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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/08/16

中国の梅瓶の形は古瀬戸の瓶子へ


南宋-元時代にかけて中国南部で製作された青白磁梅瓶は、ステイタスシンボルとして伝世する器となった。
その背景として『日本の美術410 宋・元の青磁・白瓷と古瀬戸』(以下『日本の美術410』)は、1192年に源頼朝によって幕府が開かれると、鎌倉は東国最大の消費都市に成長していった。その結果、中国から輸入される物資は、西日本ばかりでなく東日本にまで大量にもたらされるようになる。中国産の陶磁器の輸入量は増大し、分布は大きく広がっていった。
この時期に新たに中国からもたらされるようになった器種に白磁梅瓶がある。梅瓶とは、口が小さく、肩が張り、胴裾に向かってすぼまる形式の瓶をいうという。

一乗谷朝倉氏遺跡医者の家出土青白磁梅瓶
特徴は、口作りが非常に小さく、凸帯がある竹の節型。
肩が張って脚部へと窄んでいく。脚部まで施釉されている。
一乗谷朝倉氏遺跡 医者の家出土青白磁梅瓶 『越前朝倉氏一乗谷』より


陶磁器をせとものと呼んできたが、古瀬戸とはどのような焼き物だろう。
『日本の美術410』は、わが国では12世紀末に至って施釉陶器の生産が復興される。瀬戸窯において、中国陶磁を模倣した器種を中心に、灰釉を施した陶器の生産が始まるのである。他の中世窯が山茶碗や壺、甕、擂鉢など日用の器の量産に向かったのに対し、瀬戸窯はわが国唯一の施釉陶器の生産地として独自の地位を確立する。狭義の古瀬戸の成立であり、これ以後鉄釉の使用が始まる13世紀末までが古瀬戸前期とされる。
古瀬戸前期に作られた主要な器種に、灰釉が施された四耳壺があり、やや遅れて瓶子と水注があらわれ、古瀬戸を特徴づける器種が出揃うという。

古瀬戸前期の作品

灰釉四耳壺 鎌倉時代 高さ30.4㎝ 愛知県陶磁資料館蔵
同書は、中国産の白磁四耳壺に倣った四耳壺は、古瀬戸を代表する器種のひとつである。この灰釉四耳壺は、瀬戸窯で生産された四耳壺としては早い時期の作例である。
肩の張りが強く、耳には筋目があらわされており、この時期に中国からもたらされた白磁四耳壺の器形を忠実に模倣しているという。
口は大きく玉縁状の口縁で、肩から高台にかけてゆるやかな曲線を描いている。
愛知県陶磁資料館蔵灰釉四耳壺 鎌倉時代 『日本の美術410』より

古瀬戸前期の瓶子
『日本の美術410』は、瓶子には肩が張り、底部に向かって直線的に窄まる形式と、胴の中位でくびれ、底部に向かって再び広がる締腰形の2種類がある。このうち、前者は、中国産の白磁梅瓶の器形を模倣したものと考えられている。
一方、締腰形の瓶子については、中国陶磁にその祖型を見いだすことができないことから、漆器の瓶子を写したとみる説と、高麗青磁の梅瓶の器形を模倣したと考える説とが提示されており、いまだ結論をみるに至っていない。
高麗末期とみられる象嵌青磁の梅瓶、および象嵌青磁の末裔にあたる粉青沙器の梅瓶の出土例も一定量みられることから、韓国産の締腰形の梅瓶は14世紀、15世紀にも引き続きもたらされていたと考えられる。ところが、古瀬戸の締腰形の瓶子は、古瀬戸中期の途中で消滅してしまい、代って漆器の模倣であることが明らかな根来形瓶子が登場する。
古瀬戸の腰形の瓶子を高麗青磁の模倣と考えると、この器形の交替がうまく説明できないのである。
したがって、古瀬戸の締腰形瓶子の原形は、漆器の瓶子である可能性が高いと判断されるという。

左:古瀬戸直腰型灰釉瓶子  右:古瀬戸締腰型灰釉瓶子 鎌倉時代
左:古瀬戸直腰型 右:古瀬戸締腰型灰釉瓶子 鎌倉時代 『日本の美術410』より


灰釉画花蓮弁文瓶子 初期 岐阜県坂下町坂下高蔵山西方寺趾出土
『日本の美術133』は、古瀬戸に通有な梅瓶の一種であるが、小さい口頸部に中央の突帯のない器種である。肩の張りが強く胴がすぼまって底部が小さく、古い形態を留めている。
肩の二条の櫛目横線の間に印花巴文を施し、底部から胴下半に箆描きによる草葉文を大きくめぐらしている。火葬蔵骨壺として用いられていたという。
古瀬戸の瓶子は、初期のものは凸帯がなく、二重口縁だったのかな。
岐阜県坂下町坂下高蔵山西方寺趾出土灰釉画花蓮弁文瓶子 初期 『日本の美術133 古瀬戸』より 


その後は凸帯の口作りの瓶子が作られている。

灰釉巴文瓶子 初期 本多コレクション
『日本の美術133 古瀬戸』(以下『日本の美術133』)は、梅瓶の初期の段階にぞくするものである。白色に近い良質の土を用いており、成形もじつに見事である。文様は、鎌倉時代の工芸品に よく用いられる巴文の印花を、胴上半から肩にかけて散らしている。灰釉は淡緑色の、青白磁に近い美しい釉調のもので、胴下半にわずかに釉縞ががみられる程度であるという。
日本でこの時代に青白磁の作品ができていたとは。そのカラーの画像が探し出せない😓
本多コレクション灰釉巴文瓶子 初期 『日本の美術133 古瀬戸』より


灰釉印花文瓶子 初期 14世紀初頭 
『日本の美術133』は、この一類の梅瓶としては初期のものであり、14世紀はじめごろのものと考えられる。紐土巻上げ成形の重厚な感じを与える作品で、肩に一条の櫛目文を、その下に印花手法による一五弁の菊花文を4個押捺している。灰釉は貫入が細かく、器面がやや黒ずんでいて、地上に伝世したものと考えられるという。
肩からのすぼまりが緩やかなので、器形としてはややずんぐりに感じる。
出土地不明灰釉印花文瓶子 初期 『日本の美術133 古瀬戸』より


鉄釉印花菊文瓶子 初期 小山市愛宕神社出土 東京国立博物館蔵
『日本の美術133』は、肩がつよく張り、底部の小さい直線的な胴形をもった形態からみて、この種の梅瓶のうちでは初期にぞくするものである。
文様が胴上半に限られていることもその特色である。文様は印花文で、3個の菊印花を四方向に置き、その間を蕨手文で飾っている。鉄釉は厚く、黒色に発色しているという。
細身で、肩部から胴部上半までを数本の沈線で区画し、その間に菊花文と二重の蔓のよな葉文を表している。
東京国立博物館蔵鉄釉印花菊花文瓶子 初期 小山市愛宕神社出土 『日本の美術133 古瀬戸』より


灰釉魚文瓶子 初期 愛知県幸田町大草山寺赤井出土 徳川黎明会蔵
『日本の美術133』は、昭和41年11月、道路工事中に古瀬戸四耳壺・瓶子、常滑壺・甕など20の蔵骨器が出土したが、そのうちの一つである。この種の梅瓶としては初期に属するものである。やや肩が張って底部が小さくすぼんでいるのも古式の特色である。魚文は箆描きで3匹の魚 が器面をめぐるいわゆる追廻し文の手法をとっている。そして各魚文の間を篦描きによる短い波文で埋めているという。
徳川黎明会蔵愛知県幸田町出土灰釉魚文瓶子 最盛期 『日本の美術133 古瀬戸』より


鉄釉画花文瓶子 館山市城山下出土 鎌倉時代 14世紀前半以前 瀬戸窯 高さ24.3㎝ 東京国立博物館蔵
二重口縁で、大きな葉が大胆に彫られている。
東京国立博物館蔵 鉄釉劃花文瓶子 鎌倉時代 瀬戸窯 館山市城山下出土 『日本の美術410』より


鉄釉印花菊花文瓶子 鎌倉時代 14世紀前半以前 瀬戸窯 鎌倉市坂ノ下地霊山出土 高さ24.5㎝ 東京国立博物館蔵
口作りは凸線のある竹の節型。
鎌倉市坂ノ下地霊山出土鉄釉印花菊花文瓶子 鎌倉時代 『日本の美術410』より

菊の花のような型を器体に押し当ててあるが、曲面に平面の型を押し当てるのは難しかったようで、一つの花に花弁の不明瞭な部分がみられる。

鎌倉市坂ノ下地霊山出土鉄釉印花菊花文瓶子 鎌倉時代 『日本の美術410』より


中期古瀬戸 鎌倉時代後期-南北朝時代 最盛期
『日本の美術410』は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、古瀬戸は最盛期を迎える。この古瀬戸中期には、器種、釉薬、文様などあらゆる面で新機軸が打ち出され、面目を一新している。
古瀬戸中期の特徴として、まず器種が豊富になったことがあげられる。
四耳壺はこの時期にも引き続きさかんに生産されている。古瀬戸中期の四耳壺は、撫肩の器形になり、さまざまな文様で器表を飾ることが流行する。また、褐色の鉄釉が施されたものもあらわれる。
古瀬戸前期には肩部に櫛目文をあらわしたり、わずかに印花文が施される程度であったが、中期になると、多彩な技法を駆使して生き生きとした文様があらわされるようになった。
施文技法には、文様を刻んだスタンプを捺す印花文、櫛状の工具で平行線をあらわす櫛目文、箆で文様を彫りあらわす劃花文、さらにこれらが組み合わされることもある。
とくに四耳壺、瓶子、水注、花瓶、広口壺などは、器面いっぱいにさまざまな文様があらわされている。モチーフも、各種の唐草文、草花文などの植物文、魚文をはじめとする動物 文、それに巴文などがあり、変化に富んでいる。
自由奔放で伸び伸びとした文様表現に、古瀬戸ならではの個性があらわれているといってよいであろう。とくに印花文の多用は中国陶磁にはみられない特徴であり、古瀬戸の文様に独特の律動感を与えているという。

鉄釉印花巴文四耳壺 鎌倉時代後期 高さ31.6㎝ 瀬戸窯 東京国立博物館蔵
同書は、器形は中国産の白磁四耳壺を模倣しているが、褐色の鉄釉が施されており、スタンプを用いた巴文が胴の上半にあらわされている。
鎌倉時代後期になると、 中国の白磁や青磁の器形を借りながら、釉薬や装飾の面でさまざまな新機軸が打ち出されていったという。
巴文は回転する動きが感じられる。巴文の間にある耳は、紐が通せないほど小さい。
東京国立博物館蔵巴文四耳壺 鎌倉時代後期 『日本の美術410』より


鉄釉印花文瓶子 鎌倉市多宝寺やぐら出土 浄光明寺蔵   
『日本の美術133』は、古瀬戸最盛期の一つで、蔵骨器として用いられていたものである。
紐土巻上げ成形で、器面は轆轤挽き整形を行なっている。文様は肩の中央に三条の櫛櫛目沈線を施し、胴部全面に印花手法による椿文をもって埋めている。文様が胸部全面を蔽い始めた初期のものであり、同一文のみを不規則に押している。釉は茶褐色の明るい色調を呈し、釉むらが著しいという。
椿の花を文様にするのは珍しいのでは。
鎌倉市多宝寺やぐら出土浄光明寺蔵鉄釉印花文瓶子 鎌倉末期-南北朝 『日本の美術410』より 


灰釉印花文瓶子 瀬戸市観音窯出土 
『日本の美術133』は、印花文をもって器面全体を埋めた、 古瀬戸最盛期の梅瓶である。 ロ頸部の形がややくずれ、胴は底部の大きいずんぐりした形をしている。
紐輪積轆轤(ひもわづみろくろ)成形で、器面を3段に分けて文様を描いている。主文様は胴部上半に押された蓮花唐草文で、胴下半には剣先文を、肩の上縁には花弁文をめぐらしている。
焼成はきわめて良く、暗緑色の灰釉が全面にかかっているという。
剣先文は蓮弁文が時代と共に変化していったのでは。
灰釉印花文瓶子 最盛期 瀬戸市観音窯出土 『日本の美術133 古瀬戸』より


灰釉印花文瓶子 14世紀中葉 紐土巻上げ成形
『日本の美術133』は、古瀬戸最盛期の梅瓶の一つである。口頸部は太く、下に拡がっている点や底部が大きく、ずんぐりした胴形からみて14世紀中葉代の作と考えられる。
紐土巻上げ成形で器面は轆轤で整えている。
肩から胴にかけて9本の蔓草を、肩に11弁の花文を印花手法で施している。 灰釉は薄く、ややムラがあるという。
紐土巻上げ成形は日本の伝統的な器のつくりかたで、私の記憶が正しければ、現代作家の辻村史朗氏は、この技法で作品をつくっている。
フリーハンドで彫ったように見えて、くりくりと左右に先の巻く葉を、斜めに型を押し当てて植物を伸ばしている。中央肩部にヒマワリのような花文がある。
灰釉印花文瓶子 最盛期 14世紀中葉 『日本の美術133 古瀬戸』より


灰釉櫛目文瓶子 轆轤水挽き成形
『日本の美術133』は、二重口縁の口頸部をもった梅瓶の一類である。
白色に近い良質の土で、水挽き成形をしており、胴はやや細身の端正な形をしている。文様は肺の中央に櫛目波状文をひき、波の頭に一つおきに櫛目を用いて草文を描いている。灰釉は胴下半にやや釉ムラがみられるが、淡緑色の美しい釉調のものであるという。
これまでは紐土巻上げ成形だったが、ここで初めて水挽き成形が出現する。
凸線のない二重の口作りも作られていた。
灰釉櫛目文瓶子 『日本の美術133 古瀬戸』より 


灰釉画花文瓶子 瀬戸市巡間町城狭間窯出土 紐土巻上げ、轆轤整形
『日本の美術133』は、この瓶子は素地は灰黄色でやや砂質に富んだ陶土を用いており、紐土巻上げ成形後、器面を轆轤挽きで整形している。器面の文様は胴下半を三段に分かち、肩に2本の沈線を挟んで上下に印花梅花文を、胴部中央には釘彫りによる木葉文を、胴下半には丸鏨彫りによる16弁の蓮弁文を施している。灰釉は長石を多く含んだ安定したものになっており、やや酸化気味で黄緑色を呈するという。
木の葉の大胆なこと、そして蓮弁文の力強いこと。
瀬戸市巡間町城狭間窯出土 灰釉印花文瓶子 『日本の美術133 古瀬戸』より


灰釉瓶子 14世紀後半 新宮市丹鶴山出土
『日本の美術133』は、太く下方にひろがった口頸部、肩の張りを失った、底部の大きい胴形からみて、14世紀も後半代にぞくするものである。
文様は肩から胸にかけて三条の櫛目横線を施すのみである。灰釉は厚くたっぷり施されているが、やや酸化気味で黄緑色を呈するという。
ただの量産品になってしまったのだろうか。
新宮市丹鶴山出土 灰釉瓶子 『日本の美術133』より


灰釉印花文瓶子 14世紀末葉 高さ27.1㎝ 白山神社蔵
『日本の美術133』は、口頭部の突帯が中央よりやや下につけられ、かなりくずれた口づくりになっている。胴も細身になっていて、14世紀も末葉に近いころの作であろう。
肩に櫛目沈線をひき、その下から器面一杯に草花文を描いている。灰釉は器面全体にほぼ均一にかかっている。やや酸化気味で、黄緑色を呈するという。
草花文も左右に出ていた葉が遊離して、何を描くのかも分からなくなってしまったかのよう。
白山神社蔵灰釉印花文瓶子 14世紀末葉 『日本の美術133 古瀬戸』より


後期古瀬戸 室町時代前期(14世紀末-15世紀末)
『日本の美術410』は、この段階の製品は、都市や城館、寺院などを中心に、全国各地のより広範な地域に流通するようになる。製品の内容にも変化がみられる。四耳壺、瓶子、水注などの生産は続けられているものの、その比重はかなり低下している。瓶子には新しい器形が登場する。
成形技法は、瓶、壺類を含め、ほとんどの器種が轆轤水挽きに転換している。技術の向上により、釉薬も一層厚く安定したものになっている。灰釉は美しい黄緑色を呈するようになり、鉄釉は黒褐色で光沢をもった釉調のいわゆる古瀬戸釉が完成された。一方、古瀬戸中期にあれほどさかんであった文様装飾は、瓶子や花瓶の一部に簡略な劃花文が施される程度になり、すっかり影を潜めてしまうという。

左:灰釉瓶子 室町時代 高さ25.5㎝ 愛知県陶磁資料館蔵
同書は、細い口部が直立し、肩が張り出し、胴の下部が強くくびれ、底部は「上げ底」になっており、明らかに漆器の瓶子を模倣した器形である。しばしば鉄釉が施されているのは、朱漆塗を意識したためであろういう。

右:朱漆瓶子 室町時代 高さ30.9㎝
左:愛知県陶磁資料館蔵灰釉瓶子 右:朱漆瓶子 室町時代 『日本の美術410』より 


古瀬戸瓶子の終わり
『日本の美術410』は、15世紀末になると、瀬戸と美濃ではそれまでの窖窯に代って大窯が登場する。窯体の大部分が地上化し、燃焼室と焼成室の境に段が設けられ、従来の分焰柱に加えてここに小分焰柱を設けることにより、焼成効率が大幅に高められている。また、規模が拡大し、量産化に応えている。同時に製品の内容にも大きな変化がみられる。四耳壺や瓶子など、古瀬戸を特徴づける器種は姿を消し、天目も新しい型式のものに変化するという。

昔々、灰釉の古瀬戸は中国の青磁をめざしたが、翡翠色には焼き上げることができなかったと聞いたことがある。
しかしながら同書は、古瀬戸の灰釉は、平安時代の灰釉陶器から継承したものであり、中国の灰釉陶器と同様に、技術的な改良を加えることによって、青磁へと進化する可能性を秘めていた。ところが、中世の瀬戸窯において磁器が完成されることはついになかった。古瀬戸は中国の白磁や青磁の器形を忠実に模倣している場合であっても、釉調のうえではほど遠いものに終始したのである。
古瀬戸は「唐物趣味」に根差したわが国の需要に応えて生産されたものである。したがって、古瀬戸の様式は、日本における中国陶磁の受容と評価のありかたを反映している。古瀬戸のうえにあらわれた中国陶磁の影響は、その意味で限定的である。
瀬戸の陶工は、早い段階から、器形、釉薬、文様などあらゆる面で、中国陶磁とは異なる方向性を打ち出している。それが意識的なものなのか、陶工の本能によるものなのかは定かでないが、古瀬戸独自の実を結んでいることを認めなければならない。そして、流下する釉薬が生み出す表現効果や、規範に拘泥しない自由闊達な文様表現など、桃山時代に美濃窯において爆発的に展開する創造活動の萌芽をそこに見出すことも可能であろう。古瀬戸は古瀬戸であり、決して中国陶磁の代替品ではないという。
どうも古瀬戸の陶工たちは、最初から青磁や白磁を目指していたのではなかったようだ。



関連項目

参考文献
「日本の美術133 古瀬戸」 楢崎彰一編 1977年 至文堂
「日本の美術410 宋・元の青磁・白磁と古瀬戸」 今井敦 2000年 至文堂