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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/01/30

皇南大塚のような双円墳は夫婦合葬墓

 
慶州の大陵苑には、天馬塚の東に巨大な瓢形の古墳がある。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、5世紀中葉前後から、突如として巨大な積石木槨墳が出現するようになる。その最初が皇南大塚(ファンナムデーチョン、98号墳)南墳であるという。瓢形の墳墓を築造したのではなく、南側から造られたらしい。

『黄金の国・新羅展図録』は、南北に円墳が並ぶ慶州最大の双円墳。長辺である南北が114m、短辺となる東西が82m、高さは北墳が22.6m・南墳が21.9mを測るという。
長さから言えば、日本の丁瓢塚古墳が全長104mなので、長さではそんなに違わないが、なんといっても高さがあるので、小山があるように感じる。箸墓古墳は280mもあり、小山のようだが、それは木が生えているからだ。皇南大塚のように間近に22mもの古墳を見ると、迫力が違う。
1973年から3年6ヶ月をかけて発掘調査が行われ、土層断面の切り合い関係から南墳が先に築造されたことが判明したという。
南墳が先に造られたのなら、その斜面に寄りかかって北墳が造られたのだから、その切り合いはこんな風かも。 古墳の規模だけでなく、副葬品も質・量ともにすばらしく、王陵として間違いないであろう。
南墳には武具の副葬が多く、北墳には装飾品の副葬が多いことから、南墳が男性で、北墳がその夫人の墓という、いわゆる夫婦合葬墓と推定されている
という。合葬するという、それ以前の新羅にはない、外来の風習が北墳を築く時に入ってきたのだろうか。

平面が6.5X4.1m、高3.5mの主槨に埋葬施設が設けられそこから3m隔てたところに平面が5.2X3.8m、高さ1.3mの副槨を造る主副槨式という。下写真の手前が主槨、奧が副槨ということか。
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、南墳の墓槨は整地面に構築されているが、主槨の範囲を約45㎝掘り下げ、人頭大の川原石を約30㎝の厚さに敷き、その上に厚さ20㎝ほど小礫を敷きつめている。それに対し副槨は地盤を槨底としていた。主槨・副槨を設置したのち、その周囲に2列に組み上げた足場(架構状の枠組み)をつくり、その内側に積石しているという。  北墳は南墳の構造をやや簡略化したもので、2重の棺が納められた木槨が造られ、その外側に丸太で木組みを作り、積み石の枠組みとする。木槨は1つしかない単槨式で、副葬品は木槨内に置かれた副葬櫃に納められていたという。北墳の方が地表の面積はずっと狭いもんね。積石木槨墳の木組みの構築物を示す柱穴。天馬塚ではじめて確認されたという。木組みは積石をするための足場?双円墳の皇南大塚は夫婦合葬墓だった。双円墳と言えば、おなじ大陵苑の中にも、遊歩道がなくて近づけなかったが、太宗路を通っていてよく見えた大きな皇南洞90号墳があったし、八友亭ロータリーで見た皇吾洞3号墳があった。大陵苑南の東部史蹟地帯には瓢形には見えないので象形と勝手に呼んでいた古墳があったし、もっと南方の五陵にも双円墳はあった。双円墳は総て夫婦合葬墓なのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「韓国国立中央博物館図録」(1986年 通川文化社)