『シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓』は、墓壙の長軸方向に沿った形で円礫が集中している場所があった。円礫の厚さは60㎝から1mにも達した。調査ではこれを円礫堆とよんだ。
この円礫堆は、もともとは主体部が埋め戻された後、その真上に円礫が高く盛られたもので、木棺等の腐朽にともなって次第に中に落ち込んで埋められたような状態となったものであったという。
1・2・5の立石は墓室を囲んでいるが、3・4は囲む石ではない。それとも、築造当時は1・2・5からなる円弧、3・4からなる円弧上にもっと石が立てられて、二重の列柱になっていたのかも。

図からは古墳時代以前は南北方向ではないと解釈していたが、ほぼ南北方向とみられているようだ。

楯築弥生墳丘墓の朱はかなりよく精製された良質の水銀朱だけが使用されており、朱の産地は現在までは特定できていない。しかし、これだけの膨大な量の、しかも良質な朱を供給できる産地については、中国や朝鮮などからの搬入の可能性も含めて考える必要があるだろうという。
精製された水銀朱が当時の日本になかったとしたら、大陸との接触で入手したのだろう。
楯築弥生墳丘墓は弥生時代後期ということだが、同書には年代が一切明記されていない。ウィキペディアでは2世紀後半-3世紀前半としている。
当時、吉備には破格の大きさの墓を築くことができ、しかも海外から大量の水銀朱を取り寄せられるような、強大な力を持った統治者がいたのだろう。
埋葬にともなって朱が用いられるという理由については、いろいろな解釈がなされている。たとえば、朱は血の色に通じ、生命の復活を願うためとする考えや、より実用的に水銀の殺菌力を利用して遺体の防腐作用を期待したというもの、あるいは神仙思想にもとづくという考え方などがある。
古代の人びとが朱の赤色に対して呪術的な特別の意味合いを感じていたことは確かであり、楯築弥生墳丘墓に葬られた首長の葬送儀礼に際して、あえて大量に使用したということに重要な意味合いが含まれているという。
その朱について、ここでも神仙思想が出てきた。呪術的な意味合いということでよいのでは。

外側に残したいくつかの土層断面に何とも不可解な変化がみられたのである。そこには薄い粘土の層が複雑に向きを変えて交じり合い、重なり合っていた。木棺の外側にそれを包み込むような木槨が存在していたということであった。
残された痕跡をたどっていくと、木槨の平面形はやや歪んだ長方形となり、内法の長さは、中央付近で約3.53m、幅は約1.45mとなる。高さは、約88㎝と推定されたという。
こういった構造は積石木槨墳といってよいのではないのだろうか。規模は小さいが、慶州の天馬塚(6世紀初頭)の構造によく似ている。異なる点は、平地ではなく丘陵に造られてること、地表面ではなく墓壙をかなり深く掘り込んでいること、積石の上には大量に土を被せてはいないこと、である。

ところが、桜井茶臼山古墳と下池山古墳はコウヤマキ、黒塚古墳はクワと、大木を刳り貫いた割竹型木棺になった。板にする技術がないので木を刳り貫いたのかと思っていたが、逆だった。
大量の朱や青銅鏡だけでなく、大木をできるだけ元の形で使うのが新たな権力を誇る手段となったのだろうか。
※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」(福本明 2007年 新泉社)