そんなことを思っている時に 『ガラスの来た道』という興味深い本が出版された。そこには唐代に描かれた如来立像がガラス器を持っていた。
薬師如来像 8世紀 新疆ウイグル自治区アアイ石窟
同書は、アアイ石窟は、クチャにほど近い、突厥の南下を警戒する砦のそばに作られた仏教石窟で、砦の仏教徒のために8世紀に開削されたと推定されている(山田2020)という。
この「山田2020」というのは、山田勝久著「シルクロード 悠久の大地」(2020年 笠間書院)。
アアイ石窟は2005年に訪れた天山神秘大峡谷の中にあると現地ガイドの丁さんに聞いた。やや珍しい名称なので、記憶にとどまった。見学はできなかったが、暑いなかを歩き回った思い出が蘇ってきたので、峡谷については次回記事にすることにした。
中国新疆壁画芸術編集委員会編2009年
同書は、この石窟には明らかに後期ササンガラスのカットガラス碗であるガラス器を持つ、薬師如来が描かれている。この場所はオアシスルートから草原ルートへ入るため北上する交易路にあり、ガラス器の交易ルートの途中にある壁画としても興味深いという。
薬師如来は左手に薬壺を持っていることもあるので、それがガラス器に変わっても不思議ではない。
新疆ウイグル自治区アアイ石窟薬師如来の持つガラス器 『ガラスの来た道』より |
同書は、ササンガラスとみられるガラス器のある壁画の中で、キジル石窟は6-7世紀とされているが、莫高窟やクムトラ、アアイ石窟の壁画が描かれたのは唐代の8世紀と推定されている。しかしササン朝ペルシアは651年に滅びている。カットガラス器は伝来していたものを写したのだろうか、それとも図像として流行したものだったのだろうか。
このようにササンのガラス器など搬入ガラス器は供物を盛る器として使用され、そして仏陀や如来が持つ器としても描かれた。さらに北朝時代から製作され始めていた中国製吹きガラス器は一般の容器としてではなく、舎利容器など主に仏教関連のものとして使用されていく。つまり仏教とガラス製品は、この頃密接に結びついていくのである。何故なのだろうか?
一つには、仏教において、「瑠璃」は浄土を飾る七宝(金・銀・水晶・珊瑚・琥珀・瑪璃瑠璃)の一つとされている点があげられよう。当初この瑠璃が何を意味していたかは諸説あるがそれはさておき、東アジアでは仏教が広がるにつれて、「瑠璃」=ガラスとして、仏舎利或いは仏像、寺院等の荘厳にふさわしい材料として認識されていくのである。
もう一つには、魏晋南北朝時代に形成された、宝器としてのガラス器のイメージがあるのではないかと思う。『世説新語』に「(ガラス碗が)美しくてまことにすきとおって清らかである。ゆえに宝とされる」という文があった。また芸文類聚(巻73)には、晋の高官であり詩人の傳咸が「君子にキズがあったら君子でなく、ガラス器も汚れていたら宝器ではない」と述べる一文がある。この西方製ガラス器の「透明性」からくる「清らか」というイメージ、これが仏への供物を入れる器や仏たちが持つ器としてガラス器がふさわしい、と考える背景にあったのではないだろうか。
こののち中国や日本などの東アジアでは、ガラス製品の生産と製作自体は続いていくものの、主に仏教関連での物品としてであった。世俗の飲食容器や装飾品のためのガラス製品の生産製造は、近世まで見られなくなってしまうのである。ガラスと仏教が二重の意味で強く結びついたことがその背後にあるのではないだろうかという。
一方、日本では奈良時代に将来されたガラス器が正倉院に収蔵されていたし、その後戦国時代に国内でつくられていたこともわかった。
『戦国時代の金とガラス展図録』は、ガラス製品は平安時代後期から室町時代末まで輸入に頼るところが大きいといわれていました。しかし、一乗谷でガラス玉を製作していた工房跡が発見されたという。それについて詳しくはこちら
『ガラスの来た道』は、仏教と密接にかかわることとなったガラス器は仏教画にも取り入れられ、当時のガラス器がどのように使用されていたかを我々に示してくれる。有名なものは甘粛省敦煌莫高窟の壁画で、57窟をはじめいくつかの窟でガラス器を持つ仏陀像や菩薩像がみられる。そこには後期ササンガラスのカットガラス碗と思われるものをはじめ、いくつかのタイプのガラス器が描かれている。また敦煌の姉妹窟である楡林窟の壁画にもササンのガラス器が見られるという。
57窟の壁画にガラス容器は見つけられなかった。
薬師如来立像 初唐・貞観16年(642) 敦煌莫高窟第220窟北壁 薬師経変
『敦煌莫高窟3』は、東方薬師浄土に七仏と八接引菩薩が描かれる。初唐の壁画ではもっとも早い紀年名があるというだけで、一薬師如来が左手に持つ丸いものについての記述はない。
『中国新疆壁画全集 キジル3』は、主室はドーム状の天井になっている。その頂部に描かれる最大の如来坐像は、偏袒右肩に大衣をまとい、右手は胸前で印を結び、左手は一つの藍色の鉢を持ち、そこから白い蛇形のものが龍頭を高く持ち上げるという。
『ガラスの来た道』は、仏教はシルクロードを経て漢代の中国へと伝わった。4世紀頃には社会に浸透し、南北朝時代には国家や貴族層が仏教を保護するまでになった。続く隋唐においても仏教は帝室貴族の保護を受けて栄えていった。インドとの間に仏僧の往来が行われただけでなく、朝鮮半島や日本から多数の僧が中国へと渡り、仏教を学び帰国している。仏教が隆盛をほこる中で、隋唐では多数のガラス製品が仏教寺院にて用いられることとなった。このような状況を受けて、7世紀ごろから東アジアで出土するガラス器は、墳墓の副葬品ではなく舎利容器として埋納されたものが圧倒的に多いという。
西方製ガラス舎利容器 西安東郊清禅寺舎墓出土 陝西歴史博物館蔵
同書は、最も早いものの一つは西安市東郊清禅寺舎利墓(589年埋葬)から出土したガラス製舎利瓶であろう。これは後期ササンガラス器で、淡緑色透明ガラスに浮出切子を装飾に持つものであるという。
西方製ガラス舎利容器 陝西臨潼慶山寺出土 臨潼県博物館蔵
同書は、西安市臨潼慶山寺は741年に創建された寺であるが、その仏舎利塔の心礎からイスラームガラス器が舎利瓶として出土した。ガラス器は淡黄色をおびた無色透明の小瓶で、ガラス紐を網目状に貼り付けているという。
陝西省臨潼県博物館蔵慶山寺出土西方製ガラス舎利容器 『ガラスの来た道』より |
白瑠璃舎利壺 唐時代 ガラス製 高9.2㎝ 胴長11.2㎝
同書は、日本では奈良の唐招提寺の西国舎利瓶があげられる。小塔の金亀舎利塔の中で仏舎利を納めて安置された瓶は、飴色がかった透明の色調を持ち、太目の短い頚部と肩の張った平たい胴部からなるシンプルな初期のイスラームガラス器である。頚部には金属製の蓋が被せられており、これは後につけられたものである。753年の鑑真和上の渡来時に将来された仏舎利を納めており、和上と共に、ないしはやや遅れる頃に日本へともたらされたのであろうという。
唐招提寺蔵白瑠璃壺 鑑真和上請来舎利納入 『鑑真和上展図録』より |
同書は、これら舎利容器に転用されたイスラームガラス器は高級品ではなく、むしろ本来は何か製品を詰めた容器として西方から輸出された可能性も考えられる器である。一般的なガラス器の転用品としての使われ方が興味深い。
さて舎利容器は西方から搬入されたものだけでなく、中国でも7世紀ごろから製作されている。緑色の透明な鉛ガラスの小瓶で、宙吹きで作られ、膨らんだ胴部と細長い頚部を持つものが多い。他の用途のものが転用されたわけではなく、はじめから舎利容器として製作されたようだという。
中国製ガラス舎利瓶 陝西省臨潼慶山寺出土 臨潼県博物館蔵
同書は、甘粛省涇川大雲寺舎利塔基出土の石函(694年埋蔵)内の舎利瓶、西安市臨潼慶山寺塔下出土舎利瓶(741年建立)などが見られる。また朝鮮半島では中国製の舎利瓶も多数みられるものの、8世紀頃にはその影響を受けて自前で舎利瓶を製作していたと考えられるという。
同書は、大陸製の鉛ガラスの舎利容器は奈良時代の日本にももたらされており、奈良県法隆寺五重塔心礎埋納舎利瓶や、滋賀県崇福寺塔址出土舎利瓶がある。大陸に渡った仏僧が経典などと共に持ち帰ったものだろうかという。
紺琉璃杯 るりのつき 中倉 高11.2㎝ 口径8.6㎝ 重262.5g 正倉院宝物 宮内庁蔵
『ガラスの来た道』は、正倉院に伝わる紺琉璃杯は、紺色の杯の胴部に同色の円環を2個貼り付けて文様としたもので、東方に伝来した後に銀製の脚台が取り付けられている。長安の貼付円環文を出土した埋納容器からは日本の和同開珎が出土しており、正倉院の紺琉璃杯が唐との活発な交流の中でもたらされたことが伺える。またこの銀製の脚台がつけられた場所はわかっていないが、脚台に刻まれた龍の文様に百済系の工人が関与した可能性が、近年の研究で指摘されている(奈良国立博物館2012)という。
貼付け円環文ガラス器 西安南郊何家村空窖蔵出土 陝西省博物館蔵
『ガラスの来た道』は、この埋蔵品は長安城内に埋蔵された壺から出土したもので、約270点の金銀器と、ビザンチン銀貨・ペルシア銀貨・和同開珎など外国の貨幣と中国の貨幣などと共に出土しており、この壺は当時の活発な東西交流の様子を伝える、まさにタイムカプセルであったという。
陝西省博物館蔵西安南郊何家村空窖蔵出土貼付け円環文を持つガラス器 『ガラスの来た道』より |
貼付け円環文ガラス器 中国製または新羅製 慶尚北道漆谷郡松林寺五重磚塔基壇出土 韓国国立中央博物館蔵
『ガラスの来た道』は、緑色舎利杯は松林寺五重磚塔の基壇部から発見された亀形石函に納められた、黄金製の舎利厨子の中に安置されていたもので、さらに舎利杯の中には仏舎利を納めた緑色ガラス舎利瓶が置かれていた。舎利杯は緑色透明な杯の胴部に、同色の円環文を上下に各6個ずつ貼り付けて装飾としている。
なお舎利を納めたガラス舎利瓶は中国製または新羅製のものであるという。
韓国国立中央博物館蔵慶尚北道漆谷郡松林寺五重磚塔基壇出土舎利荘厳具 中国製または新羅製 『ガラスの来た道』より |
『ガラスの来た道』は、この次にもたらされたものがイスラームガラス器である。実は末期ササンガラス器なのか初期イスラームガラス器なのかの区別は難しい。いずれにせよ東方へはササンガラス器の終焉とほぼ切れ目なくイスラームガラス器がもたらされており、ササンガラスからイスラームガラスの技術系譜と、そして途切れない交易状況は興味深い問題であるという。
イスラームガラス皿 陝西省扶風法門寺地下宮殿出土 法門寺博物館蔵
『ガラスの来た道』は、陝西省扶風県法門寺地下宮殿からは8-9世紀頃の皿・瓶・杯・茶托付茶碗など、20点もの状態も内容も非常に素晴らしいイスラームガラス器が出土した。
法門寺は唐代に高い名声を誇った寺で多数の皇帝がその地下宮に宝物を奉納したが、874年に最後の奉納がなされた後、1000年以上の長きに渡り地下に埋もれたままであった。その宝物はガラス器を始め、金銀器、陶磁器、絹織物と非常に多様かつ多量で保存状態も良く、唐代の工芸技術や当時の東西交流を良く伝えるものである。各々の遺物の奉納年は不明だが、最後の奉納が明らかなため、納められたイスラームガラスの製作年代の下限もまた確定できる。法門寺のイスラームガラスは、イスラームガラスの編年にとっても重要な遺物なのである。
内面に線刻文で忍冬文を施して金箔をはめ込んだ忍冬文皿、文様をラスター技法で焼き付けた柘榴文黄文皿など、文様のある多数の皿という。
イスラームガラス瓶 陝西省扶風法門寺地下宮殿出土 法門寺博物館蔵
同書は、円環文や花形文を貼り付けた瓶などが見られるという。
法門寺博物館蔵陝西省扶風法門寺地下宮殿出土イスラームガラス瓶 『ガラスの来た道』より |
白瑠璃瓶 正倉院宝物 宮内庁蔵
同書は、日本にも8世紀ごろから多数のイスラームガラス器がもたらされている。正倉院に納められた白瑠璃瓶もイスラームガラス器である。その類例品は9-10世紀ごろとされている。実はこののち日本も含め東アジアにおけるガラス器は仏教と深いつながりを持つようになるという。
白瑠璃瓶 正倉院宝物 宮内庁蔵 『太陽正倉院シリーズⅠ 正倉院とシルクロード』より |
後半は唐時代の仏画と離れてしまった😆
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参考文献
「ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き」 小寺智津子 2023年 吉川弘文館
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所編 1999年 文物出版社
「太陽正倉院シリーズⅠ 正倉院とシルクロード」 1981年 平凡社
「鑑真和上展図録」 2009年 TBS