ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2018/03/16
アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス
今回のイランの旅で、スーサからやって来たアレクサンドロスが、ここを通ってペルセポリスへと向かったとイランでは思われている場所が見えるところで写真ストップした。それはシーラーズ山脈からビーシャープールへと向かってザグロス山脈に入り、アボルハヤートという町へ出る前の切り通しのような地点だった。
Google Earthより
アケメネス朝ペルシアでは広大な版図に「王の道」が張り巡らされていたのは知ってはいたが、移動中はザグロス山脈の景観、中でも古代テチス海の鮮烈な色彩に目を奪われて、王の道が実際にどこを通っていたかまでに思いを馳せることができなかった。
『ペルシア帝国』は、ザグロス山脈南方の小地方、ペルシアから出発して、キュロスとカンビュセス各王の軍隊は、広大な領土を席巻した。ダレイオスの時代に版図は、バルカン半島からインダス河渓谷、サマルカンドからナイル河第一瀑布にいたるまで拡張した。帝国中心部の3首都ペルセポリス、スーサ、エクバタナの各王宮から、国道(「王の道」)が延びて、交通を可能にしたという。
『古代オリエント事典』は、20-30㎞間隔で宿駅が、行政区の境界地点や渡河地点など要衝の地には関所や衛兵所が設置され、交通の便と安全がはかられたという。
スーサからペルセポリスまでのルートは、この地図を見てもアボルハヤート辺りは通っていないようだ。
ある新聞の書評欄で『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』という本が紹介されていたので、早速購入した。
同書は、スーサからペルセポリスへ至るには、ザグロス山脈を越える「王の道」をたどらねばならない。その道は具体的にどこを通っていたのだろう。それを知りたくて文献を調べていくうちに、米国の古代史研究誌に発表されたスペックという研究者の論文がこの問題を扱っていることがわかった。
スペック説の当否を検証するため、私自身がイランで実地調査を行うことにした。
アレクサンドロスは前331年12月下旬にペルシア帝国の都スーサを出発し、前330年1月末にペルセポリスへ到着した。この間の経路については、ローマ時代に書かれて現存する5篇の大王伝のうち、アリアノス、クルティウス、ディオドロスの三人が比較的詳しく記述している。それによると、アレクサンドロスはスーサ進発後、山岳部族のウクシオイ人と戦ってこれを制圧し、それから副将パルメニオンに輜重部隊を委ねて平坦な道を進ませた。彼自身はペルシア門と呼ばれる隘路でペルシス州総督アリオバルザネスの軍隊を破り、ペルセポリスを占領した。しかし3篇の記述には多くの食い違いがあり、具体的な経路も極めて曖昧である。
スペックは、ザグロス山中で実地調査に基づいて、まったく異なる結論に到達した。
スペック説は単なる遠征経路の復元にとどまらず、アカイメネス朝時代の「王の道」に対する根本的な見直しを含んでいる。詳細な実地調査をふまえた彼の新説は、近年アレクサンドロス研究における最も注目すべき成果であるという。
アレクサンドロスはスーサからペルセポリスまでは「王の道」を辿り、その道はザグロス山脈の中を通っていたのだった。
『ペルシア建築』は、スーサからペルセポリスまでと、スーサからエクバターナまでのルートは舗装さえしてあった。これらはすべてローマ帝国の道路網の先駆をなすものと言えるという。
北西から南東方向に数本に分かれるこのザグロス山脈の中を、舗装された「王の道」が通っていたとは。道路は険しい山中は避けて、できるだけ平たい場所に造ったのかと思っていた。
『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』は、アカイメネス朝時代、スーサ~ペルセポリス間の「王の道」には、夏のルートと冬のルートがあったと考えられる。夏のフーゼスタン平野は猛烈な暑さだが、ザグロス山中のカールーン川沿いはそれほど暑くなく、冬には積雪がある。ディオドロスの記述によると、スーサの東の渓谷を抜けた先にペルセポリスへ通じる快適な山の道があり、これが夏のルートを指すと思われる。一方、平地のベフバハーンを経て、ファーリアンないしヌーラーバードを通る経路は冬のルートであったろうという。
確かに、旅した5月でも、フーゼスタンの土地が一番暑かった。午後には40度を超え、50度近くに達するところもあったほどだ。
Google Earthより(スーサ~ペルセポリス間は直線距離だけで500㎞を超える)
ザグロス山脈はGoogle Earthでこの程度の縮尺では幾筋かの波のように並んでいるが、もっとズームしていくと、夥しい数の峰があり、更にそれを横断して浸食された渓谷もあり、かなり複雑である。その中を著者の森谷公俊氏はスペック説が正しいかを実際に走破し、あるいは危険な山岳地帯に登り、時にはスペック説にも間違いがあることを確かめた。
今回のイランの旅はペルセポリスにもスーサにも行ったし、ヌーラーバードでは昼食もしたので、ザグロス山脈にも平地もあれば集落があることもいくらかは見てはいたのだが、山脈が幾筋もあって、その谷筋の水の流れる土地には今も人々の暮らす集落や町が点在することなどは、この本に出会わなければ知らずに終わっていただろう。
ところが、その後森谷公俊氏が『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』より以前に『図説アレクサンドロス大王』を出版されていることを知り、入手すると、この間の「王の道」の風景写真の多くがカラーで載っていた。前者は丁寧に地図が提示されていたが、写真は小さく白黒だったので、合わせて見ていくとザグロス山脈の表情が豊かに伝わってくる。
また、そのザグロス山中は、ただ通過したのではなく、ペルシス州総督アリオバルザネス率いるペルシア軍を打ち破りながらの行軍だった。それが実際にどこで行われたのかを森谷氏たちは実地調査したのだが、アレクサンドロスほどではないものの、そこにはさまざまな困難が待ち受けていたことが『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』で活写されている。
『図説アレクサンドロス大王』は、すでに真冬であった。だが12月末、アレクサンドロスはスーサを出発し、帝国の首都ペルセポリスへ向かった。冬のザグロス山脈では積雪が2mを越える。なぜわざわざ厳冬のザグロス山脈を踏破してペルセポリス占領を急いだのか。
現存する大王伝は直接語ってはいないが、兵士達の略奪欲である。古代の戦争において、敗者から略奪するのは勝利者の権利であった。マケドニア兵士にとって、征服したペルシア帝国の諸都市で思う存分に略奪することは当然の権利であり、また夢でもあったろう。ところがバビロンもスーサも平和裏に占領されたため、略奪は許されず、兵士の不満が募ったに違いない。アレクサンドロスは兵士らの不穏な空気を察知し、彼らの不満を解消する必要に迫られた。それゆえ彼は春の訪れを待つことなく、早期ペルセポリス占領を果たそうとしたのではないかという。
逃亡中のダリウス3世はエクバタナにいる。
『図説アレクサンドロス大王』は、マケドニア軍のペルセポリス滞在は4ヵ月の長きに及んだ。これも補給上の理由による。冬の間、ペルセポリスからザグロス山脈の東側を通って現イスファハンに至る道は氷に閉ざされる。それゆえダレイオス追撃には春の終わりを待たねばならなかったのだ。
5月末、出発を前にしてアレクサンドロスは宮殿に火を放った。ペルセポリス炎上、それは東方遠征における最も劇的にして最も謎めいた事件である。
アレクサンドロスはあらかじめ宮殿から金銀の塊や重要な貴金属製品を接収し、エクバタナへ運ぶ準備をした。そして5月末、兵士達に一日だけ宮殿の略奪を許した。翌日、アパダーナと玉座の間の大広間に可燃物を敷き詰めて火を放ち、大広間を支える柱の大半を破壊した。こうして宝蔵と後宮を含む4つの建物が炎上した。それから直ちにマケドニア軍はペルセポリスを発ち、ダレイオス3世に向かって進軍を開始したのであるという。
こんな風にアケメネス朝は滅亡した。それと共に、彩釉レンガという壁面装飾も消えてしまう。
下の2点はスーサ博物館に所蔵されているものだが、スーサはマケドニア軍の略奪を受けなかったにもかかわらず、このような美しい壁面装飾は後の世に受け継がれなかった。
以前はアレクサンドロスが破壊したために彩釉レンガが絶えてしまったと思っていたが、破壊には関係なく、このような壁面装飾を求める王族や貴族がいなくなってしまったために、職人が伝え続けることができなかったのだと考えるに至った。
その後施釉タイルが再び壁面を装飾するようになるのは紀元後9世紀のことである。
そして、このような一枚のタイルに多色釉で絵付けするハフト・ランギーは、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群のなかのウスト・アリ・ネセフィ廟(1360-70年)が初現であるという(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)。
→アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから中央アジア
参考文献
「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」 森谷公俊 2017年11月30日 河出書房新社
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「ペルシア帝国」 知の再発見双書57 ピエール・ブリアン 小川秀雄監修 1996年 創元社
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館