水墨画の画題に白衣観音図というものがある。 『水墨美術大系第3巻』は、観音は宗派をこえた広い信仰によってささえられ、宋以後、技法的にも図様的にも、さまざまなかたちで描かれてきた。水墨画の観音には白衣をきて岩上に安坐する姿を描いたものが多いが、時代を下るにしたがって観音の姿よりも周囲の点景物に作者の関心がうつっていくという。
白衣観音図 南宋(12世紀中頃) 掛幅 絹本著色 40.4X40.4㎝
『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この作品は、淡雅な色彩と洗練された瀟洒な形態の美しさにより、南宋の人物画のなかで、ひときわ目立つ存在である。やや顎をつき出すようにして坐る観音の姿態には信仰の対象というより、鑑賞的性格の強さがうかがえる。頭上に化仏が画かれていないことも(水墨の白衣観音の多くは化仏がない)、これとかかわるものかもしれぬ。肥痩のない衣文線は李公麟風の白描画の存在を意識しているが、この描線に胡粉による白線が添えられて、静かななかに華やかさを醸し出す。
観音の坐る蓮座の描写は仏画の枠のなかではあるが自然の花に近く、蓮華の蕊はさまざまに倒れ伏している。このような繊美な絵画は、単なる画工というより個性をもった画家の創作と考えたい。おそらく院体の花鳥画・美人画等をよくした人物ではなかったろうか。
なお、この「観音図」は大正3年7月17日付で高津村(現大阪市城南地区)大仙寺より久原家に譲渡された。田能村竹田もかつて大仙寺を訪れており、彼による本図の写しも現存しているという。
確かに蓮弁は優美で、蕊の上には蓮華状の敷物のようなものが見え、その上には着衣の端だろうか、薄い布帛が蓮弁のように重なっている。極めて座り心地が良さそうだ。
白衣観音図部分 南宋後期 笑翁妙堪(1177-1248)賛 掛幅 絹本墨画 119.0X44.2㎝
『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この「白衣観音立像」は、衣文線をかなり太い筆線でいて、姿態の大要をとらえ、顔貌、瓔珞、手のあたりの描写には細密な白描風の描写を用いている。衣文の大胆ともいえる大まかな筆使いは、故宮博物院所蔵の趙孟類筆と伝える「魚籃観音図」の表現に近く、 両者には様式的に何らかの関わりあいのあることがわかる。すなわち、趙孟類筆とされる「魚籃観音図」は、趙孟類の真蹟とは認めがたいものの、その特異な画風は、この「白衣観音図」の存在によって根拠のあるものとみる推察が可能なのである。また、本図に様式的に近い作例として、円覚寺の伝牧谿筆「観音図」があげられようが、円覚寺の作品よりも本図の方がさらに洗練されており、より本格的な作品といえるであろうという。
このような立ち姿の白衣観音は珍しい。特に裳裾の翻る描写が、一筆書きで素早く描いたようでいて秀逸である。
笑翁妙堪賛白衣観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より |
観音猿鶴図(三幅)うち観音図 南宋末元初(13世紀後半) 牧谿筆 大徳寺蔵 掛幅 紙本墨画淡彩 172.2X97.6㎝
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は、妙心寺の僧太原崇孚が大徳寺に寄付したものであるが(『正法山誌』)、牧谿画中の最高の作品として、最大級の賛辞の言葉で埋められてきた。ここでは、中唐以来変化と発展を示してきたあらゆる水墨画の技法が駆使されているが、彼の他の作品と同じように、深い自然観察にもとづき、対象が適確に把握されている。
筆墨法には、名式をもって呼ぶべき皺法や、線描法もなく、放縦なところや、目立ったところもない。すべては自然で、大らかにみえる。この印象は、牧谿の空間感覚に由来するのであろう。物象は孤立的ではなく、周囲の空間と統一的に、融和的にとらえられ、障壁画性と呼びうるような大きさを画面に与えている。彼は手びろく多くの題材を描いたが、この画の空間感覚は山水画的である。彼の山水画を、瀟湘八景図巻で考えるならば、その意図するところは、北宋的な大観的なスケールにある。本図のもつ大きさもその辺に起因するのだろう。観音も、猿も、鶴も普通の形体よりも大きく巨大にみえ、作品自体も、あたかもどこかの寺院の壁面にかえろうとしているようにみえるという。
岩の上に結跏趺坐しているが、ややそれを崩して描かれ、安堵感を醸し出している。白衣観音図はくつろいで岩に寄りかかり、崖下または水面を眺めているような、あるいは物思いにふけっているような図柄の方が多い。
観音図部分 元代(13世紀後半-14世紀後半) 伝牧谿筆 掛幅 絹本墨画 154.5X93.7㎝ 円覚寺蔵
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は大幅で礼拝像的な大きさをもっているものであるが、画家は岩石や竹葉の描写に観音より以上の関心をもって描写している。観音の姿は伝統的なパターンを踏襲したもので、垂下する衣文の形式的なまとめ方は、元代の仏画一般に広くみとめられるものである。
一方、丸みのある岩の形や岩、竹葉の描写は、元代文人画の李一派の描写形式と近似している。本図はこのように二つの別個の表現形式を一画面に混在させたものであるが、これは元代の職業画工の道釈人物画にみられる特色である。補墨のために画致をそこなっているところもあり、画家の手腕も第一級のものとはいえないが、種々の問題を提起する興味深い大幅であるという。
寛ぎすぎではありませんか観音さん。
ということで、牧谿筆と言い伝えられているが、元代(1279-1368)の職業画工であろうとされている。
円覚寺蔵伝牧谿筆観音図 『水墨美術大系第3巻』より |
観音図 元代・14世紀前半-後半 平石如砥賛 掛幅 紙本墨画淡彩 55.1X25.2㎝
『水墨美術大系第4巻』で海老根聰郎氏は、この画にみられる一種繊弱な線描は、作者が李公麟流の白描画を意識していたことを思わせるが、ここには、伝称作品や、後継者のものを含めた彼の作品に共通してみられる対象の起伏をたどっていこうとする意志はみられない。画家は、抽象的な円形の中に、それにみあった形に観音の形姿を抽象化する。そして唇に点じられた 朱、下方の衣の裏の青がひびき合い、線描と協力してリリックな印象を与える。作者のねらいもそのような情趣的表現にあったと思われる。本図は白描画が情趣的表現と結合した一例とみられ、これはそれなりに白描画の一つの展開とみられないこともない。
賛者平石如砥は、東巌浄日の法嗣、本図の賛末にあるように五山の一つ天童寺に、天暦2年(1329) 入寺し、至正17年(1357)に歿したという。
観音がすっぽり収まるこの大きな円は光背ではないらしい。
平石如砥賛観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より |
観音図部分 中峰明本賛 掛幅 紙本墨画淡彩 42.5X29.4㎝
同書で川上涇氏は、蓮の葉の舟に乗り、楊柳の枝を手にした観音を画く。顔と髪に胡粉を用い、唇には朱を点じ、眉を濃墨であらわす。風にひるがえる 天衣や布の裾の線の折れ曲ったところに、僅かに太く濃い個所が見 えるほか、淡墨の肥瘦のない筆線で慎重に画かれている。典型的な 白描画の一佳作。
図の上部に中峰明本(1263-1323)の賛があり、笹の葉のようだといわれた明本の筆くせは出ているが、印章もなく、「魚籃観音図」の賛とともに検討を要するという。
芦葉達磨図はあるが、蓮の葉に載る観音は珍しいのでは。
中峰明本の賛があるので、制作期の分かる作品かと思っていたら、それが疑われている。
中峰明本賛観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より |
観音図 元代・1330年以前 絶際永中筆 中峰明本賛 掛幅 紙本墨画 78.9X31.7㎝
同書は、本図の左下隅には、篆書の「幻住永中」の落款がある。幻住庵は、中峰明本が定居なく諸所に草庵を結び、それらすべてに幻住と榜したことにもとづくが、本図のそれは、平江(江蘇省呉県)のもので、永中とは、そこに中峰とともに住した禅僧、絶際永中のことである。彼は、中峰が平江を去った後も、ここに止まり、『鐔津文集』、 『稲門警訓』などの出版にたずさわり、この地で、至順元年(1330)前後に寂したという。
これは中峰明本の賛であることは確かな作品のよう。素人目ながら、確かに笹の葉のような筆づかいである。
この白衣観音図は、どこにすわっているのかもわからないが、よけいなものを排した閑かな図に見受けられる。
絶際永中筆中峰明本賛白衣観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より |
白衣観音図 正悟筆 元代・1324年以前 雲外雲岫(1242-1324)賛 京都国立博物館蔵 掛幅 絹本 127.2X54.3㎝
海老根聰郎氏は、観音は宗派をこえた広い信仰に支えられ、さまざまなかたちで絵画化されてきた。その表現形式や図様の多様なこと、また、さまざまな身分の画家達がその制作にたずさわったことはおどろくべきことである。水墨画の観音にかぎっても、さまざまなこころみがなされてきたが、水流から突出した岩上に安坐する観音を描いたものが、もっとも多いタイプであり、そこには、一定の描写形式があって、観音を白描風に精細に、背景を粗放な水墨画で描いていく。
この元僧、雲外雲岫の題賛のある作品も、ほぼそのようなタイプの作品である。ただ観音の形姿は、画工の描いた著色画から抜け出してきたような固さと、細部表現がのっていて、奇妙な茸状の岩座をかく、藁筆風の描写とアンバランスな状態になっている。なお、岩座中に隠し落款風に、正悟とよめる落款があるという。
平石如砥賛観音図と同様に、大きな円の中に観音が結跏趺坐している。
京都国立博物館蔵正悟筆雲外雲岫賛白衣観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より |
観音図部分 伝牧谿 元末明初(14世紀後半) 掛幅 絹本墨画 76.6X37.4㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の観音の形姿は、長い間くりかえし描かれてきたもので、よ く似た姿をしばしばみることができる。垂下する衣文の先端が独特の形にとがっているが、これも水墨といわず、著色の観音図にも広くみられるところである。
本図の目立つところは、岩石や水波をえがく粗豪な水墨技法であろう。濃墨の二、三筆で描く樹木、没骨の巾広いで肉付けされた岩石、波頭をあげる水波の描法、これらは速筆で一気に描き上げたようになかなか巧みであり、作者は山水画をもかきうる人であることを思わせるが、印象は、静寂な観音の住する境界とはうらはらにさわがしく、動勢に富んでいる。この印象は、明代の派の山水画にも通じるもので、本図にみられる水墨技法もそれに近いものがみられる。おそらく、浙江地方に伝統的な縦逸な水墨画の影響のもとにこの画もつくられたものと思われるという。
これもまた牧谿の名を冠した後代の作品のようだ。
観音に大きな頭光が表されている。
伝牧谿筆観音図 『水墨美術大系第3巻』より |
白衣観音図部分 清遠文林賛 元末明初 掛幅 絹本墨画 93.7X39.7㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の賛末に普慈比丘文林とあり、青遠の印がある。明初の禅僧円極居頂(1404年卒)の『円菴集』には、青遠禅師が昌国(寧波府定海県)の普慈寺に住する際の疏があるが、この賛者文林は、この清遠禅師ではなかろうか、もしそうとすれば、元末明初の人となり、描写形式からみた制作年代とも一致する。
宋あるいは元時代にさかんに描かれてきた水墨の観音図には一定の描写形式がある。それは、観音を比較的細緻な白猫体で仕上げ、背景の岩石や水流を粗放な水墨画で描く方式であるが、本図もほぼその形式になる。観音はしばしば類似のものがみられる形姿に描かれ、岩石は大まかな法で肉付けされる。この描法も、同時代の羅漢図などにみられるもので、本図は職業画工が手なれたパターンを組み合せて作り上げた作品のように思われる。水墨の白衣観音の作例としては、最末期のものと考えられる点、史的価値があるという。
明初以降は水墨画では白衣観音図は描かれなくなるという。飽きられたのだろうか。
清遠文林賛白衣観音図部分 『水墨美術大系第3巻』より |
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 2000年 小学館