ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2012/11/06
第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
正倉院展は今年も平日なのに入館するだけで10分かかった。大混雑の中、例年以上に人をかいくぐって見学することとなった。
会場はまず東新館、続いて西新館と順路が設定されている。その間の通路から西新館へと入った所で、二手に分かれることになった。それは瑠璃坏を最前列で見る人の行列と、瑠璃坏の展示ケースの周りの人たちの外側から見るだけで良いという人たちだ。
最前列で見ようと思えば「只今待ち時間25分」。去年金銀鈿荘唐大刀を最前列で見るのにも行列ができていて、待ち時間が書いてあったが、実際にはそんなに長く待たずにすんだので、今年も長くはかからないだろうと、並ぶことにした。
小さな瑠璃坏の展示してある大きな部屋は、作品保護のために暗い。待ち時間に退屈しないように壁に瑠璃坏の大きな写真がかけてある。
瑠璃坏 るりのつき 中倉
口径8.6高11.2重262.5
坏の表面には輪っかがたくさん並んでいる。よく見るとどれも正円ではないが、本体に溶けこむことはなく、「貼り付けた感」がしっかりと見て取れる。
そして、輪っかの繋ぎ目もそれぞれ残っていて、全て真下にある。
それを見ながら、瑠璃坏の輪っかをどのように作ったかをおっちゃんとしゃべっていた。
繋ぎ目がこんなにはっきりと残るのは、ガラス棒を溶かしながら本体に輪っかを付けていったのではない
きっと輪っかを作っておいて、貼り付けていったのだろう
本体を熱しながら、全ての輪っかを一度に貼り付けたに違いない。そうしないと、長く熱せられた輪っかは溶けて本体になじんでしまう
しかし、なじんだ輪っかは見られない
同じガラス器でも白瑠璃碗は冷ました後にカットしていく。ゆっくりと時間をかけることができるので、全然違う
進むにつれて、人々の間から時々瑠璃坏が見えるようになってきた。あちこちから「思ったよりも小さいなあ」という声が聞こえてきた。
確かに写真よりも短めで、底の方がすぼんでいるように見える。それは写真の写し方や、ライトの当て方によるのだろう。
やっと展示ケースまで辿り着いたものの、係員の「立ち止まらないで見て下さい」という声に急かされながら見ることとなった。しかし、暗い所で小さなものを見ても、どのように作られたのかなど分かるものではない。
『正倉院展目録』は、坏の外面には計22箇の円環を貼りめぐらせ、(略)
製作はガラス胎を宙吹きで膨らませ、円環貼付した後に口縁を鋏で切り揃え、(略)
円環は径約3㎜のガラス棒を熱して融着させたものであるが、端部が重なることなく、継ぎ目はすべて下方に向き、かつ一周に8箇ないし6箇が正確に配列されているのは、この種の貼付装飾に熟練した工人の仕事を思わせるという。
これではガラス棒を熱して溶かしながら本体に融着させていったのか、あらかじめガラス棒を溶かして輪っかを作って置いてそれを貼り付けたのか分からない。
図版には坏の向こう側の内面が写っている。輪っかの痕跡は一様ではないものの、総じて上側が太く貼り付き、下側が細く貼り付いているように見える。
上から見ると、輪っか自体が透けて見えて、貼り付き方は返ってわからない。
なぜ輪っかを一度に貼り付けたと思ったかと言えば、 1999年に岡山市立オリエント美術館で開催された「ガラス工芸-歴史と現在」展のシンポジウムで、有松啓介氏が下の突起装飾碗の復元をした時の話を覚えていたからだ。
「突起は一回で全部の数をつまみ出さないと、再加熱したら形が変わってしまう」というようなことだったと記憶している。
突起装飾碗 イラン 5-6世紀 高7.8㎝径9.6㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
それで、上の瑠璃坏も、「あらかじめ輪っかを作っておいて、宙吹きしたボディが熱い内に、1回で全部の輪っかを貼り付けないと、再加熱したら、前に貼り付けていた輪っかが溶けて、平たくなってしまうに違いない」と考えた。
『古代ガラスの技と美』には、突起装飾碗の復元例が図解してあり、分かり易い(下図はその一部)。
同書は、ガラスが熱いうちにすばやく突起をつまみ出さなければなりません。突起碗は68個の突起がありますが、途中で温めなおすと先につまんだ突起が垂れてきたり、もう一度本体に吸収されてしまうので、吹き竿をまわしながら一度に突起を作るのは馴れるまではなかなか難しいと、この復元を試みた有松啓介氏は述べています。また、大きく口を開けるためにも温めなおさなければなりませんが、その際もやりすぎるとせっかく作った突起が熔けてしまうそうですという。
しかし、 作っておいた輪っか22個を一気に貼り付けたものという推測ははずれていた。
2012年11月2日、地デジのABCテレビの「天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012 瑠璃坏など宝物を紹介」という番組で、ガラス作家で研究家の由水常雄氏が、自分が復元した瑠璃坏何点かと登場していたが、瑠璃坏の製作場面はなく、本人の言葉もなく、すべてナレーションだった。
22個のガラスの輪を付けるには、23回ガラスのカップを熱したり、冷ましたりしなければならない
由水氏は、失敗例として、輪っかの少し外側にヒビが入った作品も出していた。輪っかから少し離れた箇所にヒビがあった。
それから想像するに、本体も輪っかも作っておき、一つずつ貼り付ける時に、部分的に熱していったのではないだろうか。それで、本体の熱せられて膨張した箇所と冷たいままの箇所の境目にヒビが入ったのではないだろうか。
11月4日、NHKの日曜美術館「華麗なるシルクロードの調べ 第64回正倉院展」では、石川県の能登島ガラス工房で、佐野安正氏が瑠璃坏の復元制作を行っていた。
それによると、輪っかの直径と同じくらいの鉄の棒に、溶かした瑠璃色ガラスを螺旋状に巻き付けていって、冷めたら1個分ずつ切り離し、ハンド・バーナーで加熱して輪っかにする。瑠璃坏の本体を炉で熱し、輪っかを一つずつハンド・バーナーで熱しながら貼り付けては本体を炉で再加熱する、という作業を繰り返していた。
素人の私には意外なことに、再加熱を繰り返しても、輪っかは熔けてしまわないのだった。
というよりも、加熱しすぎると輪っかの直径が小さくなってしまうようだった。それは表面張力によって、平たくなるという考えとは反対に、実際には表面張力によって輪っかの外縁に引っ張られて高くなり、直径が縮んでしまうらしい。
ただし、復元制作とはいっても、ハンド・バーナーは当時はなかっただろう。どのようにして部分的に加熱することのできる炎を作っていたのだろうか。
『第64回正倉院展目録』は、本品の故地については、大方の研究者が西アジア方面の産を支持している。ササン朝ペルシアの版図では白瑠璃碗(中倉68)のような厚手のカットグラスが特徴的に見られるが(主に6世紀)、貼付装飾をもった薄手の吹きガラスはさらに西方の地中海東岸やシリアに優れた作例があり(4-6世紀)、その影響を受けて7世紀頃に作られたとの見方がある。現存遺品では、中国西安市の何家村窖蔵及び韓国慶尚北道漆谷郡の松林寺磚塔から、底部形態や色調は異なるものの、近似した円環貼付のガラス器が出土している。当時の中国や朝鮮半島にこれを作り出す技術的な素地が見出せないことから、西方産のガラス器が東アジアに運ばれ珍重されていたと理解するのが妥当であろうという。
白瑠璃碗とはもちろんこのカットグラス碗のことだが、アルカリ石灰ガラス製であることは確認されていても、それがササン朝で作られた植物灰ガラスなのか、西アジアで作られたナトロンガラスなのかという分析は行われていないはずだ。
それについてはこちら
ところで、西アジアで作られた瑠璃坏は、当然唐の皇帝からの下賜品か、遣唐使が買い求めたものだと思って見ていたが、韓半島経由だったことがわかった。
金銀製舎利容器内の円環貼付のガラス器 韓国慶尚北道漆谷郡 松林寺五層磚塔発見
同書は、東野氏は、韓国の松林寺五層磚塔から瑠璃坏ときわめて近い器形とガラスの輪形装飾を有する緑ガラス器を安置した金銅製舎利容器が発見されていることから、瑠璃坏が朝鮮半島経由でわが国にもたらされた可能性を指摘しているという。
東野氏とは、『正倉院』(岩波新書、昭和63年)の著者の東野治之氏のことである。
絵画資料では中国・敦煌莫高窟や、新疆ウイグル自治区クムトラ石窟壁画(いずれも8世紀)などに、本品を彷彿とさせる青色や円文貼付のガラス器が確認されているという。
文献で見つかれば後日アップします。
関連項目
正倉院の白瑠璃碗はササンかローマか
田上恵美子氏の個展は今年も「すきとおるいのち」
新沢千塚出土カットガラス碗は白瑠璃碗のコピー?
※参考にしたテレビ番組
「天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012」 ABCテレビ 2012年11月2日
「日曜美術館 華麗なるシルクロードの調べ 第64回正倉院展」 NHK 2012年11月4日
※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「ガラス工芸-歴史と現在-展図録」 1999年 岡山市立オリエント美術館
「古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦展図録」 古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社