遼という国について『図説中国文明史8』は、契丹の勢力拡張は大規模なものでした。西は、もと突厥や回鶻に従属していた遊牧部族を滅ぼすとともに、タタールなど北方の諸部族を鎮圧し、今のモンゴル国オルホン河上流にあったかつての回の都市に鎮州(軍事基地の名)を置きました。また東は、唐文化の影響の強い渤海国を降伏させ、彼らを通じてさまざまな唐文化を吸収し、さらに東方の高麗(10-14世紀に朝鮮半島を統一した王朝)に遠征して、朝貢に同意し和議を求めるよう迫りました。契丹はきわめて短期間のうちに、突厥のあとを継いでもっとも中原を脅かす政権となりました。
しかし、ほんの短い間の繁栄をへて、遼朝は急速に混乱と衰退へと向かいますという。
その短い繁栄期に若くして亡くなった陳国公主の墓には贅を尽くした品々が副葬されていた。
いろいろな書き方があって混乱するが、「内モンゴル自治区哲里木盟奈曼旗青龍山鎮遼陳国公主駙馬合葬墓」は、後に行政区名が変わって「内モンゴル自治区通遼市奈曼(ナイマン)旗陳国公主墓」となった。
「燕雲台」という遼時代の歴史ドラマを見ていた。全てが史実とは思っていないが、当時の暮らしや服飾、室内のしつらえなどを知る手がかりとなるからだ。しかしながら、ガラス容器は登場しなかったように記憶している。
その主人公は第5代皇帝景宗の皇后となった女性。陳国公主は景宗と皇后の孫にあたる。
陳国公主墓(夫駙馬との合葬墓) 11世紀前半 内モンゴル自治区通遼市ナイマン旗
『図説中国文明史8 草原の文明』は、遼の陳国公主(王女)と駙馬(公主の夫)の合葬墓は、現在発見されている契丹皇族の陵墓のなかでもっとも完全な、また出土文物のもっとも多い墓です。公主が亡くなったのは遼の聖宗の開泰7年(1080)、時代は政治・経済・文化がもっとも華やかだった遼の中期にあたり、そうした豊かな経済基盤が、公主の埋葬をこれほど豪華なものにしたのでしょう。陳国公主は聖宗の同母弟だった耶律隆慶の娘で、亡くなった時はまだ18歳でした。駙馬の蕭紹矩は、聖宗の妻仁徳皇后の兄で、公主より先に亡くなり、公主は死後に夫の墓に葬られましたという。
合葬墓概念図
『図説中国文明史8草原の文明』は、墓室は漢族の身分制度に照らして建造されており、木造をまねたレンガ造りの墓室には壁画が描かれ、墓道・天井・前室・東西の側室・後室からなり、全長は16.4mあります。墓門の入り口の上には、彫刻されたレンガで木造風の屋根が作られ、装飾画が施してありました。このような構造は、宋代の中原北部の墓に多く見られますという。
墓道西壁壁画 11世紀前半
鞍には雲気を描いた布が掛けられた馬を牽く人物が描かれる。
陳国公主駙馬合葬墓墓道西壁壁画 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
側室のドーム天井概念図
同書は、側室と後室が円形のドーム形天井になっているのは、契丹人の住居であるフェルト製テントに倣ったものにほかならず、北方民族の特色をも兼ね備えていますという。
陳国公主駙馬合葬墓側室のドーム天井概念図 11世紀前半 『図説中国文明史8草原の文明』より |
後室の合葬状況
同書は、発掘現場の陳国公主と駙馬の合葬のようす。これは考古学者もはじめて目にした、契丹大貴族独特の葬俗の全貌であった。
契丹人は中原に侵入したのち漢文化の影響を受け、貴族はおもに土葬をおこないました。さらには豪華な墓室をつくり、車馬や生活用品を副葬品とするなど、珍しい宝物をあつめて墓室を満たす厚葬の風がおこり、契丹の埋葬はかがやかしい時期を迎えます。
陳国公主は、生前身分が高かったのはもちろんですが、死後も遼朝で最高級の墓を手に入れました。墓には精巧につくられた金銀器・玉器・水晶・瑪瑙等の製品が副葬されただけでなく、さらに身体を金や銀でおおい、頭からつま先まで、金銀でできた契丹貴族独特の死に装束を身につけました。『遼史』によれば、これら「遺体をおおった儀式用品」は、皇帝から贈られた物だったといいます(礼志嘉儀)。ここにも契丹貴族の厚葬の気風を十分にうかがうことができるでしょうという。
鳳凰文冠 1具 銀、鍍金 11世紀前半 開泰7年(1018) 高32㎝ 幅27㎝ 頭径18.5㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
陳国公主墓後室棺内 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
鳳凰文冠 1具 銀、鍍金 11世紀前半 開泰7年(1018) 高32㎝ 幅27㎝ 頭径18.5㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
『草原の王朝契丹展図録』は、陳国公主の仮面の上におかれていた冠。薄い銀板4枚で左右、前後を銀針金で繋いで成形し、台輪に挟みこんで留め、左右の両側に冠体よりも高い翼状の飾板を取り付けている。冠体の正面には左右に対向する鳳凰と、その上に火焔宝珠、周囲には雲文に花唐草を透かし、鳳凰の羽、雲文、花唐草の筋などを蹴彫によって細かく表わしている。
背面の上半は唐草を透彫するが、下半は銀板だけで透かしや文様を施していない。冠の頂には細かく花脈を透かした十二花弁の台座を置き、その上に髪を丸く纏め、髭をのばし、頭に冠を載せた道教の元始天尊坐像を据える。光背の縁には9個の霊芝が飾られている。このような双翼を持つ冠はアルホルチン旗遼墓などの女性の墓から3例が出土しており、契丹での貴婦人葬に好まれた装飾冠であったことが窺われるという。
陳国公主墓後室出土鳳凰文冠 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
同展図録は、左右の翼にも天空へと羽ばたく鳳凰を正面と同様の手法で表すという。
水晶首飾り 1連 水晶 11世紀前半 開泰7年(1018) 全長142㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主に付けられていた152個からならなる水晶の首飾り。大きさは大小不規則で、稜をいくつも立てた不定形の形状である。色は無色透明で、中央に孔をあけて連撃している。公主には髪に琥珀と真珠、首にこの水晶、胸に大形の琥珀3重の輪状の飾りが施されていた。その夫蕭紹矩公にも大形の現珀をはじめ多くの宝飾品が副葬されていて水晶のほか玉、琥珀、瑪瑙、真珠、金、銀など外国産と考えられる材料がふんだんに使用されているという。
陳国公主墓後室出土水晶首飾り 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
琥珀首飾り 1連 琥珀、銀 11世紀前半 開泰7年(1018) 外周長159㎝ 内周長113㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主が付けていた琥珀製の首飾り。大小2重から成り、外側は7個の親珠の間に5連の琥珀子珠を銀鎖で繋いでいる。合せ口の2個を除く5個の親珠は人の拳ほどもある大きなもので、龍や蓮華を浮彫している。子珠は最大で長さ2cm、直径1.5㎝で、棗の種の形であるが不整形で、大きさも異なっている。また内側は鳥、魚、動物、花などを細緻に彫った親珠7個の間に子珠を一連銀鎖で繋ぐ。内側の子珠は、外側の玉と比べ丸く成形しており、大きさも0.8㎝前後に統一している。最下の親玉の右に円筒形、左に露形の垂飾を下げる。夫の蕭紹矩公にも獅子、龍を彫った琥珀親玉に7連の子玉を繋いだ鎖と、龍、魚を彫った5個の琥珀製親玉とした2重の首飾りが副葬されていた。琥珀は中原では装飾具としては多くは用いられなかったが、契丹では装身具にしばしば用いられていたという。
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琥珀髪飾り 1組 琥珀、真珠、金 11世紀前半 開泰7年(1018) 縦14㎝ 横21.4㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主の髪飾り。厚さ1.1-1.35㎝の琥珀に線彫、透彫を加えて2個の龍を彫り、それを対向するように置き、その顎から4連の真珠を銀線に通して繋ぐ。龍形の裾の3ヶ所に小孔をあけ、そこに金製菱形の親垂飾を2段に垂らし、さらに1段目は左右、2段目は中央と左右に木葉形の小垂飾を下げている。陳国公主の服飾品は、金、銀、玉、琥珀などが多く、真珠は少ない。『契丹国志諸小国貢物』21巻によると、高昌国、亀茲国、于闐国、大食(イスラム圏の国)国、甘州、涼州から3年に1度、大使としておよそ400人余りが派遣され、契丹国に真珠、乳香、琥珀、瑪瑙などが献上されたという。真珠も、イスラム圏から渡来したものであろうという。
琥珀の龍の下に小さな葉のような歩揺がさがっている。歩揺は文字通り歩くと揺れる飾りで、騎馬遊牧民の装飾で紀元前よりあるが、こんなに後の時代にもその面影が残っていた。
陳国公主墓後室出土琥珀髪飾り 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
龍文腕輪 1対 11世紀前半 開泰7年(1018) 直径6.3-5.1㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、金製の腕輪で、陳国公主の右腕に1対で付けられていた。C字形を呈し、表面に2頭の龍が絡み合う姿を彫り、両先端に龍頭を肉彫で表している。全体の形は蜜蜂の巣からとった蜜蠟を原型製作に用いた蝋型鋳造によって作り、絡み合う体の線や鱗、蛇腹などを彫金によって細かく表現したと考えられる。公主の左腕には宝相華文を打ち出しした、これよりも薄い腕輪が同じように1対付けられていた。契丹の女性は腕輪を一腕に2輪付けることが慣習であったかもしれない。蕭紹矩公には、右腕に鎖状の単純な腕輪が1連巻かれていたという。
陳国公主墓後室出土龍文腕輪 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
龍文帯金具 8枚 金 11世紀前半 開泰7年(1018) 縦10.8-12.6㎝ 横6.4-6.6㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主の腰に、絹の帯に銀糸で綴じ付けられていた金製帯金具であるが、絹帯は腐食して失われている。大きさは大中小の3種で、中央から左右に小さくしており、いずれも頂を丸くして側縁と底縁は直線とし、四側ともに縁を立ち上げている。文様は昇り龍と下り龍を4個ずつ中央に大きく配し、その余白には波濤に屹立する岩を表している。龍の姿態には4タイプがあり、それを2個ずつ用いているところから龍を浮彫した型があって、それに金板をあてて打ち出したと考えられる。波や岩はそれぞれの大きさによって位置や数が異なっているという。
帯やベルトに金具や玉を綴じ付けることは唐時代から多く行われており、唐の影響を受けているが、これほど大きな金具を用いることはなく、契丹独自に発展したものと見られるという。
陳国公主墓後室出土龍文帯金具の一つ 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
鳳凰文靴 1足 11世紀前半 開泰7年(1018) 銀、鍍金 高37.5㎝ 底長29.2㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主の長靴で、遺体の脚に踵をあわせるように置かれていた。銀の薄板製で、脛部は左右2枚の板を側面で重ねて小孔をあけ、銀の針金を刺し通して留めている。また足は底と甲とを同じ方法で繋ぎ、脛部と針金で接合する。脛部の正面の外寄りに、翼を広げ、尾羽を長く伸ばして上方へと向かう鳳凰を線で表し、その周囲に先端に花文、霊芝風になった太い唐草を配し、この鳳凰と唐草の文様部だけ鍍金を施している。この銀に文様部だけ鍍金を施すのは唐時代に盛行した銀器の装飾法であるという。
陳国公主墓後室出土鳳凰文靴 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
線彫は彫線が楔形となった蹴彫によるもので、公主の鳳凰文冠と同様の技法である。この蹴彫は、唐時代の金銀器の文様表現に多用されており、その技術を継承していると言える。しかし、鏨使いが、唐時代は楔形と楔形が接し、連続した線に見えるのに対し、これは楔形と楔形の間隔が開いている点が異なり、唐時代よりは精緻さに欠けているという。
確かに楔形と楔形の間隔があいているが、破線と思えば違和感はない。
龍文化粧箱 1合 銀、鍍金 11世紀前半 総高22・口径25.5・底径21 内蒙古文物考古研究所
同展図録は、食籠形の大形の盒子で、中に紅、白粉を入れた銀盒子が納められていて、陳国公主の化粧具として副葬されたと見られている。中ほどに合せ口があり、合せ口をはさんだ蓋と身は帯状に段を設けており、蓋はその上にゆるい曲線を描いて頂部へと狭めていき、頂部はわずかに甲盛りをつけている。身も同様に底へと少しすぼめており、外開きの高台を付けている。
また側面は蓋の上段と身の下段は蹴彫で宝相華と鳳凰を右回転で4つずつ、また蓋と身の合せ目の帯には四花文を散らしている。高台の底縁には魚々子による小円文を巡らしている。文様部はすべて鍍金を施している。
合子は銀の鍛製で、蓋の表板と身の底板は別材を鑞付している。低い筒状で、身と蓋はほぼ同じ高さとなる。身の内側に別材で立ち上がりを設け、そこに蓋がはまるようにしている。このうちの1合に今は黒く変色しているが頬紅、もう1合に白粉の化粧品が入れられていた。罐も銀の鍛製、肩に張りのある小形の壺で、蓋は縁周りを平らにして、中央部に膨らみを持たせ、環状の蔓のような鈕を付けている。
龍文化粧箱に納められ、陳国公主、蕭紹矩公の棺台の前の供物台に置かれていたという。
化粧箱蓋
頂部には頭を中心において、その左にある火焔宝珠を銜えようと体を反転させる龍を大きく表し、雲を二つ尾の先近くに配している。
龍の表現は輪郭線を鏨で深く幅広に鋤取り、裏から打ち出してわずかに盛り上げ、片切風な鏨によって小さな波形をいくつも彫って鱗として、毛や雲の筋は細い蹴彫で表している。
銀器は唐時代に多く作られており、西安市何家村からは巧妙精緻な文様部だけを鍍金した銀器が数多く出土しているが、それらに比べると、文様の余白の部分に魚々子を打っていないことや、線彫りの鏨使いに精巧さは見られないなどの相違がある。その表現の大らかさが契丹の金銀器の特徴とも言えるであろう。年代が知られることからも契丹金銀器の基準となる作品といえるという。
陳国公主墓出土龍文化粧箱蓋 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
水注 1口 銀 高10.3・口径4.7・底径5.6 内蒙古文物考古研究所蔵
11世紀前 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、小振りの水注。銀板で各部分を鎚鍛し、蠟付して形成している。身はふっくらとした阿古陀形で肩が大きく張り、口は立ち上がりを高くして、肩に稜をたてた注口を付け、底には裾開きの高台を設けている。蓋は被せ蓋で、甲盛りがあり、頂に宝珠形の鈕をつけている。胴から底へとすぼまる所と口の立ち上がりに、丸みを帯びた扁平な把手を取り付け、把手上方の鎧と蓋の鈕際を鎖で繋いでいる。
中国における銀製のこのような把手付きの水注は陝西省か872年の年号を記した宣徽酒坊銘のある作をはじめ唐時代には少なからず見られる。概してそれらは胴がやや細く、縦長の形状を示していて、この銀壺のように胴が大きな作は見られない。東側室にあったもので、この室には青磁碗や托、匙など生活に関わる用具の副葬品が多く納められていたという。
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青磁輪花碗 1口 磁器 11世紀前半 高7・口径18.8・底径6 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、高台を削り出し、高台際から丸みを帯びながら体部をつくり、若干反り返る形で口縁にいたる。体部には均等に10ヶ所に棒状のものを押し当てて輪花を成形する。全般に軽く、胎土は精錬され灰色を呈する。釉は濃いオリーブグリーンの色を出しており、全面施釉後、畳付を中心に削り取っている。そして、僅かではあるが高台の内側に砂が付着している。契丹の領域内において、青磁はごく一部の例外を除いて、基本的には中原地方からもたらされたものが中心である。本作品は陝西省耀州窯で作られた11世紀前半の典型的な器形であり、越州窯とは趣の異なる北方青磁の優品であるという。
陳国公主墓東側室出土水注 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
盞托 1口 銀 11世紀前半 総高7.7・口径8.2・底径6.5 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、銀製の茶盞托。土居、羽、酸漿の3部分をそれぞれ、薄い銀板を鎚鍛して、蠟付している。土居(高台)は、底へと外反して、側面に「中」字のような符号を線刻する。また羽は浅く反らせ、酸漿は鋺形を呈している。中国で茶が飲まれるようになったのは唐時代からで、西安和平門から大中14年(860)の銘がある銀製の盞托が出土している。契丹で飲茶が行われるようになったのは唐の影響であり、公主の日常用具として副葬されたと見られる。東側室にの銀壺の近くに置かれていたという。
銅広口盆 1口 銅 11世紀前半 高19.2・口径57.3・底径32.3 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、朝顔形に底から口へと大きく開いた盆で、青銅を鎚鍛して成形している。
この盆の製作地はイランと考えられており、同地からもたらされたものは、このほかにもガラス製品が7点陳国公主墓から副葬品として発見されている。『契丹国志』にある大食国(イスラム圏の国)との交渉が具体的に窺われる。墓室の供物台の下に置かれていたという。
陳国公主墓東側室出土銅広口盆 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
細部の文様
同展図録は、内側の縁下の側面に圏線を数条線刻して、魚々子による連円文を上下に巡らし、その間に幾何学文を表し、その余白は魚々子を密に隙間なく打っている。また底には大きな円文を2条1組で3条、同心円状に線刻し、その内に六芒星文と円文を表し、余白に魚々子を打っているという。
陳国公主墓東側室出土銅広口盆の文様 11世紀前半 『草原の王朝契丹展図録』より |
水晶杯 11世紀前半 陳国公主・駙馬合葬墓出土
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参考文献
「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス 展図録」 編集九州国立博物館 2011年 西日本新聞社
「図説中国文明史8 草原の文明 遼西夏金元」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社