敦煌よりも西方のラテルネンデッケはどうだろうか。
キジル石窟第167窟ラテルネンデッケ 6-7世紀
『キジル大紀行』は、正方形のプランに、三角隅持ち送り天井をとる窟である。ラテルネンデッケとも呼ばれる構造で、天井の正方形平面の四隅に斜めに梁木や三角形の材を架して、一回り小さい方形の枠を作り、さらにその上に同様の構造を数段繰り返すことによって、次第に中央部を狭めて高くしていく方法で、バーミヤーンにも数多く知られている。ドーム天井とともに、三角隅持ち送り天井は特に中央アジアで好まれた建築構造である。しかも、ドームがレンガ建築をもとにしているのに対し、三角隅持ち送り天井は山間部で行われた木造建築をもとにしている点が興味深い。三角隅持ち送り天井は、パミールの山間地帯で現在も民家に使われている例が報告されている。
キジルの三角隅持ち送り天井は8例が報告されているが、いずれも磨崖の中央にあるソグド溝付近に集中して見られ、ある限られた時期に流行したものという。
キジル石窟は天山南路中央部にあるクチャ郊外、ムザルト川北岸に開かれた石窟だ。同書とNHKの「シルクロード・甦るキジル大石窟群」でラテルネンデッケの窟を知った。キジル石窟の特別窟は事前予約が必要だったので、旅行社に依頼した。
一般的な見学窟が並ぶ谷西区からかなり歩いた谷東区に第167窟はある。石窟ガイドの馬媛(まえん)さん(現在は我々が当時お世話になった風の旅行社のガイド)が扉の鍵を開き、ひんやりした暗い窟内に足を踏み入れると、想像していたよりも窟内は広かった。そして見上げると天井もかなり高い。その上、層の一段が厚いので、上へ上へと視線を移すと、はるかかなたにぼんやりと見える程度だった。照明と言えば馬さんの照らすライトだけで、我々が用意してきたヘッドライトは何の役にも立たなかった。
話がはずれてしまった。もちろん、6-7世紀では、安岳3号墳(4世紀後半)よりもずっと後のものである。 では、バーミヤーンのラテルネンデッケはどうだろうか。
バーミヤーン第702窟ラテルネンデッケ 5-8世紀
バーミヤーンについて『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、ガンダーラより遅いと思われるが、ガンダーラは5世紀後半にエフタルの侵入によって、衰退しており、そのエフタルは6世紀中頃、ササン朝と組んだ突厥によって滅ぼされており、それ以後アフガンの仏教が再興したと思われる。バーミヤーン石窟は5世紀頃に始まり、中心は6-7世紀で、8世紀まで続いたと思われるということなので、上限の5世紀に第702窟が開かれたとしても、安岳3号墳よりも後のことだ。 フォラディ石窟第4窟ラテルネンデッケ
時代は明確にされていないが、バーミヤーン石窟の約2㎞南西部にある石窟なので、バーミヤーン第702窟と同じような頃に開かれたのだろう。安岳3号墳の参考にはならないが、壁画が剥落して露出した岩の色が木材の雰囲気がある。
ラクシャナー・デヴィー寺院 インド、バルモール 700年頃
『インド建築案内』 は、ごく初期の木造ヒンドゥ寺院として重要である。四隅に対角に梁を架けて次第に狭めていく方法で、インドの石造建築は、原則的にこの方法を模すことになるという。
このようにみると、ラテルネンデッケは広い範囲で天井の装飾に使われていたことがうかがえる。 安岳3号墳のラテルネンデッケはどこからきたのか、ますますわからない。
※参考文献
「中国美術分類全集 中国新疆壁画全集克孜爾2」 1995年 新疆美術撮影出版社
「シルクロードキジル大紀行」 宮地治他 2000年 NHK出版
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 日本放送出版協会
「インド建築案内」 神谷武夫 1996年 TOTO出版