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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2024/03/01

オーヴェルニュの黒マリア


ルピュイの司教座聖堂の内陣には小さな小さな黒い聖母子像が祀られていた。

また、衣装を着けていない聖母子像が『Vierges romanes』に記載されていた。
それは、図版で見た限りでは、ふっくらした着衣に金色の草花がちりばめられ、貴石を象嵌した帯状のものを聖母は三連、幼子は二連肩に巻いている。
こんなに荘厳されているのに、別の衣装を着せる必要があるのだろうか。現在被っている冠もきらきらして別のもののようだし。
ルピュイ ノートルダム司教座聖堂内陣の聖母子像 Vierges  romanes より


ルピュイ司教座聖堂に残るもう一体の聖母子像
The Treasures of Romanesque Auvergne』は、聖遺物箱の中央には、1794年6月8日、革命の混乱の中心でマルトゥレ広場で焼かれた黒い聖母のコピーがある。ヴェランクのデッサンとフォージャドサンフォンの描写をもとにフィリップケッペランが制作した。いわば、イコンのような顔、色彩豊かな目は魅力的である。最初の像の起源は依然として謎に満ちているため、多くの伝説が生まれた。
15世紀以前には聖母像が黒かったことを裏付けるものは何もない。すべての黒マリアの場合と同様、その色の起源は不明である。
木材に古色を付けることから始まり、つづいて18世紀に上塗りした塗料によって黒くなったのだろうかという。
ルピュイ司教座聖堂のもう一つの聖母子像のコピー La Cathédrale Notre-Dame du Puy-en-Velay より


黒い聖母像について『Vierge romane』は、起源はまだ解明されていない。しかし、一つ確かなことは、ロマネスク様式の聖母子像は黒い像としてつくられたのではない。1950年代に、当時は黒だったヴォクレールとオルシバルの聖母の修復により、黒い絵の具の層の下にオリジナルの彩色が発見された。
他の彫像の調査により、この仮説が確認された。
クレルモンのマルサとノートルダムドラボンヌモールの聖母は1830年代に黒く塗られた。無原罪の御宿りと呼ばれる黒い聖母と幼子は、何故、何時できたのだろう?
最古の文献はロマネスク以降のもので、中世末期である。15世紀、マルグリトドートリシュ Marguerite d'Autriche の時祷書には、白いマントを着た黒マリアであるルピュイの聖母が、ルイ11世によって提供された玉座に座っている様子が描かれているという。
マルグリトドートリシュ(1480-1530)とは23年春に訪れたブーカンブレス Bourg-en-Bresse にブル王立修道院を奉献した女性である。

同書にはヴォクレールの聖母子像が黒かった頃の図版があるが、
ヴォクレールの聖母子像 Vierges romanes より

現在のヴォクレールの聖母子像  Vierge de Vauclair は、上図版の聖母子像とは似ても似つかないように見えるが、額の左右に分けた髪が似ている。角度によっては上図版と同じように見えるかな? 
ヴォクレールの聖母子像 Vierges romanes より


教会に祀られているマルサの聖母子像
『Vierge romane』は、916年にはノルマン人の侵入から町を守り、1631年にはペストから町を守ったと記録されているという。 
教会内陣に祀られたマルサの聖母子像 Vierges  romanes より

マルサの聖母子像
The Treasures of Romanesque Auvergne』は、マルサ教会の名声は、19世紀に衣装が金メッキされ、顔が黒く塗られたロマネスク様式の聖母であるという。
聖母子像は古いものかも知れないが、現状のような外観になったのは19世紀だったとは。
マルサの聖母子像 The Treasures of Romanesque Auvergne より


ノートルダムドラボンヌモール聖堂の聖母子像 La Vierge de Notre-Dame-de-la-Bonne-Mort à Clermont クレルモンの司教座聖堂蔵
『Vierge romane』は、1972年にクレルモン司教座聖堂の礼拝堂で発見された。黒い色は1830年代のものという。
ボンヌモール bonne mort を日本語にすると「善き死」である。

『黒マリア』は、ノートルダムドラボンヌモール「善き死の聖母」という象徴的な呼名を持つオーヴェルニュ州の首邑クレルモンフェランの黒マリアは石棺の中から発見されたものであるし、同じ呼称を持つ同州ビョン(Billom) のサンセルヌフ教会に1936年まで存在していた黒マリアは、墓地から発見されたものである。
クレルモンフェラン のノートルダムデュポール (港の聖母) 教会の黒マリアやシャルトルのそれをはじめ、多くの黒マリアは教会の地下祭室に祀られているが、そこはまさしく聖人の遺骨などの置かれた墓所なのだからである。そして、エミールマールも言うように(『ガリヤにおける異教の終焉』)、起源の古い教会はほとんどかつてのドルイド教の聖地の上に建てられているのであり、地下祭室の多くがケルト以来の墓所であった可能性は極めて高いのだという。
ただし、フランス・ロマネスク散策 Balade dans l'Art Roman en Franceクレルモンフェランは、ポールは港ではなく、ポール Portという名は、ラテン語で「倉庫」を意味するPORTUSという名の地区に、教会堂が建てられたことに由来しています。この界隈はかつて交易の場でしたという。
ノートルダムドラボンヌモールの聖母子像 The Treasures of Romanesque Auvergne より


しかしながら、黒マリアだった像もある。
『Vierges romanes』は、最新の研究によると、黒マリアの人気は中世の終わり、十字軍が聖地から締め出された時代にまで遡るという。エレミヤが不信心なユダヤ人を改宗させるために〈膝に子供を抱いた侍女像〉を作ったという伝統を引き継ぎ、当時の聖職者は黒マリアを将来の異教徒の改宗を象徴するお守りとしたのだろうという。
ロマネスク様式の時代よりも後に制作されたものということか。


トゥルニュの聖母子像 Vierge la Brune de Tounus トゥルニュのサンフィリベール聖堂蔵 
『Vierge romane』は、ノートルダムラブリュヌ(茶色)という名前の由来は、もともと黒色だったことに由来しているという。
トゥルニュの聖母子像 Vierges romanes より


ムーランの聖母子像 La Vierge noire de Moulins ノートルダムドラノンシアシヨン Notre-Dame-de-l’Annonciation 蔵
Wikipedia によると、この像はブルボン領主によって聖地から持ち帰られ、ルイ9世によって奉納されたものと考えられます。これは11世紀に作られた威厳のある聖母像で 、15世紀に安置されましたという。
聖王ルイ(1214-70)が聖母子像を奉納したという話は他の教会でもあったように思う。
この聖母は腕が欠失している。他の聖母子像には見られない襞であるが、右膝に幼子を乗せてる点はトゥルニュの聖母子像と共通する

また『黒マリア』は、アリエ河に沿ったブルボネ地方の首邑ムーランのカテドラルに祀られているル・ピュイのそれとよく似た黒マリアは、同じように東方からもたらされたという伝承を持っているのであるが、1655年の大火の際、一人の住民がこの黒マリアの着けていたマントを炎の中に投げ入れたところ、嘘のように火事がおさまってしまったということである。また、ピレネー山脈の地中海寄りの山裾の町リムー (Limoux)の「マルセーユの聖母」は、例によって牡牛によって 丘の中腹の畑の土の中から発見され、その場所から動こうとしなかったという伝承を持つ黒マリアであるが、この場所はマルシラの泉と呼ばれるドルイド教の聖地だった所であり、この黒マリアがガリアの地母神の後身であることは明らかであろう。そして、この黒マリアもまた1685年の大火から奇跡的にこの町を救ったと言われているのであるということで、この黒マリア像が聖地から持ち帰られたものではなく、ガリアの地母神が黒マリアとして教会内に祀られたとする。
実は私もそう思っていた。また、文献で異なる見解があった時は、その発行年の新しい方を受け容れることにしているのだが、ロマネスク期の聖母子像に黒マリアはないとしながら、黒マリア像をあげていたりして矛盾があるので、今回は『黒マリア』のガリアの地母神説をとりたい。
ムーランの聖母子像 Vierges romanes より


サンジェルヴァジーの聖母子像 Saint-Gervazy
聖ジェルヴァジーの黒い聖母は、ロマネスク様式の黒マリア像で、12 世紀後半に建造されたという。
『Vierges romanes』は、1980年代に盗難に遭ったサンジェルヴァジーの聖母子像は、20年以上たってから見つかったという。
本像の衣文線は左右対称と言ってもよいくらいだ。ストゥールのような玉座や聖母の長い指などは、オーヴェルニュの聖母子像にも共通している。
サンジェルヴァジーの聖母子像 Vierges romanes より

サンジェルヴァジーの聖母の横顔
サンジェルヴァジーの聖母の横顔 Vierges romanes より


『黒マリア』は、異民族の侵入、飢饉、伝染病など、無防備な貧しい庶民たちにとって、安らかな死を迎えることがいかに困難であったかは想像にあまりある。それは昔のガリヤの庶民においても中世の農民においても同じだったであろう。幸せな生とは結局、安らかな死を迎えることができるということに他ならず、「善き死」を願うことは豊饒や安産を願うことと本質的にはまったく変りのないことだったのだ。かつてガリヤの庶民が彼らの地母神に捧げていた信仰を、中世の農民がそのまま継承していたとしても少しも不思議ではない。優しく情け深い慈母観音の姿を求 める民衆の心はいつも同じであり、それがドルイド教のものであろうとキリスト教のものであろうと、彼らにとっては同じことなのである。キリスト教時代の農民は、彼らの発見した地母神像を聖母子像と思い、この像に対して彼らの昔ながらの祈りを捧げた。黒マリアと黒マリア信仰の起源は、おそらくはそこにあるのではないだろうかという。



参考文献
「Vierges romanes」 2018年 Éditions DEBAISIEUX
「The Treasures of Romanesque Auvergne」 Text :Noël Graveline Photographs: Francis Debaisieux Design Mireille Debaisieux  2010年 Édition DEBAISIEUX 
「La Cathédrale Notre-Dame du Puy-en-Velay」 Emmanuel Gobilliard et Luc Olivier 2010 Édition du Signe
「黒マリアの謎」 田中仁彦 1993年 岩波書店