『敦煌の美と心』で、サーンチーのストゥーパはアショカ王(在位前268~232)時代に造られた世界最古のものといわれ、古い伏鉢塔の形式で祠堂もみられ、祠堂の内部は方形の平面の室に井桁状に4つの梁をのせることを繰り返して積み上げるラテルネンデッケという天井架構の方式になっている。ラテルネンデッケの構成は、イランやアフガンで用いられた建築物の構架法である。今でもパキスタンやカシミール地方では、山岳民族の家で天井の明かり取りに用いられており、バーミヤンやキジル石窟にも見られるという。

『古代インド建築史紀行』は、第1ストゥーパは、直径36.6m、高さは傘蓋を除いて16.5mあるが、当初のストゥーパはその約半分の規模で、焼成煉瓦で築かれており、その煉瓦の形状や南側に建つアショーカ王柱との関係から、紀元前3世紀のアショーカ王によって造られたものと考えられている。その後前2世紀のシュンガ期において、当初のストゥーパを包み込んで増広され、現在復原されているような形態となったものとみられているという。祠堂も前2世紀だろうか。
『イラスト資料世界の建築』にはサーンチーの第1ストゥーパの横にラテルネンデッケが載っていて、説明もあった(下図の文)。


この様式の源流はどこにあるのであろうか。トルクメン共和国、イランとの国境に近いニサにパルティア王国時代の都城址がある。この宮殿の天井にこれがある。紀元前3-2世紀のものである。

『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、旧ニサの代表的な建物はこの都城のほぼ中央にある「方形の建物」と「円形の建物」で、ともに日干しレンガで構築されているという。上の宮殿天井は「方形の建物」のものと思われる。
トラキアの墳墓を探していると、トラキア THRAKIENというページの第154図に「シプカ:オストゥルッシャの墳丘:墓室墓(彩色装飾格天井):前4世紀中葉/後半」という画像を見つけた。墳丘に内蔵される彩色格天井を備える家型墓という。
家型墓室墓については、古代トラキアにおける大型記念墓・墓に描かれた絵画・埋葬習慣は、近年シプカ近くで発見された墓は、トラキア地方にしてはとても独特な形状をしており、トラキアと小アジア間の文化的つながりに関する論議を呼び起こした。中央の石棺タイプの形状の墓室Pl.61は、パサルガデ出土のペルシアのキュロス大王(前559-前529年)の墓を思い起こさせる。また他の細部に関してはアナトリア地方の類似物が想起される。例えば屋根の部分の鋸歯状装飾は、リュディア、リュキア、フリュギア、またカリアの葬祭建造物にある例証と比較される。寝台の先端部の形などは、やはりリュディアのいくつかの寝台と同じものである。さらにこれと関連して、エーゲ地方におけるペルシアの存在が現地民族の文化にとってどれぐらいの影響を及ぼしていたかも考慮する必要があるだろう。ギリシア=ペルシア戦争中(前517-前515)はその影響は直接的なものであり、戦争後は、ペルシア人(アレクサンダーの登場以前まで)や小アジアのギリシア植民都市との交易を通じての間接的なものとなったという。
確かに石造の平天井となっていて、格天井の中央にラテルネンデッケが表されているが、これらは切石を積み重ねられたものではなく、分厚い一枚岩を彫って造られたように見える。ラテルネンデッケという機能を持った天井ではなく、建物の装飾モチーフなので、それがトラキアの家屋に見られる構造なのか、どこかから入ってきたモチーフなのかわからない。
前4世紀中葉-後半というと、『アフガニスタン遺跡と秘宝』で紹介されたトラキアの墳墓よりもずっと古い。『トラキア黄金展』は、前359年にコテュスが暗殺されると王国は再び分裂し、前341年までにマケドニア王フィリッポスⅡ世によって征服され、以後統一されることはなかった。フィリッポスⅡ世の子アレクサンドロス大王はオドリュサイの地を占領したトリバッリ族を平定し、トラキアを完全にマケドニアり支配下においたという時代の墳墓になる。
このようなユーラシア西部にまで広まっていた天井の架構が、どのようにして高句麗まで伝わったのだろう。
※参考サイト
東京大学死後の礼節のトラキア THRAKIEN・古代トラキアにおける大型記念墓・墓に描かれた絵画・埋葬習慣
※参考文献
「敦煌の美と心」(馬競馳・児島健次郎 2000年 雄山閣)
「アフガニスタン遺跡と秘宝文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)
「イラスト資料 世界の建築」(古宇田實・斎藤茂三郎 1996年 マール社)
「古代インド建築史紀行」(小寺武久 1997年 彰国社)
「世界美術大全集東洋編15中央アジア」(1999年 小学館)
「トラキア黄金展」(編集古代オリエント博物館他 1994年 旭通信社)