窟や仏像のデータは『中国石窟 永靖炳霊寺』(1989年、以下『永靖炳霊寺』)より。
ただし、図版の解説と「炳霊寺石窟内容総録」で異なった解説があったりするので、当惑することがある。
また、同書では西秦-北魏とされている龕が、『中国石窟芸術 炳霊寺』(2015年)や『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』(2021年、以下『第169窟』)では西秦あるいは北魏と時代がはっきりとしてきている。『永靖炳霊寺』の図版には西秦-北魏と書き込んでいるものはそのままにしているものもある。
西秦時代に仏像や仏画が制作された後、北魏時代にも仏像が造られた。それは171窟の大仏の両側上部の169窟と172窟である。ちなみにこの大仏は唐代造像、明代重修の摩崖仏で高さは約30m。
大寺溝東岸から根性で写したらたまたまピントが合っていたものは、北壁前部の屏風状の仏龕に造られた一仏二菩薩像。『永靖炳霊寺』(1989年)では西秦から北魏とされていたが、『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』(2021年)では西秦時代になっていた。この場合は、新しく出版された文献の方を採ることにしているので、この仏像は次回詳しく。
しかも、その右手(東側)には6号龕との隙間に3段に如来坐像が安置されている。
5号龕 北壁後部仏龕 北魏 平面半円形、背屏龕 高さ1.19m、幅1.40m、奥行0.54m
『永靖炳霊寺』は、無量寿仏龕の背後壁右側に岩壁の間に上下3段のアーチ形龕がある。それぞれに一如来が結跏趺坐し禅定に入る像である。造像は北魏の秀骨清像系であるという。
秀骨清像には見えないのだが・・・ 如来の着衣も通肩や偏袒右肩で北魏前期のものだし。
『第169窟』は、扁平な肉髻で顔は細長い。結跏趺坐し偏袒右肩に大衣を着るという。
しかし、肉髻は高く大きく見える。水流文も表されているようで、目鼻を墨書している。耳も大きい。
胴部が短く見えるのは、下から撮影された図版だからだろう。
涼州式偏袒右肩の大衣は衣文の線が乱れがち。右足が出ているようにもみえるが、半跏趺坐というほどでもない。
8号龕 北壁後部仏龕 二身並坐像 北魏後期 背屏龕 高さ0.87m、幅0.87m、奥行15m
『第169窟』は、向かって左側は結跏趺坐し、禅定印を結ぶ、高さ0.47m。右側は倚像で両手を胸前で合わせる、高さ0.15mという。
頭部
『永靖炳霊寺』は、左側の如来は高い肉髻に水波文が刻まれる。二像とも首が細く、面長。秀骨清像の風格ある。北魏孝文帝が漢化政策を始めたので、南朝文化を吸収した影響が現れているという。
ということは北魏後期。
特に右如来は微笑みを浮かべている。
172窟 天然窟 高さ約10.00m、幅7.00m、奥行20.00m
『永靖炳霊寺』は、窟内北壁上部に一仏二菩薩像の塑像がある。禅定印を結び結跏趺坐する。北壁外側に石胎塑造の如来坐像、高さ0.90m。
北壁下部に北周期の五如来立像、高さ1.07mという。
一仏二菩薩像 西秦-北周 不規則な天然窟 高さ約10.00m、幅7.00m、奥行20.00m
内側から見ると、仏三尊像の下に北周期に五如来立像が造像されたことわかる。
『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)は、北魏早期の石胎塑造。高い肉髻、薄い唇。通肩に大衣を着て、着衣は台座を覆う。彩色は明代。西秦時代の造像様式が残るという。
両脇侍菩薩は高い髻に宝冠をつけ、左脇侍菩薩は両腕にかかる天衣を背後に回しているので、薄い裙が脚部に密着する表現がよく見える。特に右腕は長く、その割に脚は短い。
如来は右足を出して半跏趺坐する。北魏後期に出て来る形式だと思っていたが、早期にすでにあった。
U字形を描く衣文線は浅くぎこちない。
右脇侍菩薩の台座には、水面から出た茎が大きな蓮の葉内部を開き、そのしべが台座の縁に描かれている。これは明代の重絵ではなく、北魏時代の貴重な蓮華の絵であってほしい。
関連項目
参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館