窟や仏像のデータは『中国石窟 永靖炳霊寺』(以下『永靖炳霊寺』)より。
1窟は水没、3窟は炳霊寺石窟の入口の近くにあった。2窟はどこにあるのだろう。
『永靖炳霊寺』は、高い懸崖の南の石窟群にあるという。
2窟 北魏、唐・明重修
二仏並坐像 如来高さ1.10m 北側菩薩立像高さ1.07m、南側菩薩高さ1.34m
『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)は、「妙法蓮華経・見宝塔品」に依拠して制作された釈迦・多宝如来の並坐像であるという。
大衣の長い裾が規則的な折畳文で表現されている。段々と脚部の盛り上がりが大衣に隠れてしまったり、大衣だけでなく、内着の裾も台座にかかって複雑になったりするようになっていく。
2如来は結跏趺坐しているので、やがて半跏趺坐するようになる二仏並坐像よりも早い時期に造られたのだろう。
炳霊寺石窟2窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
『炳霊寺』は、仏像は細身、着衣は双領下垂式で裳裾は台座に垂れる。
「秀骨清像、褒衣博帯」という中原の造像様式の影響を受けているという。
双領下垂式(襟が下にまっすぐ垂れている)の大衣、嵩の低い脚部にはほとんど衣文がない。
頭部については、釈迦如来は北魏らしいが、多宝如来はどうだろう。丸顔の上に髪の生え際が真っ直ぐで、お椀を被っているようだ。
『永靖炳霊寺』は、窟頂の壁画は剥落しているが、北壁には火焔文の頂光が残るという。
頭光は後世の重修で植物文様が描かれている。背後の蓮弁状光背の頂部や向かって右に坐す釈迦如来の外側などには線刻の落書きのようなものがある。
炳霊寺石窟2窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
左脇侍菩薩は天衣を着け、裙を履き、蓮台に立つという。
北魏窟群
125窟 アーチ形浅龕 龍頭龕楣 高さ1.60m、幅1.46m、奥行0.30m
その経典について『建築を表現する展図録』は、『法華経』見宝塔品には、霊鷲山で『法華経』を説く釈迦と大衆の前に、1基の大宝塔が地中から涌出する場面が記される。
涌出し、空中に浮いた宝塔の中には多宝如来の舎利が納められており、中から多宝如来が釈迦の説法が真実であることを大音声で宣言した。その後、宝塔内に入った釈迦は十万世界から集まった諸仏や菩薩とともに多宝仏の分身を拝し、さらに、釈迦如来は多宝如来に座を与えられ並んで結跏趺坐し、ともに法華経を説いたという。
私は長い間、座を与えるしぐさの向かって右が多宝如来だと思っていたが、右手を挙げて説法している釈迦だった。
『炳霊寺』は、釈迦、多宝如来が並坐する。その目は薄く開き、鼻唇は小さく、口角をわずかに上げる。着衣は下に伸び、彫りは浅い。これは北魏時代の経典によって造られたという。
できる限り自分の写真を使いたかったが、浅い衣文線がほとんどわからないので、『中国石窟芸術 炳霊寺』の図版から。
という。右足を組まずに外に出しているのを半結跏趺坐(半跏趺坐)というらしい。二仏並坐像が造像されるようになってからこの坐り方ができたようにも思える。
『永靖炳霊寺』の126窟の解説から、両如来の右足を出す坐り方が半跏趺坐であることを知った。
炳霊寺石窟125窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
麦積山石窟148窟の二仏並坐像に比べると、こちらの方が北魏仏らしい。角張った典型的な北魏仏の顔である。肉髻も高いが唐代ほどではない。
126窟 北魏、明代重絵 平面方形穹窿天井 高さ3.05m、幅3.75m、奥行2.95m アーチ形窟門
平面図
『炳霊寺』は、北魏延昌2年(513)、曹子元が資金を提供して修復した。窟内には石彫の三世仏、菩薩及び千仏像が総数115尊あるという。
炳霊寺石窟126窟平面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
正壁立面図 二仏並坐及び両脇侍菩薩
炳霊寺石窟126窟正壁 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
『永靖炳霊寺』は、如来たちは半結跏趺坐するという。
右足を組まずに外に出しているのを半結跏趺坐(半跏趺坐)というらしい。二仏並坐像が造像されるようになってからこの坐り方ができたようにも思える。
釈迦及び多宝如来が並び坐して説法する。彫像は痩身で、目鼻が小さくまとまった顔。着衣の裾は折畳文があるという。
多宝如来と左脇侍菩薩
脇侍菩薩の方が、目鼻がより中央にまとまっている。
北側面図 交脚菩薩像及び両脇侍菩薩像
炳霊寺石窟126窟北壁 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
交脚菩薩像を主尊とした三尊像
炳霊寺石窟126窟北壁交脚菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
菩薩なので宝冠や腹部で交差する天衣などを付けている。厚い着衣のためか、交差する脚部は強調されていない。その下で尾を接しながら威嚇している獅子が興味深い。
こういう見方をすると、各如来の頭部はみな円筒形に見える。
曹子元が資金を提供して修復した(『炳霊寺』より)というのは、この天井の亀裂のことだろう。
炳霊寺石窟126窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
周囲を立像や坐像の千仏が囲んでいるが、中心のものは不明。
思惟菩薩像
こちらを向いた菩薩の頭部は円筒形である。千仏群は浮彫だが、思惟菩薩像と供養者は半ば透彫で立体的。
128窟 北魏、明代重絵 平面方形穹窿天井 高さ3.50m、幅3.90m、奥行3.50m
『永靖炳霊寺』は、アーチ形窟門で、門両側に方形石柱、柱頭には蓮華、楣の下端に龍の首を彫り出すという。
132窟 北魏 アーチ形窟門 平面方形伏斗式天井 高さ3.50m、幅4.10m、奥行3.90m
平面図
126窟とほぼ同じ配置の窟。どちらが先かな?
炳霊寺石窟132窟正壁立面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
窟内の様子
各壁の如来像の上部には伏斗式天井の斜め台形壁面となっている。
伏斗式天井にはラテルネンデッケが浮彫される。ラテルネンデッケとは正方形が90度ずつ回転するように入れ子になり、段々と高さを増す明かり取りの天窓であるが、その用はなくなり、意匠だけが東漸したので、中央は塞がってしまった。
ウズベキスタン歴史博物館で展示されていたワラフシャ宮殿の復元図に空がのぞいているラテルネンデッケの天井があった。
その中心には蓮華と化仏、他の区画にも何か刻まれているようだが不明。小さな蔓草はあちこちに描かれている。
炳霊寺石窟132窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
窟頂図
蓮華と化仏ではなく、蓮華化生童子(『炳霊寺』より)が彫り出されていた。
正壁
二仏並坐像 総高2.60m
126窟正壁の二仏並坐像と同様に如来たちは半跏趺坐している。
北壁
交脚菩薩像 総高2.55m
両脇侍菩薩とで三尊像になっている。
脇侍菩薩
やはりこの窟でも如来や菩薩の頭部は円筒形だ。それに長い耳がついている。
南壁
一仏二菩薩像 如来総高2.50m
半跏趺坐する如来も両脇で立つ菩薩も説法印を結んでいる。
『永靖炳霊寺』は、高僧が修行している姿を写したようで、北魏宣武帝の延昌年間の代表作の一つである。壁画は明代重絵、明、清期に香を焚くのが流行したために黒ずんでいるという。
延昌年間は512-515年で、同帝が没したために終わる。
仏涅槃像 長さ2.15m
『永靖炳霊寺』は、仏光の背後に弟子が哀悼している。頭部に跪いているのは仏弟子の一人舎利弗であるという。
『炳霊寺』は、肉髻は低く、顔は四角く、目を閉じ、右手を枕にし、左腕は体にそわせている。丸い襟の袈裟はU字形の衣文を刻む。8人の弟子たちは腕を挙げたりして哀悼を表しているという。
枕元の舎利弗、背後の8人の弟子、ではもう1人は、まだ到着していない迦葉ということかな。
涅槃像といえば、移設された16窟の像がある。
炳霊寺石窟132窟南壁上部仏涅槃像部分 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
涅槃像といえば、移設された16窟の像がある。
仏涅槃像 長さ8.6m
説明パネルは、仏涅槃像はこの下15mにあった。1967年に堤防が建設される前に、撮影や記録が行われたあと、涅槃像は9つの木箱に入れられて窟から出された。2001- 02年に修復された後、元の窟の川向かい側の仏殿に陳列された。またこの窟の壁画は、 炳霊寺文物研究所内に保管されているという。
『炳霊寺』は、足には鞋を履いている。2001年に修復して、北魏時代の像容となったという。
パノラマ合成するとふっくらして別の時代のようだが、実物は北魏らしい角張った顎だった。
炳霊寺石窟16窟仏涅槃像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より |
関連項目
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館