2012年、大阪市立美術館で「草原の王朝契丹 美しき3人のプリンセス展」を見た。その3人のプリンセスの中に遼の陳国公主(開泰7年、1018没)が含まれていて、さまざまな副葬品が展示されていて、その中にイスラームガラス容器が2点あった。
ガラス幾何学文瓶 開泰7年(1018) イスラームガラス 高25㎝口径7.5㎝ 底径11㎝ 内モンゴル自治区通遼市ナイマン旗陳国公主墓出土 内蒙古文物考古研究所蔵
『草原の文明契丹展図録』は、水平に広がる大きな口縁部と少し上部が拓ずった湯桶状の円筒形同部を円錐形長頸がつないでいる。胴部と頸部の高さの割合はほぼ同じである。わずかに凹んだ底にはポンテ痕が認められるため、宙吹き技法で作られた。比較的薄手の胴部に対し、底は少し厚めに仕上げられている。器体には気泡が見られ、一部に銀化が認められる。頸部、肩部と胴部に、同心円や幾何学文などを削りだしている。
器形は10-11世紀にペルシャで作られたガラス器と一致することから、本作品もその頃ペルシャで造られ、シルクロードを経由して内蒙古まで運ばれてきたものと考えられる。
陳国公主墓は1018年に埋葬されていることから、この長頸瓶については、ペルシャでの制作後あまり時間を経ずにプリンセスとともに副葬されたことになるという。
藍玻璃刻花葡萄唐草文盤の文様の繊細さとは反対に、胴部を巡る文様は雑な仕事のように感じる。
ガラス長頸瓶 開泰7年(1018) 東地中海地方製作(イスラームガラス) 高17㎝口径6㎝胴径9.5㎝底径5.8㎝ 同墓出土 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、逆円錐形の頸部は球形の胴部に取り付けられ、円座をともなう。紐状ガラスを網目状に10段重ねて厚手の口縁部と球形の胴部をつなぐ取手とするほか、胴部には乳状突起を5段にわたって作り装飾としている。底面にはポンテ痕がみられることから、宙吹き技法で器形をととのえられている。器胎には気泡が見られ、表面は一部銀化している。口縁部上面に、淡青色のエナメル彩色を加えている。
成分分析によれば、この作品は酸化ナトリウム(20.6%)を多く含んでおり、エジプトやシリアで製造されたガラスの組成割合とよく似ているため、東地中海地方で制作されたものと考えられるという。
器形自体が完成度の高くない作品に見える。そして乳状突起も形が整っておらず、配置も適当な印象を受ける。
それでもイスラームガラスは、珍重され、副葬されるほど貴重なものだったのだろう。
内蒙古文物考古研究所蔵陳国公主墓出土ガラス長頸瓶 1018年 『草原の王朝契丹展図録』より |
陳国公主墓出土のガラス容器は別の書物にも記載されていた。
『世界美術大全集東洋編5』で真道洋子氏は、無色透明で、表面が白く銀化している。底部から口縁部にかけて、なめらかに広がりながら立ち上がっている。底部の高台と胴部中央部の突起状の装飾は本体から削り出されており、このことから判断すると、製作の初期段階で鋳型や研磨技法を用い、本体はかなり厚手に作っていたと考えられる。突起部分はかなり鋭利に突出しており、高度な技が必要であったと思われる。このような研磨技法は、イラク、イラン方面で古くから技術伝統が存在しているが、この例のような器形と装飾の組み合わせはきわめてまれで、貴重な資料であるという。
イランで制作された浮出円形切子碗は6世紀頃のもの。その後このようなガラス器はすたれたのだと思っていた。器形も突起の形も異なるが、11世紀に突然出現したとは思われない。おそらく連綿と続いていたのだろう。
陳国公主の墓はいろいろな書き方があって混乱するが、「内モンゴル自治区哲里木盟奈曼旗青龍山鎮遼陳国公主駙馬合葬墓」は、後に行政区名が変わって「内モンゴル自治区通遼市奈曼(ナイマン)旗陳国公主墓出土」となった。
また、墓名も2つあるが、陳国公主は遼第6代皇帝聖宗の同母弟耶律隆慶の娘、夫の府(駙)馬は蕭紹矩、聖宗の妻仁徳皇后の兄で公主よりも先に亡くなり、公主は死後夫の墓に合葬された( 『図説中国文明史8』を要約)。
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参考文献
「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス 展図録」 編集九州国立博物館 2011年 西日本新聞社
「図説中国文明史8 草原の文明 遼西夏金元」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社