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2012/10/16
敦煌莫高窟275窟2 菩薩は匈奴人の顔?
北涼(397-439年)は五胡十六国のうち匈奴の沮渠氏が建てた国だった。
匈奴は最も古くから中国あるいは中原に侵入してきた騎馬遊牧民で、イラン系かモンゴル系やテュルク系かがまだよくわかっていない。匈奴がどのような顔の民族だったのか、非常に興味がある。
275窟が北涼時代に開かれたのなら、仏像や壁画に表されているのは匈奴人ではないのだろうか。272窟も北涼時代の窟だが、主尊は清時代の重修のため参考にならない。
『敦煌の美と心』は、この像は、まだ中国化されておらず西方的要素を多分にもっているが、顔をみると西域的ではない。
鼻は低く丸い顔に仰月形の唇をもつという。
西域に住んでいたのは、深目高鼻と漢民族が形容した容貌のイラン系の人々だった。
しかしこの菩薩の鼻は高くなく、目もくぼんでいないので、西域の人ではない。当時ここで生活していた有力な寄進者、あるいは支配者の顔を写したものだろう。
一般に、口口民族という場合、その集団が全て同じ民族というのではなく、支配者層がどの民族だったかをいうらしい。そうすると、この顔は北涼を建国した匈奴人の顔とみていいのではないだろうか。
窟の南北壁上段にはそれぞれ3体の塑造菩薩像が闕門龕に交脚の姿で坐っており、北壁東端の菩薩だけが樹木龕に半跏して坐っている。
中段の北壁には本生図が表され、南壁には仏伝図の内「四門出遊」の場面が表される。
南壁の塑造菩薩も主尊と同じように目が出ていて、深目高鼻の西方の顔ではない。
間の菩薩立像は変色しているのでどんな顔かわからない。
(画像に書籍名のないものは、敦煌石窟陳列館で写したものです。以下同じ)
敦煌の古い時代の壁画は変色や褪色のため、描かれた当時の姿をとどめていない菩薩や天人が多く見られる。そのような図を見ても、どんな容貌だったのかを想像するのは困難だ。
当窟の壁画も主尊脇侍や上段の菩薩立像のように変色しているものがほとんどだった。南壁中段の四門出遊図も同様だが、後世に造られた隔壁の痕跡の東側には変色を免れた箇所がありそうだ。
その部分を拡大すると、隈取りがやや見えるものもあるが、飛天の右の1体と伎楽天などが変色が少なく、顔がよくわかる。
その顔はやはり深目高鼻ではないが、漢族でもなさそうに見える。しかし、どの顔も伏し目がちで、主尊や龕内の菩薩のように目が出ているかどうかわからない。
伎楽天の右端の1体は顔の隈取りが現れているが、目は開いているが、主尊の目のように出ているようにも見えない。
その下の天人たちもおなじような卵形の顔に涼しげな表情をしている。特に目が出ているようにも思われない。
下段は南北壁ともに供養者がそれぞれ主尊に向かって並んでいるが、それぞれの顔を確認することはできない。
ひょっとすると主尊や龕内の菩薩などは、目力を表すために盛り上げたので、出ているように見えるだけかも。
このように匈奴人は深目高鼻ではなかったような気がするが、北涼時代の窟に残された菩薩や天人の顔から匈奴人の顔を決めつけるのは強引だろうか。
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※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版社