オーヴェルニュのロマネスク様式の時代につくられた聖母子像、そして今でもその正体に諸説ある黒マリアを見てきた。
その後聖母子像はどうなるのだろう。
『黒マリア』は、民衆が「安らかな死」を与えてくれるように祈っていた黒マリアはまさしく「魂の導き手(プシコポンプ)」であったわけだが、この意味では聖ミカエルは黒マリアの協力者、というよりもむしろその分身であったとさえ言い得るのであり、ここからも両者の強い結び付きが理解されるのであるが、聖ミカエルのこの「魂の導き手」という性格もまた、彼がメルクリウスの、そしてまたその前身であるルフから引き継いだものと考えられるのだからである。
そして、このことをはっきりと示しているのが、12世紀前半、コンク(Conques)のサントフォワ聖堂のタンパンにはじめて現われた「最後の審判」図における、死者の魂の計量者としての聖ミカエルの姿に他ならない。
『マタイによる福音書』25章に基くこの「最後の審判」図は、天国と地獄をなまなましく描き出したキリスト教世界最初の「最後の審判」図であり、その後オータンのサン・ラザール大聖堂タンパンにおいて模倣され、更にゴシック時代に入ってからは、ブールジュのサンテチェンヌ大聖堂をはじめ、ランスやアミアンのノートルダム大聖堂などの壁面を飾ることになった重要な図像なのであるが、これらの図像の中で、天秤を持って死者たちの魂を計量しているのが大天使聖ミカエルなのであるという。
コンクのサントォワ修道院聖堂のタンパン
右側に地獄の責め苦が二段にわたって描写されているのに対して、左側の二段天国の門をくぐった人々という図である。
大天使ミカエルが天秤を持つのはエジプトの「死者の書」の影響とされている。
『フランスの歓び』は、キリスト教の歴史観はきわめてわかりやすい。天地創造に始まり最後の審判で終わる直線的な時間の流れだ。「創世記」に始まり「ヨハネ黙示録」で終わる聖書の構成と同じである。この最後の審判は、いつ起こるかわからない。今すぐかもしれないし、ずっと先かもしれない。そのとき時間が止まる。天空はまるでカーペットのように巻き取られ、すべての死者がよみがえり、再び姿を現したキリストの前で審判を受けることになる。そのため常日頃から準備を怠るなということが、新約聖書には繰り返し説かれている。
このいつ起こるかわからない審判を、タンパンの彫刻は常に人々の目の前に提示していた。どのような説教よりも効果的に、見る者に恐怖を実感させたにちがいない。このテーマを取り上げている聖堂はとても多く、それぞれに個性があってひとつとして同じものはないが、基本的な構成要素は共通しているという。
ブールジュ、サンテティエンヌ司教座聖堂西ファサード中央扉口タンパン最後の審判 ゴシック様式
そもそもロマネスク様式の時代にマリアは「受胎告知」「マリアのエリザベート訪問」「キリスト降誕」「エジプト逃避」「マギの礼拝」くらいにしか登場しなかった。それをオーヴェルニュ地方の聖堂内で探すと、
受胎告知 クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂内陣の柱頭彫刻 「The Sculptures of Notre-Dame du Port」より
クレルモンフェラン ノートルダムデュポール聖堂内部柱頭彫刻 The Sculptures of Notre-Dame du Port より |
マリアのエリザベート訪問 「The Sculptures of Notre-Dame du Port」より
クレルモンフェラン ノートルダムデュポール聖堂内部柱頭彫刻 The Sculptures of Notre-Dame du Port より |
キリスト降誕 クレルモンフェランノートルダムドラソンプシオン司教座聖堂周歩廊サンタンヌ祭室のステンドグラス(ロマネスク様式の聖堂より採取) 2段目左
エジプト逃避 同5段目左
同書は、この「最後の審判」を図像化したコンクやオータンのタンパンの前で、彼らは自分の死の後に待ち受けている裁きにふるえおののき、不安の中で自分の魂の救済を真剣に願ったにちがいない。
ロマネスクの図像を決定的に変化させてしまったのは、激しく自分の魂の救済を求めるこの都市住民の不安であった、と思う。この不安がロマネスクの「再臨のキリスト」を天の彼方から地上に呼び下して十字架にかからせ、その一方で、救済の慈母観音として聖母を天の高みに押し上げてしまったのだ。ゴシックの図像の特質であるキリストの下降と聖母の上昇は実は一対のものなのであり、救済の宗教ともいうべきゴシック信仰の表裏をなしているのではないであろうか。
ゴシックにおける聖母崇敬の昂揚は、それ故、三位一体の教義によって排除されてきた第四者=女性原理の復活であった。この女性原理による救済を渇望する人びとは、聖書正伝の提供する聖母についての限られた情報だけではあきたらず、外典偽典を借りて聖母の姿をいやが上にもふくらませる。こうして、聖母は天に昇って女王の冠を受け、最後の審判の場においてはキリストの傍らに坐して罪人なる人間のためにとりないてくれる救済の慈母観音となったのである。特に北フランスで発展した大都市の中心に、次つぎに聖母に捧げられた大寺院が建造され、その壁面を「聖母被昇天」図や「聖母戴冠」図が埋めつくしたのは、人びとのこうした宗教感情の激変の結果に他ならないという。
ただし、クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂の柱頭彫刻には聖母被昇天の場面が刻まれている。
『The Sculptures of Notre-Dame du Port』は、中央で、キリストは大きな手でマリアの体を抱きしめ、包帯がまだ解けていない聖骸布に包まれた生まれたばかりの赤ん坊のように抱きしめている。彼女の目は大きく見開かれている。その下には空の石棺があるす。キリストはマリアではなく、遠くを見つめている。右と左の二人の天使はそれぞれ石板を持っている。ここは安全な港、キリストの腕という。
そしてカトリックでは聖母被昇天と呼ぶものをビザンティン美術ではキミシス(聖母の祈り)と呼ぶ。
聖母の眠り(キミシス) イスタンブール、コーラ修道院(現カーリエジャーミイ)本堂西壁 モザイク 1316-21年
『コーラ カーリエ博物館』は、このテーマに登場するすべての人々を描き込むため、死の床に横たわった聖母を底辺とする三角形の構図をとっている。キリストの弟子たちが聖母を囲み、天使が三角形の外側から近づいてくる。顔だけ聖母の方に向けたキリスト、その手に抱かれた赤ん坊はマリアの魂を象徴しているという。
『コーラ カーリエ博物館』は、このテーマに登場するすべての人々を描き込むため、死の床に横たわった聖母を底辺とする三角形の構図をとっている。キリストの弟子たちが聖母を囲み、天使が三角形の外側から近づいてくる。顔だけ聖母の方に向けたキリスト、その手に抱かれた赤ん坊はマリアの魂を象徴しているという。
キミシスが何時頃から描かれるようになったか分からないが、東トルコのアニ遺跡にティグラン・ホネンツが寄進した聖ゲオルギウス教会の右壁はフレスコ画がよく残っていた。説明板には1215年建立とされるので、ゴシック様式が始まった頃に当たる。
『黒マリア』は、多くのゴシック大寺院の呼称となったノートル・ダムという言葉は、元来、民衆が彼らの女主人であるそれぞれの黒マリアを古くから親しみをこめて呼んできた名前だったのだ。ゴシック時代以前にもすでに、クレルモン・フェランのノートル・ダム・デュ・ポール教会のように、ノートル・ダムの名を冠した教会は存在したが、それらはみな黒マリアが祀られている教会だったのである。このことはゴシックの聖母崇敬の起源が黒マリア信仰にあったことを示す何よりの証拠だとは言えないであろうか。民衆信仰として教会の外で生きつづけてきた黒マリア信仰は、今や教会当局も押しとどめることのできない奔流となって教会内部に流れ込み、ついにゴシックの聖母崇敬時代を現出したのだという。
サンドニ聖堂聖母子像 12世紀ロマネスク期 木彫 撮影小野祐次氏
「全一冊 フランスの歓び 美術でめぐる、とっておきの旅ガイド」(以下『フランスの歓び』)は、王冠をかぶり、女王然とした威厳あるたたずまいという。
サンドニは北フランスに位置し、12世紀前半に創建されたが、13世紀前半に初期ゴシック様式で建てられたものが大部分を占めるので、この聖母子像は後期ロマネスク様式の像である。同じ聖母子像でもオーヴェルニュ地方のものとはかなり違う。
サンドニ司教座聖堂の聖母子像 フランスの歓びより |
『フランスの歓び』は、ゴシック期は、マリアがキリスト教という宗教を具現化するイメージとして、教会によって徹底して使われた時代でもあった。王であるキリストの隣に座って冠を受ける「聖母戴冠」という新しい図像がこの時代に広まる。あらゆる美徳をそなえ、天の女王であり、キリストの母であり花嫁でもあり、苦難に陥った人々を救済し、最後の審判において人類のために祈ってくれる女性。マリアにあらゆる願望が投影され、マリアはそれに応えていくという。
聖母戴冠 13世紀 ランスノートルダム司教座聖堂西正面中央扉口上 現在同所にはレプリカが嵌まり、オリジナルはトー宮殿に展示
『フランスの歓び』は、ゴシック期の新モードでは、被昇天後のマリアが、キリストから天の女王の冠をいただくという。
ランスノートルダム司教座聖堂西正面中央扉口上聖母戴冠 フランスの歓びより |
マギの礼拝をロマネスク様式とゴシック様式で比較すると、
クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂南扉口の楣石部分は顔が欠失しているが、聖母子はややマギたちに体を向けてマギが献納するものを受け取っている。
それが時代が下がると、
シャルトルのノートルダム司教座聖堂内陣と周歩廊を隔てる周壁のうち 16世紀 ジャン・スーラ作
『フランスの歓び』は、優しいマリア像はゴシック期以降に広まったという。
一般に聖母マリアと聞いて思い浮かぶ顔はこのようなものだろう。
黒マリアがケルト時代の地母神像であったとか、黒く塗られたのがずっと後の時代だったとか、まだ定説はないようだが、聖母マリアは、聖母子像から独立して、執り成しの聖母として表されるようになったのだった。
関連記事
参考文献
「Conques」 Emmanuelle Jeannin・Henri Gaud 2004年 Edition Gaud
「Conques」 Emmanuelle Jeannin・Henri Gaud 2004年 Edition Gaud
「コーラ カーリエ博物館」 ファティヒ・ジモク 原田武子訳