれ異なる。
菩薩像の肩から腕には、天衣(あるいは披巾)がぺらっと懸かっているように見える。
(画像に書籍名のないものは、敦煌石窟陳列館で写したものです。以下同じ)
北壁中層 月光王本生図
北壁上層
菩薩半跏像 塑造
275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、樹形龕に坐している。
『中国石窟』は、双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿であるという。
胸飾りや短い瓔珞をつけた菩薩の左肩には、折畳文を3つほどつくる布帛がかかる。これは主尊では描かれていただけの天衣が、塑土で表されたものである。
そして天衣は右肩も覆い、右脚の下に波状の揺らぎを出しながら、右足と左手の奥からその端はやや下方向に曲がっている。その端は折りたたまれていて、天衣は幅のある布帛であることを表している。
北魏窟の菩薩半跏像と比べてみると、
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より |
北魏窟の菩薩半跏像と比べてみると、
敦煌莫高窟257窟 菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
菩薩の顔は275窟の主尊と似ているように思う。
宝冠を留める宝繒の端がひらひらと重なり、曲線的な折畳文をつくるところなどは、275窟よりも表現が進んだものと思われる。
『中国石窟』は、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すという。
本像は天衣を肩から腕に添わせ、肘の内側に回しているところまではわかるが、その後天衣がどのようになっているのかは分からない。
上図の菩薩半跏像の天衣の表し方は、炳霊寺石窟169窟22龕の脇侍菩薩像(西秦)に似ている。
脇侍菩薩立像 22龕 高さ1.28m
肘の内側から垂下している披巾は、脚部の外側で風に揺れているような優美な表現なのだが、両肩から腕にかけて、こんな風に魚の背びれのように披巾(または天衣)を添わせることに、制作者は不自然さを感じなかったのだろうか。主尊の大衣の端が左肩から腕に添っているのをただ真似ただけだろうか。
そして、何よりも高善穆北涼石塔(承玄元年、428、酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵)の菩薩交脚像の天衣も、このような形式である。
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
本石塔は、北涼時代に西秦時代の菩薩の独特な天衣が伝わっていたことを示しているが、275窟の菩薩像でこのような天衣は見られない。両肩から腕にかけて天衣が掛けられ、その衣端が折畳文のようになっている。それはやはり様式が進んだ北魏時代の制作であることを示しているのだろうか。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より |
菩薩の宝冠(三面頭飾)について
『北魏仏教造像史の研究』は、桑山正進氏も第275窟左右壁の塑造菩薩交脚像の宝冠について、ササーン朝ペルシャのヤズデガルド2世(在位438-457)の王冠形式の影響を指摘しているという。
菩薩交脚像 北壁上層
宝冠は西壁菩薩交脚像と同じく丸い三面頭飾で、それぞれに化仏が配されているようだ。
また、主尊とおなじく天衣は両肩にかかり、肘の内側に回って斜め下に垂れる。その端の表現が主尊の天衣と似ている。
菩薩交脚像 北壁上層
三面頭飾には丸い文様がある。
『北魏仏教造像史の研究』は、筆者は北壁に描かれた本生図がみな『賢愚経』(北魏、慧覚等訳)に収められている物語である点に注目したい。
この経典は443年に慧覚が訳出したと伝えられており、本窟を北涼期の造営とするならば訳出以前に描かれたことになるという。北涼は439年に北魏により滅亡しているので、下図のような具体的な本生図は描くことができなかっただろう。
南壁中層 四門出遊図
敦煌莫高窟275窟南壁四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より |
下段は南北壁ともに供養者がそれぞれ主尊に向かって並んでいる。
『北魏仏教造像史の研究』は、胡服供養者列像についても、同様の胡服供養者列像は5世紀半ばから末頃までの北魏造像に常見されるという。
敦煌莫高窟275窟北壁供養者像 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より |
こんな風に275窟が北涼ではなく北魏に入ってからの開鑿であるというのが正解かも知れないが、炳霊寺石窟169窟(西秦)の影響もあることは間違いなく、宿白氏が河西地区の影響がないとする説には疑問がある。
関連項目
参考文献
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版株式会社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社