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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/01/14

新沢千塚出土カットガラス碗は白瑠璃碗のコピー?

橿原考古学研究所付属博物館で藤ノ木古墳の全貌展を見た後、駆け足で平常展を見て回った。そしてそこでえらいものを発見してしまった。
それは正倉院宝物の白瑠璃碗に似た、というよりも似せようとしたものだった。 その上口縁部はどうみても作りかけである。
白瑠璃碗の類は結構早くから日本に将来されていて、それを見た日本人あるいは渡来系の工人が、似たものを作ろうとしたが途中で墓主が死んでしまい、未完成のまま副葬したのだろうか?

透明ガラス碗 5世紀後半埋葬 橿原市新沢千塚126号墳出土 東京国立博物館蔵
金層ガラス玉が出土した古墳である。『海を越えたはるかな交流展図録』によると、
透明のガラス碗とコバルトブルーのガラス皿が、コーヒーカップを連想させるような状態で、セットになって出土した。 
碗は、厚さ1~1.5㎜の薄手の器で、丸底で頸部がくびれて口縁部に続く。口縁の端は、吹き竿から切り離したままの状態で、口焼きも研磨仕上げもしていない。底から胴部にかけてカットの円文があり、荒ずりのままの円文と磨き(砥石磨き)をかけた円文とが一段おきに巡る。このような二種類のカットは、装飾的な効果を意図したものとも考えられるが、口縁部の状態とともに未完成品を感じさせる。
この器は、ササン朝ペルシャ系ガラスの製作技法に通じるもので、同時に出土した金層ガラス玉とともに、中国東北部や新羅を経由した可能性が考えられる

ということで、日本ではなくササン朝の製作だった。未完成のものを交易品にしたのだろうか。
「荒ずりのままの円文」の部分は一見すると金の粉でもつけているようで、よく見るとカットする位置にマークを付けたとも思わせた。透明な部分にカットが施されているのはよくわからなかった。それくらい透明な状態を保っていた。
『古代ガラスの技と美』によると、
成分分析によれば新沢千塚出土カットグラス碗は一般のローマ系ガラスよりもマグネシウムが多いとされ、これはササン朝ガラスの特徴であるといわれている。
カットグラスはローマ系が古く、1世紀後半にはイタリアやスイスでの出土が認められるが、その後は1つの器に施されるカット文が単一ではなくなり、ローマ系の影響を受けたと思われるササン朝ガラスではその後も長く単一のカットが採用された。新沢千塚のカット碗はそうしたササン系ガラスの中でも初期のものに属する

ということで、白瑠璃碗を日本でコピーしたものどころか、分厚いガラス碗よりも以前に作られたものだった。白瑠璃碗 8世紀半ばに収蔵 正倉院宝物  
私はこの分厚いガラス碗は鋳造ガラスだと思っていた。新沢千塚126号のガラス碗は、見よう見まねで吹きガラスで作ったのだろうと想像した。しかし『正倉院への道』で谷一尚氏は、やや淡褐色の透明ガラス製で宙吹技法により成形されているとしているし、他の本でも、他の円文切子碗でも宙吹あるいは型吹とされている。また『ガラス工芸-歴史と現在-展図録』で谷一氏は、
現在その年代をほぼ確定できるササン朝のガラス容器は、アルダシールⅠ世(224-261年)期を中心とした前期と、ホスローⅠ世(531-579年)期を中心とした後期の作品とである。
その後期、6世紀の例としては、円形・二重円形・浮出円形などの各種の切子を表面に施した厚手のガラス碗がある。円形切子碗は、メソポタミアのキシュ(6世紀)、テシフォンなどササン朝の宮殿址や、  ・・略・・  新疆クムトラなど北方シルクロード沿いの各地、我国の伝安閑天皇陵古墳(6世紀)などでの出土例があり、正倉院中倉(収蔵年代は8世紀中葉か)にも伝世している。  ・・略・・
ササン朝はローマのように海路によらず、陸路をその通商ルートとしていたため、壊れにくい厚手のガラスが必要であったと考えられ、大量生産が可能でなおかつ美しい切子ガラス碗は、陸路の交易品としては最適の製品であったと考えられ、いわば当時のヒット商品として、中国や当時その文化圏であった我国までもたらされたのであろう

と、壊れにくいように厚手に作るようになったのが6世紀ということがわかった。この白瑠璃碗は、亀甲繋文かと思ったが、円文のカットが大きいため、上下左右の円文と互いに隣接箇所をカットして、六角形となったらしい。 大阪府羽曳野市の伝安閑天皇(在位531~579年)陵古墳から出土したとされる円形切子厚手碗について、『季刊文化遺産13古代イラン世界2』で谷一氏は、両者一組で中国経由で我国にもたらされ、一方は皇室に伝世し、聖武期前後に正倉院に納められた可能性もあることを示唆している。

円形切子碗 イラン北西部出土 ササン朝
『ペルシャ文明展図録』で大津忠彦氏は、切子装飾を施したガラス製容器は、ササン朝ペルシャ時代を代表する国際的ヒット商品。  ・・略・・  
紀元前後になると、「ローマン・ガラス」と呼ばれる吹きガラスの容器が安価な容器として普及した。しかしササン朝時代の職人たちは、宝石のカットと同じ方法を用いて、再び高価な容器を作り出した。この作品は、型吹きによって厚手の碗を作り、外表面にグラインダーによる研磨を施して円形の窪みを作りだしたもの
と解説している。 こちらは円文にカットされていて、安閑天皇陵出土とされるガラス碗は上2段が円文、下側が六角文にカットされている。
このような厚手のガラス碗だけでなく、新沢千塚126号墳出土のガラス碗のように薄手のものもあった。

カット碗 シリア? 3世紀 口径8.8㎝ 個人蔵
『古代ガラスの技と美』によると、新沢千塚タイプの碗であるが、ひとまわり大きく表面が美しく銀化しているという。この薄手のカット碗はシリア(当時はローマ帝国の属州)で製作されたらしいと考えられているようだ。 マグネシウムの含有量が少ないのだろうか。
楕円形切子括碗 イラン 3世紀 淡緑色透明ガラス、宙吹き ポンテ成形口径8.6㎝ 岡山オリエント美術館蔵
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』で谷一氏は、前期3世紀のサーサーン製と考えられる薄手切子括碗は、中国湖北鄂城五里敦(がくじょうごりとん)121号西晋墓(265~316年の埋葬)や奈良橿原新沢千塚126号墳(5世紀後半の埋葬)などでも出土している。この例でもわかるように中国までは伝播年代の差がほとんどないが、我国を含むその他の遠隔地ではかなりの年代差がでるのが一般的傾向であると、こちらのカットグラス碗はササン朝で作られたとみなされているようだ。
なお、東京国立博物館平成館考古学展示室で、2008年6月1日まで、「倭の五王の時代 古墳時代Ⅲ」の「ユーラシアのいぶき-ステップルートの文化と新沢千塚126号墳-」というコーナーに126号墳出土のガラス碗・皿、伝安閑天皇陵出土のガラス碗などが展観中のようだ。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝展図録」(2006-2007年 朝日新聞社・東映)
「季刊文化遺産13古代イラン世界2」(2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団)
「古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社)
「ガラス工芸-歴史と現在-展図録」(1999年 岡山市立オリエント美術館)
「正倉院への道-天平の至宝」(米田雄介・児島健次郎他 1999年 雄山閣)

※参考ウェブサイト
東京国立博物館平成館倭の五王の時代 古墳時代Ⅲ