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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/09/09

戦国時代に国産のガラス


日本では、奈良時代以降ガラスの製作は廃れてしまったのと思っていた。ところが戦国時代には各地でガラスが作られたことが発掘調査で明らかとなってきた。

『戦国時代の金とガラス展図録』は、日本において原料からガラスそのものの生産が始まったのは、7世紀後半の飛鳥時代です。
それ以前の弥生時代や古墳時代のガラス製品は、ほぼすべて輸入品であったと考えられています。
一方で、7世紀後半に始まった国産ガラスの生産は、日本におけるガラス利用の衰退のはじまりともいわれています。奈良時代には日本産の鉛原料を用いた鉛ガラスが、玉類の製作をはじめ、塼、瓦、陶器などの緑釉の材料としても多量に使用されました。しかし、国産ガラスの生産は、奈良時代が終わる頃には大きく衰退します。
その理由は明らかになっていません。その後、平安時代後半期以降に中国から新しいタイプのカリ鉛ガラス製品が流入し、ガラス生産技術自体も受容することで、ガラスの生産や流通が復興していきますという。


一乗谷朝倉氏遺跡では舶来のガラスを珍重していただけでなく、ガラス玉を製作していた工房跡が発掘調査されている。

同展図録は、一乗谷ではガラス玉の工房跡が発見されたことにも 起因しますが、約100点のガラス玉が出土しています。内、92点がガラス工房跡から出土しました。ガラス工房跡は第130次発掘調査として、平成21年(2009)に実施した門ノ内地区で発見されました。調査から土塁に囲まれた上級武家屋敷に相当する規模の屋敷跡の隅、一乗谷東側の山裾に位置していることがわかっています。直径約50㎝、深さ約15㎝の大きさで残存する炉を確認し、中から鞴の羽口片が出土しています。また、山裾近くには越前焼大甕の埋設土坑が存在し、水や原材料などを貯蔵する施設と考えられます。炉跡と埋設土坑の間には土間があり、その直上からガラス玉やガラスなどの熔解したガラス片、熔解した鉛や銅、水晶、石英が出土しました。ガラス玉の原料と成り得る材料も出土していることから、ガラス玉のガラス種も生産していたことが窺えますという。
一乗谷朝倉氏遺跡ガラス工房跡 『戦国時代の金とガラス展図録』より


ガラス皿断片 型成形 カリ鉛ガラス 一乗谷朝倉氏遺跡出土
同展図録は、寺院が山際に展開する奥間野地区から出土した。透明性の高い紫色のガラス皿である。復元した口径は8.5㎝、器高2.1㎝である。型を用いた成形による製品である。型に欠痕があったようで、外面に小さな突起物がある。
寺院などが集中する近辺から出土していることから、肥後阿蘇氏浜御所跡と同じように祭祀に伴う遺物として捉えることが出来るかもしれません。
3カ所の遺跡から出土したガラス皿の共通点として、科学分析の結果からカリ鉛ガラスであることや法量、形状が非常によく似ていることをあげることができます。また、製作は型をもちいて成形されている点も共通します。色は違えど、同一工房で製作されたのではないかと考えられるほど、類似点を見出すことができますという。
ヴェネツィアのガラス製品はソーダ石灰ガラス。この一連の型成形皿はカリ鉛ガラスなので日本製である。
一乗谷朝倉氏遺跡出土リブ付装飾ガラス容器断片 

迫田岳臣氏による復元品 高さ2.1㎝ 口径8.5㎝ 
微妙な凹凸が単色の透明ガラスに景色を醸し出している。
ガラス皿の迫田岳臣氏による復元品 『戦国時代の金とガラス展図録』より


同展図録は、透明性の高い無色のガラスであるが、カリウム鉛ガラスであることや形状が非常によく似ているガラス皿が大分県や熊本県の同時期の遺跡から出土していますという。

左:ガラス皿断片 口径8.2㎝器高1.9㎝ 戦国時代 大友氏館跡出土 大分県教育委員会蔵
外面は風化し、白濁しているが断面などから無色透明ガラス皿であったことがわかるという。

右:ガラス皿断片 口径8.0㎝器高1.9㎝ 戦国時代 中世大友府内町跡出土 大分県教育庁埋蔵文化財センター蔵
鉛ガラス製の皿で、型成で製作されたと考えられる。全体の約3分の1が残存している。このガラス皿は風化が進んでおらず、銀化していない。透明ガラスの様相をよく残しているという。
左:大友氏館跡出土ガラス皿断片 右:中世大友府内町跡出土ガラス皿断片 『戦国時代の金とガラス展図録』より


左:ガラス皿断片 戦国時代 一乗谷朝倉氏遺跡出土 一乗谷朝倉氏遺跡資料館蔵

右:ガラス皿断片 戦国時代 大友氏館跡出土 大分県教育委員会蔵
大友氏館跡出土ガラス皿について同展図録は、外面に小さな凸部があるが、型成形の過程で、型に欠損部があったことを示している。一乗谷出土のガラス皿にも、ほぼ同じ位置に、ほぼ同じ大きさの凸があることは興味深いことであるという。
遠く離れた場所から、同一型で成形されたガラス皿が見つかっている。どちらで、あるいは何処でつくられたものなのだろう。
左:一乗谷朝倉氏遺跡出土ガラス皿断片 右:大友氏館跡出土ガラス皿断片 『戦国時代の金とガラス展図録』より


中世の日本でガラス製作が行われてきたことを示す出土品が多数出土している博多遺跡群というのがある。
『戦国時代の金とガラス展図録』は、博多は、奈良・平安時代と大宰府の外交施設として鴻臚館が現在の福岡市中央区に存在し、世界と日本の接点となっていた。その後、鴻臚館の終焉にともなって、中世初には船主が有力寺社と深く結びついた民間主導の私貿易を展開する。鎌倉幕府は度重なる蒙古襲来に備え、異国警固の体制を整備し鎮西探題を置き、国際貿易都市として栄えてきた博多は、大宰府に代わる新たな政治軍事の中心ともなっていく。
戦国時代の博多の支配は、大友氏・少弐氏・大内氏の3氏で争われるようになった。戦国時代末期になると大友氏・薩摩の島津氏・肥前の龍造寺氏による三つ巴の争いとなり、博多は戦乱に巻き込まれる。天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定によって、ようやく博多の戦国時代は終焉する。
中世の博多遺跡群では、ガラス工房をはじめとして鍛冶や様々な手工業の痕跡が確認できる。ガラス工房は遺跡内の各所で発掘されており、様々な製品が生産されていたことがわかるという。


ガラス坩堝 中世 残存最大高23.0㎝ 残存最大径16.0㎝ 厚0.6㎝ 博多遺跡群出土 福岡市埋蔵文化財センター蔵
同展図録は、博多遺跡群ではガラス製品を製作していたことを示す遺物として、ガラス製品の素材となるガラス種やガラスを熔かす坩堝、ガラス製品を製作する際に出てくるガラス滓が多数出土している。製作時期は中世初めとされる。
ガラス種や坩堝に付着しているガラスは、透明感のある深緑色をしており、出土したガラス容器・蓋やガラス玉の色調と非常に似ていることは興味深いことであるという。
表面に施釉された土器を裏返したような・・・。
福岡市埋蔵文化財センター蔵博多遺跡群出土ガラス坩堝 中世 『戦国時代の金とガラス展図録』より


ガラス種 左:幅3.5㎝ 奥3.2㎝ 厚1.4㎝ 博多遺跡群出土 中世 福岡市埋蔵文化財センター蔵
表面が風化して石ころのようだが、欠けたところから現れた本来のガラスが貴石のよう。
福岡市埋蔵文化財センター蔵博多遺跡群出土ガラス種 中世 『戦国時代の金とガラス展図録』より


ガラス容器断片 中世 博多遺跡群出土 福岡市埋蔵文化財センター蔵
型成形による不透明青色を呈するものや、透明感のある緑色を呈して亀甲文様が施され貫入状の細かなヒビが入るガラス容器が出土しているという。
青色の器はどんな文様なのか見当もつかない。
福岡市埋蔵文化財センター蔵博多遺跡群出土ガラス坩堝 中世 『戦国時代の金とガラス展図録』より


ガラス容器の蓋 右:径2.3㎝高2.3㎝ 博多遺跡群 中世 福岡市埋蔵文化財センター蔵
吹きガラス製法によるガラスの蓋などが出土している。ほぼ完形の蓋は風化して白濁しているが、断面観察から他と同じように透明感の深緑色をしていたようであるという。
器の蓋がこんなに嵩の高いものとは。
福岡市埋蔵文化財センター蔵博多遺跡群出土ガラス坩堝 中世 『戦国時代の金とガラス展図録』より

蓋付きガラス容器 博多遺跡群出土 中世 福岡市博物館蔵
蓋をもつほぼ完形の容器も出土しているが、器厚が非常に薄く脆弱な球形を呈しており、吹きガラス製法によるものであるという。
茶入れとして作られたのかな。
福岡市埋蔵文化財センター蔵博多遺跡群出土蓋付きガラス容器 中世 『戦国時代の金とガラス展図録』より


ガラス玉 長1.4㎝径0.35㎝他 博多遺跡群出土 中世 福岡市埋蔵文化財センター蔵
ガラス玉の一つの大きさは直径0.4cm-1.4cmと様々であるが、色調は青色系統の玉が多く出土しているという。
下段のマカロニのような玉はめずらしい。下方に図解する巻き付け法で作った後で小玉に切断していたのだろうか。
福岡市埋蔵文化財センター蔵博多遺跡群出土ガラス玉 中世 『戦国時代の金とガラス展図録』より


『戦国時代の金とガラス展図録』は、ガラス製品は平安時代後期から室町時代末まで輸入に頼るところが大きいといわれていました。しかし、一乗谷でガラス玉を製作していた工房跡が発見されたことは、ガラス工芸史の空白期間ともいわれる未解明部分を明らかにする嚆矢となりましたという。
ガラス玉及び溶解ガラス片 一乗谷朝倉氏遺跡ガラス工房出土 
一乗谷朝倉氏遺跡出土ガラス製遺物 『戦国時代の金とガラス展図録』より

4色のガラス玉 一乗谷朝倉氏遺跡ガラス工房出土
同展図録は、ガラス玉には4つの色があり、水色不透明と緑色透 明、紺色透明、白色不透明の玉が見つかっています。ガラス玉を科学分析したところすべてカリ鉛ガラスであることが判明しています。色に関係する科学分析については田村朋美氏の特別寄稿に譲ります。
飛鳥池工房遺跡では、古代の坩堝やガラス原材料とともに“たこ焼き型”ともいわれる小さな凹みを多数作り、凹みの中央部につきぬけるような細孔を施したガラス玉製作用の鋳型が出土しています。しかし、戦国時代のガラス玉製作では鋳型の出土例がなく、一乗谷の出土品や同時期の山科本願寺跡から出土したガラス玉の観察から、この時代のガラス玉製作の主な技法は、鉄などの細い芯にガラスを巻き付けて製作する“巻き付け法”だったと考えられますという。
一乗谷朝倉氏遺跡ガラス工房出土4色のガラス玉 『戦国時代の金とガラス展図録』より

同展図録は、一乗谷朝倉氏遺跡出土のガラス製遺物のうち、成品と考えられるものは、いずれも直径が2.5㎜-4.5㎜程度の小玉ですという。
一乗谷朝倉氏遺跡出土ガラス小玉 『戦国時代の金とガラス展図録』より

顕微鏡観察によりこれらのガラス小玉の製作技法を調査した結果、いずれも孔と直交方向に巻き付けの単位や筋状の蝕像(腐食の痕跡)、あるいは端面に巻き付け始めもしくは巻き付け終りの痕跡と考えられる突起が認められることから、芯棒に軟化した紐状のガラスを2-3回巻きつける、いわゆる「巻き付け法」によって製作されたことがわかりましたという。
巻き付け法なので螺旋状なのか。
一乗谷朝倉氏遺跡出土ガラス小玉の製作技法 『戦国時代の金とガラス展図録』より


ガラス玉・水晶玉 山科本願寺跡 室町時代 京都市考古資料館蔵
同展図録は、ガラス玉370点が出土している。ガラス玉には青、緑、白、黄、紫の各色があり、大きさは直径2㎜から8㎜のものまで様々である。中世の遺構からガラス玉が多量に出土することはめずらしく、このようなガラス玉は宗教的な荘厳具である天蓋や瓔珞などに使用されたものとして考えられている。水晶玉もガラス玉とともに出土した。
また、出土地点の近くから炉跡が確認され、ガラスの原材料となる石英塊やガラス種として考えられるガラス塊も出土していることから、ガラス製品の工房跡の存在を窺わせるという。
こんな風にまとめると、数珠のように思えてしまう。しかし、このようなガラス玉は、寺院あるいは仏間を荘厳するための特別なものだった。
京都市考古資料館蔵ガラス玉・水晶玉 山科本願寺跡出土 『戦国時代の金とガラス展図録』より

金湯玉・ガラス種・ガラス付着土師器皿 山科本願寺跡出土 室町時代 京都市考古資料館蔵
同展図録は、寺域中心部における工房跡からの出土資料である。ガラス玉や金銅製金具などは仏具に使用されたものと考えられ、特殊製品の生産に関しては寺の中心に取り込まれる形で行われていたと想定されるという。
京都市考古資料館蔵金湯玉・ガラス種・ガラス付着土師器皿 山科本願寺跡出土 『戦国時代の金とガラス展図録』より


金銅製幡 永正14年(1517) 滋賀県舎那院蔵
同展図録は、巻き付け技法によって製作されたガラス玉の装飾を多数もちい、永正14年(1517)に製作されたとされる舎那院(滋賀県)の金銅製の幡を紹介します。
舎那院は平安時代後期に後三条天皇の勅により、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わる長浜八幡宮の別当寺を務めていた新放生寺の子院です。明治時代初期の神仏分離令により新放生寺は廃され、唯一残された舎那院に仏像や資料等が移されています。
幡は仏殿などを荘厳するために掛ける装飾具の一つです。金銅製透彫の方形の飾金具を、蝶番とガラス玉を針金でつないで構成しています。ガラス玉に注目するといずれも巻きガラスで、ややいびつな作りですが、一乗谷のガラス工房で出土しているガラス玉と色調、技術ともに似ている玉を多く使用していますという。
一乗谷のガラス工房で製作されたガラス玉は、舎那院だけでなく、周辺の寺院にも供給されていたのかも。
滋賀県舎那院蔵金銅製幡とガラス玉 『戦国時代の金とガラス展図録』より




関連項目

参考文献
「戦国時代の金とガラス展 きらめく一乗谷の文化と技術図録」 2014年 一乗谷朝倉氏遺跡資料館