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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/11/25

ラテルネンデッケといえば敦煌莫高窟だが


遼東地域から河西回廊までの古墓を調べてもラテルネンデッケを採り入れた天井は見つけることができなかったが、敦煌莫高窟にはラテルネンデッケはいくらでもある。中国式の天井が伏斗式なので、その窟頂部にラテルネンデッケが表されているのだ。
そして隋末唐初にかけて、藻井はラテルネンデッケではなくなっていく。それについてはこちら
北魏時代(439~534)は、ラテルネンデッケは天井の装飾文様としてはあるが、伏斗式天井がない。天井を高く掘り上げる技術がなかったのだろうか。

敦煌莫高窟第251窟 北魏時代 中心柱窟
窟の前半は人字坡天井、後半は中心柱があって、その周りを右遶(うにょう)するための通路があり、その上にある平天井(平棋頂)にラテルネンデッケがずらずらと並んでいる。ラテルネンデッケはここでは天井の装飾文様として扱われている。  敦煌莫高窟第249窟 西魏時代(535-557) 伏斗式天井
西魏になってやっと敦煌莫高窟に伏斗式天井が出現する。藻井部にはラテルネンデッケが表されている。下の天井が平面に見える場合はこちら。 敦煌莫高窟第272窟 北涼 西壁と窟頂
伏斗式というほどではないが、こころもち天井が斜めに上がり、ラテルネンデッケは多少の凹凸をもって表されている。『中国石窟敦煌莫高窟1』は窟頂略帯穹窿形という。伏斗式天井への過渡期的なものとみているようだ。  敦煌莫高窟第268窟 北涼 禅室天井
細長いが、中心柱の周歩廊ではなく、西壁には主尊が交脚で坐す主室の天井のようだ。こちらも多少の凹凸をつけて、大小のラテルネンデッケが並んでいる。 
このように北涼時代の窟に多少立体感のあるラテルネンデッケ表されているのは、三角隅持送り天井(中国では斗四藻井)を実際に知っているか、敦煌付近にそのようよな建物があったのか。 北涼は匈奴が建国したが、匈奴の家屋がラテルネンデッケを用いていたのだろうか。
ラテルネンデッケは建物の天井に煙抜きか明かり取りのために開いた穴で、モンゴルのゲルなど円形のテントでも天井中心部に開口部があるのと同じだ。現在でもアフガニスタンのワハーン回廊の民家にあるのをテレビ番組で見たことがあるし、パキスタンのフンザを旅行した人に、お城の天井にもあったと聞いたことがある。だから中央の丸い形は太陽ではないかとも思ったりもする。敦煌莫高窟の丁さんは、火事にならないように、水を連想する蓮華が描かれたと言っていたが。
ラテルネンデッケは紀元前からあったというが、それは雨の少ない地域だったのだろう。

ともあれ、敦煌莫高窟は楽僔が366年に開鑿したと言われている。その頃敦煌は前秦というチベット系氐族の支配下にあった。現存最古の石窟は北涼時代(397-439)のものだが、楽僔当時の窟でも、敦煌莫高窟のラテルネンデッケが高句麗に造営された安岳3号墳(4世紀後半)に影響するのは不可能やなあ。

※参考文献
「中国石窟敦煌莫高窟1」(1999年 文物出版社)
「敦煌への道上西域道編」(石嘉福・東山健吾 1995棊年 日本放送出版協会)