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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2024/08/30

イズニクの陶器とタイル


トルコ・イスラム美術館に展示されていたのはイズニク陶器の初期のものだった。
『魅惑のトルコ陶器展図録』は、ビザンティン時代から栄えたニカイアの町が、オスマン朝時代にイズニクと呼ばれるようになって、製陶の重要な中心地となったという。
325年に第1ニカイア公会議、787年に第2ニカイア公会議が行われるほど、初期のキリスト教にとって重要な街だったところ。

『魅惑のトルコ陶器展図録』は、オスマン朝美術工芸の重要なテーマである「イズニクの陶器」の歴史は、まさにイズニクの都市史そのものであるといえる。イズニクは、マルマラ地方のブルサ県にあるイズニク湖東岸に位置する。前6世紀以降、その存在が知られているこの小都市は、ローマ時代の市壁に囲まれており、周辺にはオリーブ畑やブドウ畑などの農耕地がある。
イズニクは、1071年のマラズギルトの戦いの直後アナトリア半島最初のルーム・セルジューク朝の首都となり、1331年にはオルハン・ガーズィー(在位1326-62)によってオスマン領に組み入れられ重要な文化的中心地となった。初期オスマン建築の基礎となった建築物が建設され、イズニクは都市としても発展していった。そして15世紀以降に生産されたタイルや陶器は、イズニクの名声を一層高めた。
15世紀には、中国の染付磁器の影響を思わせる、白地に藍色で図柄を施したタイルがシリアやトルコで作られた。それらはマムルーク朝時代のダマスクスや、オスマン朝初期の都であるエディルネなどで、建物の壁面を飾っているという。

トルコイスラム美術館にあった初期のイズニク陶器類の展示ケース


イズニクでの発掘調査が行われるまでは「ミレトス産」とされてきたが、現在ではイズニク陶器のミレトス・タイプという分類になっている。

その数点を見た時の印象は、くすんでいて美しい陶器とは言えないというものだった。
昔々、土青と回青という言葉を聞いた覚えがある。それは中国では国産のコバルト(土青)では良い色が出ず、イスラーム圏のコバルト(回青)の方が美しい発色をしたという意味だということだった。
そういえば、『図説中国文明8』は、青花はコバルトを含む鉱物顔料で生地に絵付けし、それから釉薬をかけて焼き上げます。すでに唐代の職人は、コバルトブルーを絵付けの原料に用いることを知っていました。イスラム国家でも、すでに9世紀頃には青花磁器をつくることができましたが、技術は高くありませんでした。西アジアの青花の技術と原料が中国に伝わったのち、元朝が唐代の基礎にもとづいて製作した青花磁器は、精巧でかがやくように美しく、遠く海外へ輸出されました。
元代の青花に使われたコバルトには、国産品と輸入品があり、国産コバルトはマンガンの含有量が高くて鉄の含有量が低いため発色が悪く、輸入コバルトは鉄の含有量が高いため、濃く鮮やかな色になりました。
西アジアでは青花の発色剤コバルトが盛んに生産されたが、元代の青花に用いられたコバルトは、その西アジアから輸入されたものだった。元朝は青花磁器の製造技術を習得したのち、イスラム教を信仰する民族がこのむ青花磁器を、大量に生産して輸出したという。
それなのに、中国から請来された染付(中国では青花)の磁器を模倣してオスマン帝国でつくられたものがこんなくすんだものだったとは・・・

鉢 14-15世紀 イズニク製陶器 ミレトス・タイプ
内側の口縁部に部分的に中国の水の流れを写したようなものがあるが、その間の文様は何か分からない。

ISLAMIC ART THE MUSEUM OF TURKISH AND ISLAMIC ARTS』には、この作品の見込みの図版が掲載されていた。
外から見込みをのぞいたのとは全く違ってみえる。
トルコ・イスラム美術館蔵 鉢 14-15世紀 イズニク陶器 ミレトス・タイプ ISLAMIC ART より


鉢 14-15世紀 イズニク製陶器 ミレトス・タイプ
見込みに禾目状の縦線が描かれている。外側は格子文様というほどでもないか。


鉢 14-15世紀 イズニク製陶器 ミレトス・タイプ
見込みに菊の細い花弁を密に並べたようなもの、その中の見込みの底には何が描かれていたのだろう。


鉢 14-15世紀 イズニク製陶器 ミレトス・タイプ
器壁にはほぼ大きな格子文が描かれているが、鉢の内側(見込み)には凝った文様を描いても、外側には適当に線を描くだけだったようだ。

見込み
底には六点星の中に六角形というイスラーム特有の幾何学文様が大きく描かれ、外側には菊の花のような文様、その上は植物文様だろうか。
トルコ・イスラム美術館蔵 鉢 14-15世紀 イズニク陶器 ミレトス・タイプ ISLAMIC ART より


窯に残った陶器片 初期オスマン朝時代 14-15世紀 イズニク陶器 ミレトス・タイプ 

陶器片 14-15世紀 イズニク製陶器 ミレトス・タイプ
見込みの底にはロゼット(ペンチ)のような花文。


『魅惑のトルコ陶器展図録』は、最近の調査では、15世紀以降のイズニク陶器とタイル製作の革新的な技術が明らかになった。その技術革新は、粘土を多く含む陶土に代わって、石英を多く含む強固な白色陶土の採用によってもたらされた。また、より高温で焼成が行なわれるようになったことを示している。硬質陶器といえるほど高品質なこれらの陶器は、通常藍彩(白地藍彩、ブルー・アンド・ホワイト)が施され、中国磁器にとって代わるようになった。
16世紀初頭には、白地藍彩にトルコ・ブルーが加えられるようになり、透明の釉薬の下にヴァリエーションに富んだ装飾が見られるようになった。古くは「ハリチ手(ゴールデン・ホ ーン、金角湾)」と呼ばれ、最近ではスルタンの花押の背景に描かれた螺旋に似ていることから「トゥーラ・ケシュ様式(Tuğrakeş 花押を作成する役目の者の意味の螺旋様式)」という呼称が提案されている陶器や、「ダマスクス手」と呼ばれる大きな葉のモティーフと紫に近い色が加えられた陶器にも、白色陶土と釉下彩技法が使われている。
従来「ダマスクス手」、「ミレトス手」、「ハリチ手」、「ロードス手」などの地名を冠した用語がイズニク陶器の様式編年に用いられてきたが、そのような慣行は適当ではないといえるだろうという。


左:白地藍彩鳥文六角形タイル 製作地トルコまたはシリア 15世紀 19.0X16.7㎝ 常滑市世界のタイル博物館蔵
同書は、六弁の花文様を窓のように扱い、その中に3羽の小鳥がとまる様子を表わした珍しい例という。

右:白池藍彩植物文六角形タイル 製作地トルコまたはシリア 15世紀 額を含めて19.0X16.2㎝ 世界のタイル博物館蔵
世界のタイル博物館蔵 白地藍彩六角形タイル 15世紀 製作地トルコまたはシリア 魅惑のトルコ陶器展図録より

白地藍彩草花文六角形タイル 製作地トルコトルコまたはシリア 15世紀 大原美術館(児島虎次郎収集品) 16.4X16.4㎝
世界のタイル博物館蔵 白地藍彩六角形タイル 15世紀 製作地トルコまたはシリア 魅惑のトルコ陶器展図録より


『魅惑のトルコ陶器展図録』は、オスマン朝のメフメト二世によるコンスタンティノープルの征服(1453)を前後して、化粧土を使うビザンティン陶器に代わって、不透明な白釉と多彩な絵付けが特徴的な、本格的なオスマン朝陶器が徐々に形成される基盤がつくられた。16世紀に陶器生産が発展した原因としては、タイルと同じ良質な陶土の使用により、硬質陶器が制作されるようになったことと、宮廷内のナッカシュハーネ(宮廷の美術工芸の意匠を担当する部局)で考案されたデザインが陶器に用いられるようになったことが考えられる
という。

白釉多彩花文皿 16世紀半ば  径36.0㎝ 中近東文化センター蔵 
同書は、ロードス・タイプと呼ばれる、それまでの藍色が中心であった陶器に、薄紫色とオリーブ・グリーンが加えられた種類のもので、植物文の繊細なデッサンはこれが世界的にも優品であることを示しているという。
まだ赤い色はないが、葦の葉(サズ)やチューリップというオスマン朝のタイルや陶器によく見られるモティーフが描かれている。
中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿 16世紀半ば 魅惑のトルコ陶器展図録より

皿の縁の部分の文様は、波濤が岩に当たって砕けるモティーフで、中国磁器のデザインに由来しているという。
オスマン朝は中国の陶磁器に格別の嗜好があったので、波涛文が描かれた。そこに中国の太湖石から変化したという葦の葉も描かれ、中国にはなく、アナトリア原産というチューリップをも描き込んだのだ。
中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿 16世紀半ば 魅惑のトルコ陶器展図録より


また同書の「イズニク・タイルと陶器」でアラ・アルトゥン氏は、1555年に建設されたスュレイマニイェ・モスクのミフラーブ(メッカの方向を示す壁龕)の縁飾りや壁面タイルに初めて用いられた盛り上がった赤色は、年代決定の手がかりとなりうる。16世紀のオスマン朝における多彩陶器とタイルは、この赤色が加えられたことによって、技法や装飾の点で頂点に達したのである。
記念建造物や宮殿の壁面タイルのデザインは、そのほとんどが宮廷内のナッカシュハーネで考案され、イズニクの芸術家達の熟練した腕によって製作された。
多数の文書や勅令には、宮廷から受注すると、通常の陶器生産を中断し、タイル職人頭の指示の下、多くの工房の共同作業で製作が行なわれたことが記されている。イズニク陶器は重要な輸出品でもあったため、ヨーロッパ人を中心とする商人達は 中断された生産の再開を待つべく、ゲムリックのような近郊の町に投宿していたという。
イズニクはマルマラ海東方のイズニク湖東岸の街、ゲムリック Gemlik はほぼ同じ緯度でマルマラ海東岸の街、その南方にはブルサがある。

スレイマニエジャーミイ、ミフラーブ壁のタイル

この壁面をピントを合わせて撮影するのは非常に困難である。礼拝者以外を入れない柵があるので近づけないこと、遠方からではモスクランプやその吊金具がたくさんあるので、そちらにピントが合いがちであること、三脚が立てられないこと、そして腕が悪いこと。

この丸いのがなんとかピントが合ったが、赤い釉薬が使われたタイルはその周りの小さな花など。何となく赤いかなという程度。


それに続くのは、1558年に亡くなったヒュッレムの墓廟のタイルということになる。

ミフラーブのスパンドレルには木に咲く五弁花やチューリップ
アナトリアやその周辺樹木で五弁花と言えばアーモンドが一番に浮かぶ。曲がりくねった幹の下にはチューリップやカーネーションの花があしらわれる。枠の文様帯には六弁花の花と葉が、蔓になることなく続く。

ミフラーブの外側 珊瑚の赤は盛り上がっている。
同書は、イズニク・タイルや陶器の特徴である盛り上がり光沢のある赤色は、短期間しか用いられなかった。それにはさまざまな要因が考えられるが、発掘調査の成果からすると、赤色の原料である酸化鉱物の枯渇に一因が求められるという。


今回は修復中で館内に入れなかったチニリキョシュク博物館 Çinili Köşk Müzesi の古い図録『トルコの陶芸』に掲載されているイズニク陶器さまざま、


ゴールデンホーン (ハリーチ)・タイプ
『トルコの陶芸』は、1530年代にたくさん作られた白地藍絵の1グループで 螺旋状に同心円を描いた細長い茎に小さなメダリオンやルーミがついた文様を特徴としている。
イスタンブルの金角湾(ゴールデンホーン、トルコ語でハリーチ)に近い、シルケジ郵便局の建設現場でこの種の器が大量に発見されたのだった。
17世紀の旅行家、エヴリアチェレビが金角湾に面した陶房について記していることからこのタイプを「ハリーチもの」と呼ぶようになったのだが、実はこれもイズニクが生産の中心だったことが明らかになっているという。

壺 1530頃 イズニク製 高27.3㎝口径14.5㎝底径12.2㎝ チニリキョスク蔵
同書は、白地にコバルトブルーで絵付けして、透明釉をかけて焼いた壺。
ふくらんだ胴は細い線で三つに分けられ、小さな花や葉をつけた茎が螺旋状に渦巻いている。肩の部分にはカーブした葉が同じ形で並ぶ。円筒形の頸にも胴と同じ文様が描かれているという。
細い線で蔓草が螺旋状に巻いているのが特徴的。
チニリキョスク蔵壺 1530年頃 ハリーチ・タイプ イズニク製 トルコの陶器より 


ブルーとトルコブルー
同書は、白地藍絵の陶磁器の製造は続いていたが、16世紀中期になると、初めは薄く、後に鮮やかな色のトルコブルーが使われるようになった。色彩の変化に伴って文様も変化し、チューリップ、ヒヤシンス、カーネーションやひなぎくなどの花や動物がレパートリーに加わってきた。筆遣いは控えめで、16世紀後半の大胆さはまだ見られないがその表現は、自然主義に近付いたものといえよう。
タイルでは特に、ハタイやルーミのモチーフの六角タイルにトルコブルーを用いたものが多いという。

フィニアル(頂部飾り) 15世紀中期 イズニク製 高28.8㎝幅17.8㎝厚4.9㎝ チニリキョスク蔵
同書は、パルメットをかたどった頂部飾りで白地に浮き彫りを施し、コバルトブルーとトルコブルーで絵をつけてから透明釉をかけたもの。
外側の帯はトルコブルーの釉薬がかっているが、焼成中に一部の色がかとんでしまったらしいという。
モスクの門やミフラーブの上にある飾りと同じ形だが、タイルとして造られ始めたばかりか、石彫の浮彫そのままにタイルに写している。
チニリキョスク蔵フィニアル 15世紀中期 イズニク製 トルコの陶芸より

フィニアルの参考品
三葉文タイル 16世紀 22.8X24.1㎝ 中近東文化センター蔵
このフィニアル(頂部飾り)は三葉文という名称があった。最初期には浮彫を施した丹念な技術だったが、平らなタイルに描くという、このような飾りとしては簡便な方法をとったようだ。
中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿 16世紀 魅惑のトルコ陶器展図録より


ダマスクス・タイプ
『トルコの陶芸』は、1540年代末のイズニクでは新しい色調が目につく。セージグリーン(緑色)からオリーブグリーン(薄緑色)マンガン紫、ライラック色、淡いピンク、茶、グレーなどである。アウトラインは黒っぽい緑から黒に変わっていく。文様はバラ、ザクロ、アーティチョーク、ロゼットや壺類、うろこ、雲、鋸歯状の葉やルーミ、ハタイなどである。セージグリーンをふんだんに使った陶器やタイルは形も文様も創意的で、後の多彩陶磁器のさきがけといえよう。
19世紀後半、この種の品がダマスクスの陶器市場に大量に出回り、そこからヨーロッパに向けて輸出されたことから ダマスクスものという通称が残ってしまったが、実はイズニクの窯から出たものであるという。

タイル 1540-45頃 イズニク製 縦30㎝横25㎝ チニリキョスク蔵
同書は、くすんだ白地にコバルトブルー、トルコブルー、セージグリーンで絵付けし透明釉をかけて焼いたタイル。
小さなハタイと葉のついたスクロールが中央で交差してロゼットを形成している。そのまわりに大きなハタイが四つ十字型に配置されているという。
チニリキョスク蔵タイル 1540-45頃 ダマスクス・タイプ イズニク製 トルコの陶芸より


鉢 16世紀中期 ダマスクス・タイプ イズニク製 高13㎝口径26.8㎝ チニリキョスク蔵
同書は、白地に多彩色の絵を付けて透明釉をかけた大鉢。見込みに春を思わせる花が渦形に並べられ、縁の内側の帯には白い葉と斑文が交互に配置されている。外面の下の方に半分だけ見えている花から細長く白い葉がたよやかに上に伸びて、紫の花をつけている。
濃紺の地に、三つ並んだ斑文を散らしているのが見える。この鉢は白地藍絵ものから多彩色ものへの移行期の品で、様式としては「ダマスクス」に属するものであるという。
チニリキョスク蔵鉢 16世紀中期 ダマスクス・タイプ イズニク製 トルコの陶器より


スリップウェア
同書は、16世紀後半になるとスリップ技法を用いた多彩陶磁器がでてくる。さまざまなトーンの赤やラヴェンダー色の化粧がけをしてから他のスリップで模様を描き透明釉をかけるのだが、スリップは色が限られていたので、ときには顔料も使われたという。

皿 1550-60 イズニク製 高5.2㎝口径26.3㎝ チニリキョスク蔵
同書は、ラヴェンダー色の化粧地に、多彩色の絵を付けてから透明釉をかけた皿。
白のスリップペイントが顔料の紫や緑を引き立てている。
一対の花をつけた白いカーネーションと、白の小花の枝が交互に並ぶ。
カーネーションの茎にちぎれ雲。外面には花と葉が帯状に描かれているという。
チニリキョスク蔵皿 1550-60頃 イズニク製 トルコの陶芸より



多彩色陶器とタイル
同書は、16世紀中期から17世紀末期までの長い間にわたって、質量ともにイズニク窯のトップの座を占めたのは多彩色ものだった。「ダマスクス」で見た新しい色に加えてエメラルドグリーンが登場する一方、浮き文に使われていたボウルレッド(鉄分の多い膠粘土)のスリップは消えていった。
サズや桜属の花枝が大きくスペースをとり、黒ではっきり輪郭をとってカラフルにのびのびと、桃源郷を思わせるタッチで描かれた。ギザギザの葉や剣のようにカーブした葉、幾何学文と共に龍やハルピュイアなども人気のあるテーマだった。16世紀終り頃になると、ガレー船など帆船もレパートリーに加わってきた。白地藍絵のモスクランプに好んで使われたクーフィ書体は、多彩ものになるとナスフ・スルス書体にとって代わられた。
17世紀に入るとイズニクの陶芸は急速に衰退している。
胎の滑らかな白は薄汚れたものとなり、釉薬の質も落ちた。
顔料は、輝きを失い、ときには焼成中にとんでしまう。赤の代わりに茶が多くなり、漫画風な建物や動物絵が目立ってくる。そして、ついに18世紀に入るとイズニク窯の火は消えてしまった。
16世紀イズニクで焼かれた赤みがかった陶器が、ロードス島からヨーロッパに渡って人気を得たのは19世紀後半のことだった。ロードスの騎士団に囚われていたペルシャ人が作ったものと解されて、ロードス陶器として知られたが、今世紀に入ってイズニク産と判明したのだったという。

リュネット 1540頃 イズニク製 高112㎝幅186㎝ チニリキョスク蔵
同書は、55.5X27㎝の長方形タイルを組み合わせた半円形の壁間で、多彩色のクエルダ・セカ技法を用いているのが特徴である。
周囲をルーミとパルメットが絡み合った帯で囲んでいる。
濃紺の地に白のスルス体で書いてあるのはコーラン第59章18節の一文。
このルネットは、イスタンブルのハセキ・ヒュレムスルタン・メドレッセ(1539-41)を飾っていたものという。
「オスマン帝国外伝」という長~いドラマは、ミマールスィナンが出てくるかなと期待して見始めた。
一室で、隔ての両側にヒュッレムとこの時すでに老人姿のミマールスィナンがモスクを建てる相談をしている場面があったが、見ていた時はモスクの建物や建てられる予定地などが言葉でしか出てこなかったが、そのモスクが今でもあることを知った。それどころか、一番利用されていると思われるトラムT1号線にはハセキ Haseki という駅もある。
しかし、ヒュッレムのモスクと複合施設はメドレセは現在も女子校として使われていて見学できなかった。モスクの方は、ミマールスィナンの初期の作ということもあってか、不思議な造りだった。それについては後日旅編にて。
チニリキョスク蔵多彩色タイルパネル 1540頃 イズニク製 トルコの陶芸より


タイルパネル 1570-75 イズニク製 縦94㎝横28.5㎝ チニリキョスク蔵
同書は、三枚の大きな方形タイルからなっている。白地にカラフルな絵を描いて透明釉をかけて焼いたもの。
一番下に赤いカーネーション、それに青い花と蕾が見える。その上方は全面に緑の果樹、楕円形の葉と赤い花、りんごのような実がついた豊かな果樹である。
このタイルはイズニク産の普通のタイルよりかなり大きいの で、特別注文の品と思われる。非常に珍しいデザインである が、似通ったタイルがエディルネのセリミエモスクのスルタ ンの間に残されているという。
チニリキョスク蔵多彩色タイルパネル 1570-75頃 イズニク製 トルコの陶芸より


多彩色絵皿 1570-80頃 ロードス・タイプ イズニク製 高5.4㎝口径27㎝ チニリキョスク蔵
同書は、鎌の形をした長いサズが中央に孤を描いている。これは16世紀後半からのイズニクで人気のあったモチーフで、やがてこの皿のように黒のアウトラインで強調するようになった。小さなチューリップ、蕾をつけたバラ、春を告げる小花が一房の根元から自由に伸びている。バラの枝の一本は折れて下を向いている。
縁には重なりあった三つ葉模様。緑の内側に雲が一部姿を見 せている。皿の外面は唐草文で飾っている。
多彩色ものの中で、折れたり曲がったりした茎や枝を描くことによってソフトな優しさをだすのは、16世紀後期に特に好まれた手法だった。それは又、嵐の過ぎ去った庭園のような風情を演出する効果もあった。
多彩色ものの中でも、この皿のように赤みの多い器を「ロードス陶器」と呼んだのは、19世紀後半、初めてこの種のものがロードス島からヨーロッパに渡ったとき、ロードスの騎士団に囚われていたペルシャの陶工たちが作ったものと誤解されたまま広まったためだったという。
チニリキョスク蔵多彩色絵皿 1570-80頃 ロードス・タイプ イズニク製 トルコの陶芸より 


多彩色絵皿 1575頃 イズニク製 高5㎝口径30㎝ チニリキョスク蔵
同書は、白地に多彩色の絵を付け、透明釉をかけた縁なしの皿。
カーネーション、チューリップ、クロッカス様の花がひとつの根から伸び、シンメトリカルな構成で全体に優雅に広がっている。数本の茎をリボンのような雲が束ねている。空間にも雲片、緑の帯の内側にも雲をのぞかせている。その細い帯には青地に花模様を半分だけ並べ、皿の外面はチューリップなどが描かれているという。
チニリキョスク蔵多彩色絵皿 1570-80頃 イズニク製 トルコの陶芸より


多彩色絵皿 1575-80 イズニク製 高5.7㎝口径29.6㎝ チニリキョスク蔵
同書は、外反した輪花状の縁のついた皿で、 白地に多彩色で絵を描き透明釉を施したもの。
すっくりと立つたチューリップを中心に、なでしこ、クロッカス様の花やバラの蕾がいっぱいに描かれる。縁にはペアになったチューリップと赤い花が交互に並んでいる。外面にも同様な絵を描いているという。
チニリキョスク蔵多彩色絵皿 1575頃 イズニク製 トルコの陶芸より


多彩色絵皿 1585頃 イズニク製 高5.5㎝口径26.3㎝ イズニク製
同書は、白地に多彩色の絵を付けて透明釉をかけた皿。広い縁が外反している。
アラビア書道風に描かれた雲を背景に、尾の長い小鳥が一羽。翼に一輪の花を抱いているように見える。雲の周りに波がくだけ、赤と緑の斑文を散らしている。縁には波と岩をデザインし、外面は雲と斑文が並べられているという。
一筆書きのウサギの群れのようなものはアラビア書道風に描かれた雲だった。
チニリキョスク蔵多彩色絵皿 1585頃 イズニク製 トルコの陶芸より


多彩色タイル 16世紀後期 イズニク製 縦24.5㎝横21.5㎝ チニリキョスク蔵
同書は、白地に多彩色の絵を付け、透明釉をかけて焼いたタイル。満開の大きなバラが二輪、美しさを競うかのように描かれ、ヒアシンスとカーネーションが彩りを添えている。空間に雲を浮かべてアクセントとしているという。
洋花嫌いの親に育てられたせいで、バラというものをじっくりと観察したことはないのだが、バラってこんな花だったかな?
植物の原種が好きなので、高山植物だけでなく、トルコでや中央アジアではバラの原種を見ることができた。
チニリキョスク蔵多彩色絵皿 16世紀後期 イズニク製 トルコの陶芸より


また『魅惑のトルコ陶器展図録』の「イズニクのタイルと陶器」でアラ・アルトゥン氏は、イズニク陶器やタイルの転機の一つが、16世紀半ばの盛期オスマン朝による芸術奨励策によってもたらされたことは疑いない。宮廷のハッサ・ミマールラル・オジャウ、およびナッカシュハーネで考案されたデザインのタイルを実際に生産する場所としてイズニクが選ばれたことにより、それまで各工房別に行なっていた陶器生産よりタイル職人頭が監督する同業者組合での生産を重要視するようになった。工房数は約300軒と増加し、宮廷からの受注時にはこれらの工房が協力して作業をすることが必要になった。
高品質の陶土をタイルにうまく適用したことから、宮廷からの注文がイズニクの工房に出される一方で、宮廷のデザインが比較的簡単に陶器へ吸収された。その結果、まだ磁器生産ができなかったヨーロッパにおいてイズニク陶器は高価な輸入品として、室内装飾に用いられた。ヨーロッパの名家の紋章が施されイズニク陶器は、多くのコレクションに見られ、イズニクの発掘現場においても陶片が発見されているという。


同展図録より、ヨーロッパで好まれたデザインの皿を少々


白釉多彩花文皿 16世紀後半 径35.7㎝ 中近東文化センター蔵
同書は、上方に、ヨーロッパの紋章と、ラテン文字の略記号がデザインされている。ヨーロッパの顧客のために制作されたものかという。
イズニク陶器はイスタンブールでは庶民の使うものだったと同時に、ヨーロッパで好まれたものでもあった。輸出用に造られたものにはそれぞれの好みが反映するのは、トプカプ宮殿で大量に所蔵する中国の青花の文様が、当時の中国人の好みではなく、トルコ人の好みに合わせて造られたものと同じ。
中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿 16世紀後半 魅惑のトルコ陶器展図録より


白釉多彩船文皿 16世紀後半 径33.4㎝ 中近東文化センター蔵
同書は、ヨーロッパの帆船をデザインしたものという。
中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿 16世紀後半 魅惑のトルコ陶器展図録より


白釉多彩船文皿 16世紀後半 径35.8㎝ 中近東文化センター蔵 
口縁には中国由来の波涛文。白波の輪郭の青い釉薬の滲みは他の作品には見られない。
見込みには三葉文と花が交互に描かれ、その中には青地に、下中央から伸びた躍動感溢れるサズがうねっている。
中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿 16世紀後半 魅惑のトルコ陶器展図録より


白釉多彩水注文皿 16世紀末-17世紀初 径31.07㎝ 中近東文化センター蔵
中央に水注が大きく描かれるのは珍しい。背景にはサズの蔓草が渦巻いている。
中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿 16世紀末-17世紀初 魅惑のトルコ陶器展図録より


同書は、新宮殿は後に「トプカプ宮殿」と呼ばれるようになり、19世紀の中頃までスルタンの住居として、同時に国政の場として使用された。現在は、歴代のスルタンや側近の者たちが使っていた、贅沢の粋を極めた宝飾品の数々、宝石がうめ込まれた生活什器、また世界有数といわれる1万点を越す中国陶磁器のコレクションなどを展示する博物館として公開されているが、そこにはイズニク陶器は全く含まれていないと言ってもよいとN・アタソイ教授は指摘する。
その原因として、オスマン朝の上層部は中国製品に魅了されており、イズニクをあまり所有しておらず、一方、庶民が保有していたものは、イスタンブルの度重なる火災により焼失したことが考えられると同教授はみている。その証拠として、イスタンブルの市街地の発掘などで、多量のイズニクの陶片が出土することをあげているという。




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参考文献
「ISLAMIC ART THE MUSEUM OF TURKISH AND ISLAMIC ARTS」 ANATOLIAN CULTURAL ENTREPRENEURSHIP 2019年
「魅惑のトルコ陶器 ビザンティン時代からオスマン帝国まで 展図録」2002年 岡山市立オリエント美術館
「トルコの陶芸 チニリキョスクより」 1991年 イスタンブル考古学博物館
「図説中国文明8 草原の文明 遼西夏金元」 稲畑耕一郎監修 劉煒編 2006年 創元社