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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/11/09

第64回正倉院展2 小さな瑠璃たち



今回、瑠璃坏以外の瑠璃(ガラス)も、文字通り小粒ながらたくさん出陳された。小さなガラスが間隔をあけて、下側が銀色になったガラス板に並べられていた。
透明なガラスには小さな気泡が無数に入っているのが見て取れる。
小さな瑠璃それぞれの色がガラス板に映っているのもなかなか良かった。見せる、或いは魅せる工夫が窺われた。
また、近くの壁には拡大した写真が貼られたりして、鑑賞者への配慮がされているのだが、残念ながらその画像には、これらのガラスの透明、半透明の持つ雰囲気というものが消えていた。

瑠璃双六子 るりのすごろくし 北倉 藍色・浅緑・黄・緑
径1.3-1.5厚0.6-0.8
『第64回正倉院展目録』は、偏平な球形をした色ガラス製の双六の駒。
黄瑠璃双六子は鉄、浅緑瑠璃双六子と緑瑠璃双六子は銅を着色剤とする鉛ガラス製で、藍色瑠璃双六子のみ国内では産しないコバルトを着色剤とするアルカリ石灰ガラス製である。
興福寺西金堂の造営に関する文書である「造仏所作物帳」(『続正倉院古文書』第34巻、中倉16)の造玉に関する記事によれば、黒鉛を熱して丹を作り、さらに白石を混合したものを熔融して鉛ガラスが製造されていたことや、20万枚を越える多量のガラス玉が製造されていたことが知られるという。 
雑色瑠璃 ざっしょくのるり 中倉 色ガラスのねじり玉 径0.5-2.1
「雑色瑠璃」として整理されているガラス玉の一部で、捩玉(ねじりだま)と梔子玉(くちなしだま)と呼ばれている。融かした単色のガラスを金属の棒に巻き付けて丸玉を作り、まだ柔らかいうちに棒を押し付けて5-7弁を作り出したものが梔子玉、さらにその弁を摘んで左右に捩ったものが捩玉である。青色系統の玉は一般にアルカリ石灰ガラス製であるが、梔子玉と捩玉ではそれを素材とする例はごく僅かで、ほとんどが鉛ガラス製と考えられている。
中国寧夏族自治区固原市史道洛墓(唐・顕慶3年、656葬)から鉛ガラス製の捩り花弁が出土しており、このあたりに技術的系譜が辿れるかも知れないという。
碧瑠璃 緑ガラスのかざり玉 中倉
径2.5-3.7
水滴状に下膨れした形状の玉を一般に露玉という。
発色は緑ないし濃緑色で鉛ガラス製とみられる。
布幕や幡などの下端に飾りとして取り付けられたものと推定されているという。
雑色瑠璃 色ガラスのトンボ玉 中倉
径0.5-2.1
二色以上のガラス素材を用いて文様を表した玉をトンボ玉と称する。宝庫のトンボ玉はすべて横縞文様のいわゆる雁木玉で、現在一般に想起される同心円(目玉文様)や斑点を象嵌したトンボ玉は皆無である。素地の色は黄・褐・緑・淡緑・濃緑・赤褐色などがあり、そこに白・黒・褐・黄・緑色などの縞を乗せている。素材はほぼすべて鉛ガラスと推定されるという。
碧瑠璃小尺・黄瑠璃小尺 ガラスの腰かざり
碧:長6.4幅1.8厚0.5
黄:長6.9幅1.9厚0.4
半透明の色ガラスで作られた小さな物差し。それぞれ一端に穿たれた小孔に縹暈繝の長い組紐が通され、上方で双方は結ばれている。碧瑠璃小尺は銅を着色剤として緑色に発色した鉛ガラス製で、表裏の両側に金泥で二寸五分の目盛を付けている。黄瑠璃小尺は鉄を着色剤として黄色に発色した鉛ガラス製で、碧瑠璃小尺に比べてやや長く、表裏の両側に銀泥で三寸の目盛を付けている。
宝庫には刀子、魚形など組紐が結びつけられた宝物が多数伝わっている。それらの品は、奈良時代の組紐が結びつけられた宝物が多数伝わっている。本品も同様に佩飾具とされるという。
今でいうストラップのようなものだが、これは慶州出土の金製の銙帯に下げられた腰佩にもありそうに思えてきた。
正倉院宝物にはやはり組紐のついた魚形の瑠璃製品もあり、慶州出土の腰佩にも金の板を魚形に切ったものがある。
きっと東アジアでは、長い間ベルトから様々なものをぶら下げるのが流行していたのだろう。
これらの瑠璃製品を作るにあたって、それぞれの色のガラス板を先に作っておいたことが、正倉院に残る破片からわかっている。

瑠璃玉原料 ガラス玉の原料 中倉
不規則に割られたガラス板の破片で、宝庫にはおよそ2-8㎝大の破片が100片近く伝わっている。熔融したガラスを鉄板上に流し、薄い餅状に固まったものを破片にしたものとみられる。破片の端には表面張力による自然の円弧がみえ、元の餅状の塊は直径20㎝前後、おそらく坩堝一杯分のガラスであろうと推定される。
破片の色は黄・褐・緑・紺・白の系統がみられ、同系色でも濃淡の違いや中間色を呈するものがある。紺色の材質はアルカリ石灰ガラス、他色は鉛ガラスで、黄・褐色系は鉄分を着色剤にし、緑系は銅分を加えたものであるという。
2012年11月2日放送のABCテレビ「天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012」では、石川県の能登島ガラス工房で正倉院ガラスの復元を行っている場面が紹介されていた。
小さな穴が縦横に並んだ鋳型に色ガラスのかけらを置いていき、炉で加熱していた。
ガラスの主な原料は珪砂と鉛丹、鉛丹は正倉院宝物の「丹」にあたる。現代のクリスタルガラスと違わない。違うのはその分量だ。クリスタルガラスは今の日本の規格では、鉛丹が24%以上含まれるとOK。一方奈良時代では74%、現在の3倍にあたる。鉛丹は光沢と透明度を増す働きに加え、ガラスを熔け易くする働きがある。現代では1300℃以上の高温でガラスを溶かすが、奈良時代はその温度を下げるために、丹を大量に使っていたと考えられる。
熔けたガラスを鉄の棒で取り出し、更に熱を加えながら板や棒状に形を整える。形が整うと徐冷し、それぞれの形へと仕上げていく。
双六子は電気炉で830℃で溶かし、徐冷するというナレーションだった。
奈良時代には、74%もの鉛丹を混ぜることによって、830℃で溶けるガラスを作っていたのだ。

今回は「丹」も出陳されていた。

丹 ガラスや釉薬の原料、絵の具
丹は化学的には鉛の酸化物(Pb3O4)であり、鉛ガラスの原料または釉薬として、あるいは彩色の顔料として用いられた。
宝庫の丹の裏(つつみ)は、粉末状の丹を紙で包み、上部をとじて紙紐で結ぶ巾着状を呈する(図版は開いた状態)という。
実は最近敦煌莫高窟のことばかりまとめていたので、正倉院展でこの「丹」を見て、鉛と言えば鉛白の白い色とばかり思っていたが、鉛丹の丹色もあったのかと、ピントはずれなことに思いがいった。
この「丹」を出陳した意図が、加工する以前の瑠璃の板の破片と共に、瑠璃製品がどのようにして作られていたのかを紹介することだと理解できたのは、見学した翌日に放送されたABCテレビの天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012」を見たからだ。

関連項目

第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
鹿石の帯に吊り下げらた武器と新羅古墳出土の腰偑
慶州天馬塚の金製品

※参考にしたテレビ番組
「天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012」 ABCテレビ 2012年11月2日

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会