慶州の大陵苑には、天馬塚の東に巨大な瓢形の古墳がある。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、5世紀中葉前後から、突如として巨大な積石木槨墳が出現するようになる。その最初が皇南大塚(ファンナムデーチョン、98号墳)南墳であるという。瓢形の墳墓を築造したのではなく、南側から造られたらしい。
『黄金の国・新羅展図録』は、南北に円墳が並ぶ慶州最大の双円墳。長辺である南北が114m、短辺となる東西が82m、高さは北墳が22.6m・南墳が21.9mを測るという。
長さから言えば、日本の丁瓢塚古墳が全長104mなので、長さではそんなに違わないが、なんといっても高さがあるので、小山があるように感じる。箸墓古墳は280mもあり、小山のようだが、それは木が生えているからだ。皇南大塚のように間近に22mもの古墳を見ると、迫力が違う。

南墳が先に造られたのなら、その斜面に寄りかかって北墳が造られたのだから、その切り合いはこんな風かも。

南墳には武具の副葬が多く、北墳には装飾品の副葬が多いことから、南墳が男性で、北墳がその夫人の墓という、いわゆる夫婦合葬墓と推定されているという。合葬するという、それ以前の新羅にはない、外来の風習が北墳を築く時に入ってきたのだろうか。
平面が6.5X4.1m、高3.5mの主槨に埋葬施設が設けられそこから3m隔てたところに平面が5.2X3.8m、高さ1.3mの副槨を造る主副槨式という。下写真の手前が主槨、奧が副槨ということか。
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、南墳の墓槨は整地面に構築されているが、主槨の範囲を約45㎝掘り下げ、人頭大の川原石を約30㎝の厚さに敷き、その上に厚さ20㎝ほど小礫を敷きつめている。それに対し副槨は地盤を槨底としていた。主槨・副槨を設置したのち、その周囲に2列に組み上げた足場(架構状の枠組み)をつくり、その内側に積石しているという。



※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「韓国国立中央博物館図録」(1986年 通川文化社)