『韓国の古代遺跡1』は、小規模な積石木槨墳は盗掘されやすいという。積石木槨墳と盗掘というと思い出すのはパジリク5号墳の断面図である。
発掘調査で、墓主以外に、時代の下がる人物の骨も出土したというのが記憶に焼き付いている。積石をかき分けて木槨まで達した墓泥棒が、積石が崩れて死亡していたことが判明したという。きっと、やっとの思いで上に上げた石が雪崩のように落ちてきて生き埋めになったのだろう。
ところが、それを再確認するために『騎馬遊牧民の黄金文化』を開いてみると、この何年か信じていたできごとが、この古墳ではなかったことが判明した。
パジリク5号墳 南シベリア(アルタイ地方) 前405年(マルサドロフの樹年輪年代測定法による) 地下墓壙木槨墳 現状高さ3.75m直径42m 墓壙深さ4m縦横6.65X8.25m
墓が造られた直後にもうやられているという例も多い。アルタイ山中のパジリク古墳群(前5-4世紀)がまさにそうであった。古墳はいずれも墳丘の中央に漏斗状の凹みがある。墓泥棒が侵入したあとだ。墓泥棒は積石と盛り土、何層にも積み上げられた丸太、三重の木槨に穴をあけて墓室に侵入したという。
どこにも墓泥棒の骨の話は出てこなかったが、どうも積石の層が薄いように思う。これでは墓泥棒も木槨まで容易にたどり着けただろう。

チェルトムリク古墳 黒海北方(北カフカス) 前4世紀後半 地下横穴式墓室 墳丘直径100m高さ21m 墓室深さ12.2m
『古代王権の誕生Ⅲ』は、まず竪坑を深く掘り、その底から水平に1つあるいは複数の横穴を空けて墓室にする地下横穴式で、墳丘の裾に石垣がある。
墳丘は地表から15X25㎝の大きさで切り取られた「芝生レンガ」を積み重ねて盛り上げられており、1㎥の中に約270個の「芝生レンガ」が詰まっている。したがって、1㎥の盛り土のためには約10㎡の草地が必要となる。チェルトムリクの墳丘は75000㎥と計算されているので、そのために必要な草地は75㌶以上ということになる。草はいうまでもなく、遊牧民にとって最も重要な資源である。それをこのように浪費することができるのは、相当な権力者ということができよう。
一番外側には大きな板石や石塊を使って高さ約2.5m、幅約7mの石垣状のものを廻らせてある。そして築造当時の光景を再現すれば、巨大な石のプラットフォームの上に墳丘が盛り上がっているように見えたであろうという。
積石でも木槨墓でもなかった。遊牧民にとって大事な芝生を大量に使った墓は、墓主の権力の誇示としても、盗掘を予防するためではなかっただろう。

3号墳 カザフスタン(ウラル東方) 前期スキタイ時代(前7-4世紀) 直径75m高さ11.5m 埋葬施設焼失
『古代王権の誕生Ⅲ』は、墳丘のものは17層の石と土の層が交互に積み重ねられて構成されている。中心部には高さ4m、直径15mの石だけの堆積があり、その中に木造の墓室があったはずであるが、焼失していた。報告者は、盗掘者が火を放ったのであろうと考えているが、他地域の例を考慮すれば、葬儀の最後に燃やしたとも考えられるという。
火葬後墳丘が造られたということか。
6号墳 カザフスタン(ウラル東方) 前期スキタイ時代(前7-4世紀) 直径52m高さ8m
主室はほぼ正方形で(3.6X3.3m)、高さは4m。主室への入口(開口部)の大きさは150X70㎝で、下には丸太1本の敷居がある。入口は葬儀の後大きな石を積み、さらに隙間に細かい石を詰めて完全に密閉されていた。天井には木がうずたかく積み上げられ、その上には葦を編んだむしろがかけられていたという。
『スキタイと匈奴』は、残念ながらすべての墓室は完全に荒らされ、年代を考古学的に決定できるような遺物は出土しなかった。
しかし年代を推定する証拠がないわけではない。それは旧地表面に木槨墓室が造られて、墳丘が高く盛り上げられているという特徴である。黒海北岸や北カフカスでも、初期スキタイ時代には旧地表面に木槨墓室を造る例が多い。そのようなことを考慮すると、ベスシャトゥル古墳群も前7-6世紀の範囲に入るだろうという。
3号墳が火葬墓なら、墓泥棒に盗まれる心配はなかっただろうが、6号墳程度の積石では、積石層が薄く、墓泥棒に狙われやすかったのではないだろうか。

新羅の初期の積石木槨墳も、小さくて積石層が薄かったために盗掘され易かったのかも。
新羅の積石木槨墳とこれらの墳墓には、年代の隔たりがあまりにも大きいが、それでも何か関連性があるのだろうか。
※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県並河萬里写真財団)
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」(角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店)
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴」(林俊雄 2007年 講談社)