ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2009/07/03
新羅の積石木槨墳は高句麗から?
新羅の積石木槨墳に影響を与えた古墳といえば高句麗の積石塚が考えられる。
『韓国の古代遺跡1』は、高句麗の積石塚は、桓仁(遼寧省)から集安にかけての地域で発達する。構造的には、割石積石塚から基壇切石積石室墓に変遷するという。
『高句麗の歴史と遺跡』は、上古城子墓群(桓仁県六道河子郷上古城子村)古墳群は、上古城子村の東北100mの田畑中にある。渾江の支流の六道河に向かってのびる緩傾斜地に立地する。1993年10月に踏査したが、いたるところに積石塚の残骸である割石や河原石が散在していた。積石塚の多数は方壇積石塚で、基壇のない積石塚も若干ふくまれる。
『文物志』では、上古城子墓群は、およそ高句麗中期の3世紀から4世紀と推定している。なお蘇長青によると、上古城子村に高句麗早期の中・小形の方壇積石塚が100余基あり、中形積石塚は7基である。埋葬施設は割石を用いた単室・双室で、その平面は長さ約2m、幅約1m余であった。前壁の中央や左側に甬道がつくものが存在すると記述するという。
下の写真は積石塚の残骸だろう。高句麗の積石塚の場合、埋葬施設も割石を用いているようだ。 『高句麗の歴史と遺跡』は、国内城に遷都した3世紀代になると方壇(基壇)積石塚が発達する。そしてさらに4世紀代になると方壇階梯積石塚に発展する。
将軍塚は方壇階梯積石塚で、1辺31.58m、高さ12.5m、玄室・羨道からなる両袖式の横穴式石室という。
同書では4世紀とされているが、『韓国の古代遺跡1』は、その頂点にあるものは5世紀前半の集安将軍塚・大王陵の方壇階梯石室墓である。漢江流域にはソウル石村洞積石塚・汶湖里積石塚など、高句麗の影響のもとで築造されたとみられる積石塚が分布する。いずれも4世紀代で、石村洞4号墳のは典型的な基壇式であるという。
慶州の皇南洞109号墳が積石木槨墳の最初期のもので、4世紀後半~5世紀前半に築かれたということなので、高句麗や、その影響を受けた百済の積石塚がその時代には基壇のある積石塚を築造しているので、どちらかの影響があれば、109号墳のような墳墓は築造されていなかっただろう。 『韓国国立中央博物館図録』は、楽浪は高句麗によって313年に滅亡された。
大同江南岸の平壌付近の土城の周囲に約2000余基の木槨墳と磚築墳などが散在している。
木槨墳は、地下に土壙を掘りその中に木棺を安置するための長方形槨を設けた形式のもので、封土はピラミッドの上部を切りとったような截頭四角錐をなしている。
この古墳は、最初長方形の単葬墓としてつくられはじめたが、間もなく1つの封土内に2つの土壙を並べて掘り夫婦の2棺を埋める合葬墓に変わり、ついには1つの木槨内に夫婦の2棺をいっしょに安置する最も普遍的な様式に変化した。
木槨墳の築造年代はだいたい紀元前1世紀から紀元後1世紀ごろとみなされているという。
木槨の規模がわからないが、朝陽洞Ⅱ-5号墓(60号墓)よりもずっと大きなものであることは間違いない。時期も大きな隔たりがあるので、直接影響があったとは思えない。 『韓国の古代遺跡1』は、客観的には高句麗的な墳丘である積石と楽浪的な木槨が一体となり、積石木槨墳という新羅独特の墓制を創りだしたといえようという。
たまたま墳墓を築く近くにたくさんの人頭大の河原石がごろごろしていたので、とりあえず木槨の上に載せたということはなかったのだろうか。
※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「韓国国立中央博物館」(1986年 通川文化社)
「高句麗の歴史と遺跡」(森浩一監修 1995年 中央公論社)