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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/01/27

積石木槨墓の構造は慶州天馬塚で 


天馬塚は大陵苑にあり、内部を見学できる唯一の積石木槨墳だ。『黄金の国・新羅展図録』は、積石木槨墳とは、地上あるいは地下に被葬者を安置した木棺と木槨を設置した後、人頭大の河原石で木槨を覆い、さらにその外側に盛土を盛ってつき固めた墳墓で、新羅だけにみられる独特な墓制であるという。
 
『韓国の古代遺跡1 新羅篇』は、1973年に文化財管理局によって発掘された。東西60m南北51.5m高さ12.7mの円墳。皇南大塚の南墳の規模に匹敵するほどの積石木槨をしつらえ、槨内には四周に石壇をめぐらした木棺と、その短壁の外側に副葬品収蔵櫃が置かれていた。被葬者は、山字形金冠を有することから、王級とみられるという。
金冠が出土することがこの時代の王陵の条件らしい。天馬塚出土の金冠はこちら この古墳は、慶州古墳公園整備計画にともない発掘されたが、当初慶州最大級の皇南大塚を発掘するための予備調査的性格をもっていたという。ところが予期以上の成果がえられたのであった。積石木槨墳の構造が建築学的に発掘・解明されたこともその1つであり、今日古墳内にはいると、その構造がわかりやすく見学できるように復元されているという。
確かに内部は半分が見学できるようになっていた。いくら壁面に石が積まれていても、この空間いっぱいに石が詰まっていたことは実感できなかった。出土物のコピーが展示されていたり、木棺内部の出土状況も復元展示(もちろんコピー)されているので、博物館に入ったような印象だった。 
『図説韓国の歴史』にその発掘の様子が記載されていた。
① 発掘前の測量の様子。民家がせまっていても、よく残っていたものだ。  ② その民家の塀と同じくらいの高さに盛られた天馬塚の封土。中央には何が現れたのだろう。③ 大量の石と、その中央には土が現れた。
築造は地面を整地し、木槨基底部の範囲を深さ40㎝掘り下げ、人頭大の河原石を敷きつめ、さらに径47mの範囲に厚さ15㎝に粘土をたたきしめ基礎とする。墳丘の外周に相当する部分に1~2mの高さに河原石を積み、護石としている。木槨の基底の四周は幅50㎝高さ40㎝に河原石を積み、その上に設置された。木槨基底の積石の幅は8.8mにおよび、高くなるにつれ内傾する。積石・封土を4m積み上げた段階で木槨内の埋葬を終了し、その後木槨上部に約2m積石するが、さらに上面を厚さ15-20㎝の粘土でおおい、そして盛土する。その後墳頂部に馬具類を納め、さらに粘土をかぶせて完成させたという。
積石は木槨上にも置かれたが、木槨が破損して槨内に積石が入り込み、その分中央に土が集まっていたらしい。 木槨は東西6.6m南北4.2m高さ2.1mである。木槨は径30㎝ほどの丸太を半截した部材で組み立てられ、四隅は校倉風の組み方が想定されている。槨内には、東側に副葬品収納櫃(1x1.8x0.8m)が置かれ、その西に接して槨底に、東西3.2m南北1.8mの範囲に板材を敷き、その上の四周に幅50㎝の石壇を積築し、その内部に木棺を安置したという。
校倉風というのが興味をそそられるなあ。

ところで、何故天馬塚と呼ばれるかというと、『黄金の国・新羅展図録』は、この古墳からは、飛翔する天馬が描かれた2枚の障泥(あおり)が出土し、天馬塚と命名されることとなった。障泥とは、馬に騎乗し走る時にはね上がる泥が騎乗者の服につかないように、馬の腹部両側に垂らされた方形板のことである。155号墳から出土した障泥は、白樺樹皮を何枚か貼り合わせた後に、糸で縫い合わせたもので、、その縫い目は縦・横・斜めにそれぞれ14例ずつある。また、周縁には皮革を貼り合わせているという。
翼はないようだが、口から何か吐きながら走る白馬の四周には、大きなパルメット文のようなものが帯状に並び、白馬の画面四隅には白色で同じものが描かれていて、西方の舗床モザイクを思わせる。天馬だけでなく、これらの文様もシルクロードを翔たのだろう。 ところで、この天馬塚はいつ築造されたのか。それは、金冠・冠帽・冠飾・銙帯(かたい)・耳飾などの装身具をはじめとして、約1万2千点が出土したという副葬品によって、6世紀あるいは6世紀初頭とされている。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」(2008年 奈良国立博物館)