お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/12/09

寒山拾得図 日本


日本でも寒山拾得図は描かれた。
 『水墨美術大系第5巻』は、一山一寧は 元の成宗帝の勅命によって正式の外交使節として日本に来朝した人であるが、日本にとどまって禅林を指導し、のちに盛行する五山文学の始祖ともいわるべき人であった。彼は「絵は無声の詩であり、詩は有声の絵である」として、詩画をともに鑑賞することを禅林間にひろめた人でもある。もっともこれは宋の詩人蘇東坡が、唐朝の文人画家王維を批評して「彼の詩の中には画があり、画の中には詩がある」と述べていることに由来するものである。そしてこの考え方が禅林における造型感覚の一つの指標となったことは確かである。一山一寧の著賛のある作品には、自画賛か、あるいは日本で画かれたと思われるものがあり、これらの水墨画が、中国において制作されたものとは思われず、むしろ日本における制作と考えられるものが少なくない。
14世紀初頭における日本の初期水墨画は、この一山一寧の著賛をもって登場しているという。

寒山図 一山一寧(1299年来朝、1317年没)賛 紙本墨画 71.2X29.2㎝ MOA美術館蔵
『水墨美術大系第5巻』で海老根聰郎氏は、寒山と拾得は、霊地として名高い天台山を背景にして生まれた伝説上の人物であるが、彼等の存在と、「寒山詩」がもてはやされたのは主として禅宗教団の中であり、その絵画化もそれに伴って行なわれたらしい。それらは、おおく禅余画家達によって描かれたらしく、彼等の創意によって、さまざまな顔貌、姿態、描写形式で描かれている。
本図は、寒山が経巻をひろげる姿、この形式はいくつか例がある。背景は一切描かず、衣服は、上衣も下衣も、やや未熟な筆墨で簡略に描いている。それに反して、頭部は、白描画風に緻密に描かれ、執拗な頭髪の描写、口や耳の精細さは、生ま生ましい現実感を与え、界尺を使ったような経巻、図式的な衣紋線と強い対照を示している。こういった描写形式は、南宋末から元初の禅余画に先例があり、本図はそれを学んだ作品と考えられるという。 
日本でいつ頃から寒山拾得図が描かれるようになったかも、この図と一山一寧の賛ではっきりわかった。
MOA美術館蔵 一山一寧賛 寒山図  『水墨美術大系第5巻』より


右:寒山図 可翁筆 鎌倉末-南北朝 紙本墨画 98.6X33.5㎝
同書で衞藤駿氏は、現存可翁画中屈指の名作である。本図は樹下に立つ弊衣蓬髪の寒山の姿を、禅味あふれる大胆な手法によって表現したもので、画致きわめて高く禅林系初期水墨画中の優品の一つ。濃淡両墨を鮮やかに使いわけ、必要最小限の筆致の中によく寒山の人格を活写している。樹木の表現また至妙の出来ばえであるという。
背中に細い線が描かれているため、真っ直ぐな背筋に見え、顔を上げて遠くを眺めているように見える。

左:寒山図 可翁筆 鎌倉末-南北朝 フリーア美術館 紙本墨画 102.5X30.9㎝ 
衞藤駿氏はまた、前掲の寒山図とほとんど同図容の作品で、僅かに背景の樹木を欠くことと、帯というか前に垂れた紐が異るのみである。髪の面貌の描写はさておき、衣文の処理と袴の墨はきにやや習作的緩慢さが看取され、印章も図版に比して「可翁」印の二重郭外側の巾がやや細目であり、いわゆる「仁賀」印も結体が細目である。しかし画趣は精妙で可翁画乃至は可翁画系作品を考える上に貴重な作例といえるという。
両腕から首回りの輪郭線が強すぎること、そして顔が前に突き出して描かれるため、猫背気味に見えるし、その眼差しはどこかを眺める風でもない。

この2点は明らかに大千恵紹賛の寒山図を手本としている。後ろに回した袖の描写が手本よりも煩雑である。
可翁筆寒山図 鎌倉末-南北朝 左:フリーア美術館蔵 右:不明  『水墨美術大系第5巻』より


寒山拾得図 鎌倉末-南北朝 伝可翁筆 対幅 紙本墨画 (各)89.0X34.2㎝
 『水墨美術大系第5巻』で衞藤駿氏は、本図は前掲可翁画に比して多少の泥くささをもつ作品であるが禅余画として考えた場合、やはり素人ばなれした相当の技術と禅味を感じさせるものがある。現存する数多い可翁伝稱作品中にあって本図などはかなり原本の画題に近い雰囲気を有しているものといえようという。
上図では後ろに手を組む寒山を斜め後ろから見た図であるが、本図では、それに似た姿は箒を木に立てかけて両手を合わせるのは拾得で、寒山は巻物を持っている。
可翁筆寒山拾得図 鎌倉末-南北朝  『水墨美術大系第5巻』より


寒山拾得図 明兆筆 14世紀後半-15世紀前半 対幅 東福寺蔵
寒山は岩に腰掛けて巻物をひろげ、拾得の方岩か木の根に腰を下ろす。拾得のうれしそうな表情、対する寒山も詩を読み聞かせて満足そうである。明兆は伝顔輝筆寒山拾得図から、自然の中で愉しむ二人を想像して描いたのかも。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図 東福寺展図録より

この記事を書いた翌年「東福寺展」が東京国立博物館と京都国立博物館で開催された。
同展図録は、本作における二人の奇怪な面貌は、中国の道釈画家・顔輝の作例に通じる表現であるという。
ということで、明兆が顔輝の寒山拾得図を見たことがありそうだ。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図部分 東福寺展図録より


寒山図部分 霊彩筆 室町時代・15世紀 紙本墨画 83.3X35.3㎝ 五島美術館蔵
 『水墨美術大系第5巻』で金澤弘氏は、蓬髪に弊衣を身につけ、手に帚や経巻をもつ図が多いが、本図は断崖を背に寒風に吹きされて孤高を誇る姿に描かれ、古来風吹き寒山として珍重された。鋭角的な形をもつ岩崖は法がほとんどみられず、形と墨の濃淡だけで面的に表わされ、樹枝、樹葉の表現も比較的単調である。一方風に吹かれる寒山の衣の線はさほど筆速を感じさせない肥痩のある曲線により、筆の当りは全くみられない。この背景と人物の描写の対比がますます寒山を浮きたたせている。
図右下に「霊彩筆」の落款と脚踏実地の印を捺すが、書体、印形ともに明兆の落款、破草鞋の印と全く類似し、その画系を示しているという。
五島美術館蔵 霊彩筆寒山図  『水墨美術大系第5巻』より


寒山拾得図 伝周文筆 室町時代・15世紀 1幅 紙本墨画 99・6×36・9 東京国立博物館蔵
e国宝は、ふつう寒山は巻物を手にし、拾得は箒を持つ姿で描かれる。本図は、2人が1幅の中に重なるように描かれ、頭が大きく体が小さいという特徴を示す。
賛を書した春屋宗園(1529~1611)は大徳寺派の禅僧である。笑嶺宗訢の法を嗣ぎ、永禄12年(1569)大徳寺住持(第111世)となったのち、石田三成らの帰依を得て山内に塔頭・三玄院を開いた。千利休、津田宗及など堺の茶人との親交で知られるという。
周文といえば山水画を連想するが、こんな寒山拾得図も描いていた。
伝顔輝筆寒山拾得図は彩色はされているものの、着衣の輪郭は太い線で一気に描かれているのとは対照的で、周文はほぼ墨を面的に使って没骨画のように描いている。
東京国立博物館蔵 伝周文筆寒山拾得図 室町時代  便利堂の絵はがきより


寒山図 雪村周継筆 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 113.3X40.2㎝ 所蔵不明 
寒山図 雪村周継筆 室町時代・16世紀 一幅 99.3X52.0㎝ 栃木県立博物館蔵
 『雪村 奇想の誕生展図録』は、詩を好み、天台山中の岩に一句ごとに書きつけたという寒山と、豊干禅師に拾われて天台山国清寺の下働きをしていたという拾得は、その奇矯な振る舞いによって特別視され、さらには二人を文殊菩薩の化身とする伝説が生まれ、絵画や文学の題材として好まれた。詩を好んだ寒山は巻物を手に、寺男の拾得は箒を手にして描かれることが多い。 
雪村もまた多く寒山拾得を描いており、もとは対幅だったと思われる作品で現在は寒山図のみが残る。いずれも衣文線がやや粗く、ポーズにぎこちない部分があるが、面貌の描写には3作品とも共通の要素が見られ、独特の表情を作り出しているという。
雪村筆寒山図2点  『雪村 奇想の誕生展図録』より

寒山拾得図 雪村周継筆  室町時代・16世紀 二幅 紙本墨画 各89.3X37.2㎝ 栃木県立博物館蔵
同展図録は、栃木県博本の寒山拾得図では、大きく右腕を伸ばして巻物を広げる寒山と、真上を向いて月を見上げる拾得が描かれる。両幅ともたっぷりとした衣文線と大きな動きが特徴的で、正面を向く寒山と背を向ける拾得といった対照性も相俟って、軽やかでリズミカルな双幅となっている。特に両手を広げて、背中を向け真上を向く拾得の姿は、呂洞賓図などにも通じるもので、雪村の得意としたポーズと言えようという。
栃木県立博物館蔵雪村筆寒山拾得図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


寒山拾得図 狩野山雪 江戸時代初期 紙本淡彩 102.0X130.0㎝ 京都市真正極楽寺(真如堂)蔵
 『水墨美術大系第8巻』は、山雪の款記や印記をもつ作品は必ずしも乏しくはないが、本図は大幅の遺作として注目に価する。印記があって、大形方形の「山雪」の白文印が認められる。
唐代の豊干禅師の弟子寒山拾得の二人は、漢画家の好画題としてよく描かれ、豊干禅師とともに扱われることもあるし、三人が禅師のペット虎とともに睡る姿も四睡図として好んで描かれるところである。
本図では、寒山拾得の二人の上半身を大きく表わすもので、前の経巻をもつは寒山で、そのうしろに半顔をみせているのは拾得である。本図にみられるような、二人を前後に重ね描いて左右相称的構図法でまとめ表わす方式は、山雪のみに認められるものとはいえないが、彼は特にこの種の構図法を好んだ画家であった。しかも本図の寒山拾得の面貌にみられる一種の怪奇性は、また山雪の人物画にしばしば認められるところであって、そうした面貌の特異性は、山雪の子永納の作品にもみられるという。
この顔貌の怪異さからすると、伝顔輝筆寒山拾得図の方がずっと穏やか。
真正極楽寺蔵 狩野山雪筆寒山拾得図  『水墨美術大系第8巻』より


三酸・寒山拾得図 江戸時代初期 海北友松筆 金碧障壁画 六曲屏風一双うち右隻の部分 各167.0X93.0㎝ 紙本金地著色 妙心寺蔵
『水墨美術大系第8巻』は、本図は、妙心寺琴棋書画図と樹法、法や金地構成におよんで同工異曲の作品である。制作もほぼ同時と思われる。
左隻の三酸図は大甕を中心に釈家の仏印和尚と道家の黄魯直、儒家の蘇東坡が桃花酸をなめて一斉に顔をしかめているところで、三教一致の比喩をあらわす。
右隻の寒山拾得図は、棕梠樹を背に寒山が巻子を開きみるところ、背後より箒を手にした拾得がのぞきこむ。琴棋書画図と同様、両隻は流水で図様を直結し金雲も相互につながりをみせる。落款様式も共通し、友松最晩年の作風を知る上での貴重な資料といえよう。琴棋書画図と同工の三酸図に対して、寒山拾得図は面貌描写に特異性が認められ、目に眼睛を入れ、衣襞には内隈つけ諸人物をいっそう大きくあつかう点も区別される。金雲をもって主景の周辺を遮蔽する画面構成は、次第に雑多な可視的諸要素を消却し、簡明洒脱な方向へすすんだ最晩年様式への傾きを示すものであろうという。
寒山は巻物を長く広げてその曲線が二人の配置を安定させている。この極端に長く広げた巻物は、一山一寧賛の寒山図から着想を得たのではないだろうか。
妙心寺蔵海北友松筆寒山拾得図  『海北友松展図録』より

 『海北友松展図録』は、二人ともまるで双子のようにそっくりに描かれているが、寒山にはトレード・マークである経巻を、拾得には箒を持たせることではっきりと区別している。不気味な笑みを湛える二人の顔は明らかに顔輝(宋末元初の道釈人物画家)の作と伝える「寒山拾得図」(東京国立博物館)に学んでおり、衣の形態や色調、沓の表現などもそれに依拠している。
ユーモラスな面貌表現と、略体人物図のそれにも似た気負いのない衣文描写がその要因をなしているのであろう。端正さを旨とする狩野派の人物図などとは全く対照的な、友松の個性が横溢する名品であるという。
妙心寺蔵海北友松筆寒山拾得図  『海北友松展図録』より


豊干寒山拾得図うち寒山拾得図(衝立一対部分) 長谷川等伯筆 桃山-江戸初期 64.0X62.0㎝ 紙本墨画 妙心寺蔵
 『水墨美術大系第9巻』は、衝立表裏一対の四画面を、真体豊干寒山拾得図と草体山水図とに描き分けている。各面に方形「等伯」印があり、最晩年使用印と区別される。
諸人物の頭髪は細勁な線描で一本一本丹念にとらえられるが、たとえば、慶長7年(1602)の天授庵方丈禅宗祖師図や最晩年作の智積院十六羅漢図の諸人物とくらべると、はるかに柔軟である。
寒山拾得の傍にみる松樹の幹は類例に乏しい手法だが、等春筆の人物花鳥図押絵貼屏風の布袋図などに近似した例がみいだされて興味ぶかい。この松については、天授庵方丈松鶴図などのそれと気脈を通じ合せているが、むしろ壬生寺蔵樹下仙人図に最も近似している。
草山水図は、円徳院方丈の草山水図に比して、濃淡の墨調や筆触に明快さがいっそうすすみ、等伯様草山水の定型といったものが指摘できる。しかも、草山水特有の深ぶかとした画面空間は、ここではとくに問われていないことも注意されてよい。両足院の草山水図と前後し定型化がすすめられたものと考えたいという。
長い解説なのに寒山拾得については記されていない。等伯がこんな寒山拾得図を描いたのか。
妙心寺蔵長谷川等伯筆寒山拾得図  『水墨美術大系第9巻』より


寒山図部分 法橋宗達筆 江戸初期 対青軒印 掛幅 紙本墨画 101.3X42.0㎝
 『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、「寒山図」は、ひろげた経巻でなかば顔をかくすという構図からみて、牧谿周辺の画僧蘿窓の筆と伝える「寒山図」か、その系統のものから図様を得たと考えられる。主として墨の調子で対象をとらえるところに共感したのであろうという。
伝羅窓筆寒山図はこちら
法橋宗達筆対青軒印寒山図 『水墨美術大系第10巻』より


寒山図 法橋宗達(左図のみ宗達法橋)筆 対青軒印
大千恵紹(元末明初 14世紀後半)の賛のある寒山図は後ろで手を組んでいて、日本でもそれを手本とする寒山図が多く描かれている。ところが、右の2図は背景の土坡と見間違うようなぼんやりした描き方で箒を描く。箒は拾得の持ち物なので拾得図で間違いないのだが、ちょっと遊んでいるようで面白い。左図はそんな箒さえ持っていないが。
法橋宗達筆対青軒印拾得図  『水墨美術大系第10巻』より


寒山拾得図 伝宗達筆 扇面貼交屏風の内 無款 紙本墨画 18.5X56.0㎝
同書は、宗達とされる水墨人物画中の仙人仏祖を扱った図の大部分が、「その姿態は当時舶載した万暦版の『仙仏奇踪』の繡像を臨摸したもの」であることをはじめて明らかにしたのは、相見香雨氏の大きな功績である「宗達の仙仏画と仙仏奇踪」( 『大和文華』第8号)。これによって、従来題名の不明であった作にも正しい題名が付けられたばかりでなく、『仙仏奇踪』(洪自誠撰、万暦30年)の挿絵の図像との比較により、それらの図の作画過程や構図上の特色が一層深く理解できるようになったのである。
ただ相見氏が「この奇踪画『仙仏奇踪』の図像によって描いた画のあることから考えても、あの屏風が宗達真蹟なることを傍証する」とされたのは、なお慎重に検討する必要があるという。
宗達が描いたのではないことを言いたいのだろう。
無款 扇面貼付寒山拾得図図 『水墨美術大系第10巻』より


銹絵寒山拾得図角皿 尾形光琳画・尾形乾山作 江戸時代・18世紀 一対 京都国立博物館蔵 
寒山図:高3.2 幅21.8X21.9 底径21.2X20.9㎝ 
拾得図:高3.1 幅21.8X23.0 底径21.0X21.1㎝ 
 『雪村 奇想の誕生展図録』は、光琳は、宝永6年(1709)に江戸から京都に戻って、弟の乾山と協働の陶器制作を開始した。本作の見込に描かれた寒山拾得の図像は定形図像を踏んだものなので、必ずしも雪村画をもとにしているとは言えないが、雪村が好んで寒山拾得を描いたことは確かであり、光琳が江戸での雪村体験を踏まえて制作したもののひとつである。
縁の内側に雲唐草文、外側には円窓内に花、その両側に雲唐草文を描く。この図柄とよく似たものが「探幽縮図」にあり、原画は龍と落雁の三幅対で、探幽により雪村筆とされていたという西本周子氏による指摘があるという。 
光琳画乾山作寒山拾得図角皿  『雪村 奇想の誕生展図録』より


寒山拾得図 尾形光琳筆 光琳百図より
宗達の拾得図を手本とした寒山拾得図のように思う。
尾形光琳筆寒山拾得図(光琳百図)  『水墨美術大系第10巻』より
 

『水墨美術大系第12巻 大雅・蕪村』には載っていなくても、蕪村なら寒山拾得図を描いているのでは、と検索したところ、興味深いページを見つけた。
それはKBS瀬戸内放送与謝蕪村が描いた“幻のふすま絵”を複製へ 香川・丸亀市「妙法寺」で、それによると、「寒山拾得図」は50年以上前に一部が破られたり、落書きされたりする被害にあいました。それでも妙法寺は寒山拾得図を多くの人に見てもらいたいと、画像をもとに複製品を作ることにしました。ただし、ふすま絵自体が完全な状態ではないため、当初は一部が欠けた状態で複製される予定でした。
ところが、「東京文化財研究所さんの方に、どうやら事故前の寒山拾得図の写真が残っていると、現存するというようなご連絡をいただきまして」、東京文化財研究所に残されていたのが1959年に撮影されたモノクロ写真です。寒山の顔の部分がはっきりとわかります。
このモノクロ写真の発見によって寒山拾得図は東京文化財研究所と妙法寺が共同で「完全な状態での複製」を目指すことになりました。
2020年に撮影した高画質の写真データも使いながら、2022年11月ごろには複製された「寒山拾得図」が本堂に納められる予定ですという。
そろそろ完成しているのでは。


          寒山拾得図 南宋-元


参考文献
「水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆」 田中一松 1978年 講談社
「水墨美術大系第8巻 元信」 土居次義 1978年 講談社
「水墨美術大系第9巻 等伯・友松」 武田恒夫 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有三 1978年 講談社
「海北友松展図録」 2017年 京都国立博物館
「雪村 奇想の誕生展図録」 2017年 読売新聞社
「東福寺展図録」 東福寺・東京国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社編 2023年 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション