天禄を過ぎてしばらく歩くと、松並木がなくなった。
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これでやっと北側を見渡せる。神道から離れた位置に、天禄とは違ってこちらを向いて、一対の獅子が踏ん張っている。正面には小さな祠のようなもの、その背後には順陵の墓山。そして、両者の間の麦畑。
ひょっとすると、ここに南門があって、この走獅は門を守る石獣だったのではないだろうか。
祠のようなものは順陵の碑だった。則天武后は中国では武則天と呼ばれているのかと思っていたが、「則天皇帝」として唐の皇帝に認定されている。確か国名を「周」に変えて、則天武后の時代を「武周期」と呼んでいたのでは。
楊氏は唐・高宗咸享元年(670)に逝去しました。武則天は帝位に即位したあと、亡母の「孝明高皇后」に爵位を与え、墓を陵に変え、順陵と称しました。
陵はみささぎ、おかの形をした皇帝、王侯貴族の墓という。
振り返ると西陪葬墓の山を背景に、天禄がどっしりと大地に立っていた。
則天武后の母の陵は、石碑の遙か遠くに見える。その上神道がなくなってしまった。
西側の獅子、遠くから見ていたよりも大きい。
説明板に、走獅
朝代:唐
雌獅
長:3.09米 寛:1.3米 高:2.66米
体型比雄走獅略小、造型凶猛、重四十余吨とある。
雌にも見えなければ、走っているようにも見えない。
その上口を閉じている。前歯がヒトのものに似ていて、それを食いしばって、鼻の下に威嚇の皺を寄せている。見ている時は妙な表情で笑ってしまったが、改めて見ると、結構こわい。
横から見るとたてがみは少なめで雌を表しているのがわかる。尾は天禄同様、太くて下に垂らしてある。おそらく重い体を支えるためだろう。
恵陵の青龍や白虎の前肢付け根にあったような双翅がこの走獅にもある。足首あたりまであって長いが、出ている部分は短く、一番上は渦を巻いている。
この前肢の付け根の渦巻は、後期ヒッタイト時代(前8世紀)のライオン像(イスタンブール考古学博物館蔵)にもある。他にもいろいろあって、いつの日にかまとめたい。
東側の獅子は逆光で見難い。
こちらの説明板は、走獅
朝代:唐
雄獅
長:3.45米 寛:1.5米 高:3.05米
体型高大、造型雄偉、重40余吨とある。
雄は口を開いていて、対で阿吽になっている。これまで見てきた鎮墓獣は、どちらも口を開けていたように記憶しているので、対のものを「阿吽」というのは日本人の好みかと思っていた。
梁、普通4年(523)の簫景墓(江蘇州南京市)の鎮墓獣は、舌を出した獅子の姿で、顎の下のたてがみがもっとふさふさしていて、翼もある。
別の系統の獅子のようだ。
10年前、西安の陝西歴史博物館の建物の入口に置かれた獅子は、順陵の獅子のコピーということだったが、この雄の走獅のレプリカだったのか。
結局石碑の右脇の細い道から畦道を通って神道の東にある道路に出るしかなかった。
歩くのは時間がかかるが、王さんがタクシーで待ってくれていた。
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畦道を通りながら、やっと日の当たる雄走獅をカメラに収めることができた。ぐりぐりと仏像の螺髪のようなたてがみが並んでいる。
つづく
※参考サイト
咸陽市観光局ホームページの順陵