ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2012/10/19
匈奴人の顔2
前回は匈奴が統治していた北涼時代(397-439年)、敦煌莫高窟に開かれた275窟の菩薩像や天人などを匈奴人の顔に当てはめてみた。
今回は他に残されたもので、匈奴人の顔を想像してみたい。
まず、北涼時代に造られた「北涼石塔」と呼ばれているものから見てみよう。
仏塔 五胡十六国時代・北涼、太縁2年(436) 高43㎝底径12㎝ 甘粛省粛州区博物館蔵
『中国国宝展図録』は、北涼(397-439年)は五胡十六国の1つで、現在の甘粛省に興った。中国の西に位置し、中央アジアやインドに近いこの地域から、北涼石塔とよばれる砲弾形の仏塔がこれまでに十数基見つかっている。
塔は、下から基壇、胴部、覆鉢、城塞文の区画、7重の傘蓋、鋸歯文のついた半球形で構成される。相輪は7重、頂部は土饅頭形で表面は周縁部を除いて無文だが、類品には蓮弁文を刻出する例がある。最頂部に穴をうがつ。塔の形状はガンダーラやカシュミールの作例の影響を色濃く示し、七仏と弥勒の組み合わせもガンダーラにはよくみられる。インドと中国の要素が融合し、当時の信仰のあり方をうかがわせる興味深い作であるという。
細長い顔の仏・菩薩が並んでいる。一見、顔の細部まで彫り込んでいないようにも見える。
同書は、覆鉢は、蓮弁の下に8個の龕を設け、7つの龕にそれぞれ禅定印を結ぶ如来坐像、残る1つに交脚弥勒菩薩像を配すという。
この時代の仏は、西方の右肩を出す偏袒右肩か、丸首で、衣文のドレープが幾十にも下に垂れる通肩の衣を纏って表されるが、この仏の服装はそのどちらでもないようで、古拙さを感じさせる。
8体すべて半眼にして下を向いているので、目が出ているかどうか判断できない。しかし、左右の横顔は深目高鼻とはいえない。
八角形の基壇の各面には、男女4体ずつ計8体の人物を線刻する。身なりはインド風であるが、これは中国の易経にある八卦に基づいて配置されており、老若男女の別は説卦伝の記述と一致するという。
頭光が見られ、肩から天衣が身体を巻いているので、天部だと思っていた。
顔は深目高鼻ではないようだ。
高善穆石塔 五胡十六国時代・北涼、承玄元年(428) 高44.6㎝ 蘭州市甘粛省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、高善穆の石塔は1969年に甘粛省酒泉城内から出土した。身部中層は弥勒龕の右隣の仏龕下から銘文が始まり、「高善穆為父母報恩・・・」と題した後に『増一阿含経』の「結禁品」の一説、続けて「承玄元年・・・」云々の発願文を刻み弥勒龕の下で終了する。承玄は匈奴族の北涼王沮渠蒙遜が使用した年号という。
こちらの方が顔が丸い。
7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかである。なかでも化仏宝冠を載せる弥勒菩薩の図像は敦煌莫高窟第275窟本尊像に共通しており、中央アジア以西には先例が見当たらないため、涼州地域で新たに出現した可能性もあるという。
顔は丸いが、やはりつりあがり気味の半眼で表される。
仏の服装は通肩になっている。
最下層は花や瓶などの供物を捧げ持つ男4人、女4人の計8体の供養天が線刻されているという。太縁2年の石塔の説明にあるように、この供養天は八卦に基づいた図像のようだ。
左の供養天の頭部は、長い髪を部分的に剃り残しており、当時の若い匈奴人の髪型だろう。ではその顔だが、これでは深目高鼻とも偏平とも判断できない。
そう言えば、前漢時代の石彫に匈奴人が表されていたはず。
馬踏匈奴 霍去病墓石彫 陝西省興平市霍去病墓(前117年頃) 高168.0㎝長190.0㎝ 前漢中期(前2世紀)
『世界美術大全集東洋編2秦・漢』は、霍去病墓は武帝茂陵東北1㎞のところに位置する。祁連山をかたどったといわれる墳丘の高は25m、かつてはこの山上に石彫が置かれていたが、現在は茂陵博物館を兼ねる墳丘下に下ろして陳列されている。石彫の数は14点、臥牛、馬踏匈奴のほか、臥馬、躍馬、伏虎、野猪、石人、人と熊の像、怪獣が羊を食う像、臥象、蛙2体、魚2体などがある。
裸の馬が佇立し、馬の下には異貌の武人が仰向けになり、左手に弓、右手に短い矛を持って、前脚のあいだから顔を出しているという。
初唐期の則天武后の母を埋葬する順陵北門に並んだ馬と比べると、顔が大きく、脚が細い。
仰向けの武人は、大きな顔をざんばら髪にして、口髭、頬髭、顎髭を生やし、耳は大きく眼窩はくぼんでいる。霍去病墓の石彫であることを鑑み、匈奴の武士とみなすのが妥当であろうという。
目は凹んで深目かも知れないが、鼻は高くなさそうだ。
ひっくり返して見ると、頬骨が高く、深目高鼻とも思えない。
匈奴と深く関わっていた時代の漢族なら、匈奴人の顔をよく表現しているかと思ったが、これではよくわからない。
それでも深目高鼻ではなかったようには見える。
関連項目
敦煌莫高窟275窟2 菩薩は匈奴人の顔?
動物頭の鹿角は中国の開明に?
※参考文献
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館