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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/12/18

敦煌莫高窟の連珠円文は隋から初唐期のみ

 
敦煌莫高窟にも連珠円文はあった。文様はないが、伏斗式天井の角線などに隋時代の窟には連珠文帯がいたるところある。 たとえばこちら
文様について説明のあるものは、中国語の表記に従い、ないものは適当な名称をつけた。連珠円文ではなく連珠文とされているので文様の名称には連珠文を使った。また、引用文は中国文を適当に解釈しています。

狩猎(せき)連珠文 第420窟西壁龕両脇侍の裙(描き起こし図は図の下中央) 隋(581-618年)
壁龕の輪郭を白い連珠が縁取っている。そして一番外側に配置された一対の脇侍の裙に、連珠円文がびっしりと並んでいた。しかし、主文に何が表されているのか、図版ではよくわからない。
『敦煌莫高窟2』は、小袖長袍姿の騎象武士が棒を振り回して襲いかかる猛獣を打ち据えている。図様の起源はペルシアであるという。
解説の描き起こし図を見るてやっとわかった。象に乗った人物が後ろから襲いかかるトラを棒か刀で追い払っているらしい。象には翼が描かれているようだ。
ササン朝ペルシア(4世紀)の狩猟文杯の、騎馬の王が後ろから襲いかかるライオンに弓矢を向けている図に似ている。ササン朝の馬には翼はない。
太原市虞弘墓出土の棺槨にも、騎象の人物が後ろから襲いかかるライオンに刀を振り上げている浮彫があったが、連珠円文内ではなかった。象には翼はなく、丸い布が象の背中に掛けてある。敦煌の図もそのようなものを写したのだろう。ササン朝の騎馬狩猟文が起源だろうが、この図柄の直接の影響はソグドからのものだろう。 米字形蓮華連珠文 第402窟人字披頂部 隋(581-618年)  
同書は、人字披頂脊椎部を蓮華連珠文が装飾する。連珠文内は米字形(十字形交錯よりなる)蓮華図案で、隋代晩期に出現する新しい文様という。 
主文は四葉花文ではなく蓮華文らしい。第407窟窟頂にはよく似た連珠円文が半分になって垂飾の小札(こざね)に描かれている。
連珠円文列を白い連珠帯が囲み、両側の千仏との境界線となっている。このような連珠帯は隋窟の随所に見られる。 対馬連珠文 第277窟西壁龕口 隋(581-618年)
龕口の外に沿って対馬連珠文が描かれる。連珠の中心におのおの二頭の翼馬が向かい合い、その間には忍冬花叶文がある。左右対称が基本だが、微妙に変化がある。連珠文の代表作であるという。
この2つの連珠円文が交互に並んで文様帯をつくっている。左は天馬とすぐにわかったが、右は天馬というよりも騎馬人物像にも見える。 禽鳥連珠文 第401窟窟頂藻井 隋(581-618年)
伏斗式天井は外周に禽鳥連珠文があるという。
連珠円文内の鳥といえば首にリボンをつけた鴨や孔雀で、横向きだったが、ここでは正面向きの猛禽あるいは孔雀になっている。翼が褪色してわかりにくいが、翼を半分広げて威嚇している姿を表しているようだ。 花連珠文 第394窟北側 隋(581-618年)
風化がひどくて元の色や何を描いているのかわからないが、四弁花文もあるらしい。これも蓮華かも。 蓮華連珠文 第57窟南壁説法図脇侍菩薩の腹布 初唐(618-712年)
菩薩は衣服をまとわない姿で表されるが、初唐の菩薩は腹部に左肩から紐で吊したような布をつけている。その幅のある紐と布に連珠円文内に八弁花文が表されている。 敦煌莫高窟の連珠円文には、上下左右に方形文も小連珠円文もなかった。
初唐のほかの窟には連珠円文は窟頂藻井周辺の垂飾の中に見られる程度になってしまう。第329窟窟頂垂飾の小札の1つ1つに描かれているものが簡略化された連珠円文であることがわかる。
西方からシルクロードを通って運ばれた連珠円文が中原で中国化され、それが隋期になると敦煌でも表現されるようになったが、初唐になると蓮華文になって、連珠円文はなくなってしまう。連珠円文は、敦煌莫高窟ではごく限られた一時期にだけ現れた文様だった。

※参考文献
「中国石窟敦煌莫高窟2」(1984年 文物出版社)
「中国石窟敦煌莫高窟3」(1987年 文物出版社)